東京から離れた地方都市の水族館とは言え、数ヶ月前にオープンしたばかりだっていうその施設は、まだどこか真新しい匂いがした。
海に面した水族館だ。売りは海原をバックにしたイルカショーと、日本一の飼育数を誇るペンギン。時間が合えば、ペンギンが散歩するところも見られるらしいけれど、今日は夕方にしかやらないらしい。
パンフレットを片手に、スロープ脇に設置された巨大水槽を眺めるの隣に立つ。青々としたアマモに身を隠すように泳ぐ魚を、は「わあ〜」と声を漏らしながら、その目で追っている。
「――、水族館好きだったか?」
「うん、すき! イルカもペンギンもアザラシも好き!」
「おー、そっか。そりゃ良かった」
「玲王くんもすき?」
「ん?」
「水族館!」
「ん、好きだよ」
親子連れや、俺達みたいなカップルで混み合う館内は、顔を近づけないとお互いの声もよく聞き取れないくらいだったが、俺の言葉に、は柔らかく笑う。照明の少ない薄暗い内で、の肌はいつもより青白く見える。
水族館なんて、初めてのデートの行き先としちゃあ安直だ。でも、はそんな「安直」さえも楽しんでくれているらしい。
「こんな遠いところの水族館、知らなかった。うれしい」
そんな風に笑ってくれるから、俺まで無性にこそばゆくなる。他にも候補はいくつかあったけれど、そんなに喜んでもらえるなら、悩んだ甲斐もあるってものだ。
八月ど真ん中の平日。夏休みの真っ最中となりゃ、どこに行っても混んでいるってのは子供でも分かるだろう。知っている人間に会わないように、かつ施設を貸切にするのも心情的にダメ、という条件から鑑みれば、遠出するくらいしか思いつかなかった。まあ、遠出っつっても日帰りできるように、その分早く家を出なくちゃならなかったわけだが、その道中だってと二人なら退屈しなかった。話すネタはいくらでもあったし、普通に喋っているだけで、あっという間に時間は過ぎ去ったから。
一つ一つの水槽を丁寧に見て回るは、時折こちらを振り向いて、「玲王くん、みてみて」って俺に促す。
「すごーい、きれい!」
大水槽のイワシの群泳は、光を反射してちかちかと瞬いていた。底の辺りを泳ぐエイ、水に沈む光線に身を晒すイシダイ。「あれはなんだろ?」って首を傾げるの目線の先を探す前に、隣に居た子供に「コブダイだよ。頭にコブみたいなのがあるでしょ」って教えられていたのには、ちょっと笑った。「ほんとだ、コブだ! 名前、そのまんまなんだね」って、軽く屈んで、目線を合わせて話すは案外子供の扱いが上手くて、「物知りだねえ」って手放しで褒めるもんだから、子供はあれもこれも、次から次へと魚の知識を披露してくれた。
「ほら、お兄ちゃんとお姉ちゃんにバイバイして?」
親御さんが気を利かせてくれなければ、最後まで一緒に回ることになっていたかもしれない。「すみませんでした」とこちらに会釈をする夫婦に、千風は「いえ!」って首を振る。獣医になりたいって言ってるけど、保育士も似合いそうなんだよなって、子供に手を振る後ろ姿を見ながら、心の端で考える。まあ、本人の適性となりたい職業ってのは別の話だ。自分にも刺さりかけるそれに、こっそり息を吐く。はそんな俺に気付かず、「小さい子、可愛いねぇ」って、眦を細めている。
触れあいコーナーで、二人並んでヒトデに触れた(硬くもなく柔らかくもない、面白ぇ感触だった)。珊瑚礁の揺蕩う水槽の鮮やかな熱帯魚は見慣れたもんだったが、は「おわ〜……」と足を止めて、しばらくの間それを眺めていた。壁の丸く切り抜かれた水槽に、数匹のクラゲがぐるぐると一方向に回っているのを見たが「洗濯機みたい、ドラム式の」って言ったのは、妙にツボに入ったな。動画まで撮ってたから、は洗濯機クラゲが気に入ったんだと思う。「それ、後で俺にも送って」って言ったら、「うん」って、は嬉しそうに頷いていた。
水族館は足元が暗いところが多い上に、やっぱりどうしても混雑していたから、途中から、手を握った。だって、知らない場所で迷子になっても困るだろ? 「ンッ!?」と声をあげたは、周囲の視線を受けて慌てて咳払いをしていたけど、そういうのを見ているだけで、俺まで胸の内側がむず痒くなった。の手は、俺のものより小さくて、柔らかかった。
でも、見たい生き物を発見したときのは、遠慮なく俺の手を引くのだ。
「あっ、ペンギン!」
さっきまで顔を赤らめていたやつと同一人物とは思えない積極さでもって、「はやくはやく」って、俺に振り向く。子供のときのの面影が、そういうとき、急にそこに浮かび上がるから、俺は「はいはい、行くよ」って、小さく笑ってしまう。
ペンギンを間近で見るには、内から一度外に出る必要があった。勿論触れはしないけれど、手すり以外に人とペンギンとを遮るものはなくて、そのおかげで距離が近く感じられるのが、は気に入ったみたいだ。
岩場のペンギンは次々水に飛び込んでいく。一際身体の小さいペンギンが、細く切り立ったような足場にかろうじて立っているのを見つけたは、「あの子、今まさに落ちんとす、では……?」と心配そうに見守っていたが、でもそもそも、小さかろうがなんだろうが、ペンギンはペンギンだ。足を滑らせたって、水に溺れることはないだろう。高さだって大したことはないし。真剣にペンギンを見つめるが面白くて、口にはしなかったけどさ。
でも結局そのペンギンは、最後までじっとその岩場に佇んでいた。あんだけ微動だにしないやつもいるんだな。ほとんどそいつのことを眺めていただったけれど、最後にはもう一周、ペンギンのゾーンを回った。「ペンギン可愛い、ずっと見てられる」っては言っていたが、外に長時間いるのは流石に暑くて、その後割とすぐに、は「やっぱ暑いっ!」って音をあげた。
カフェで軽く食事を摂ってから向かったイルカショーは、なかなか見応えがあった。
イルカがプールから高く飛び跳ねる度、は他の観客と一緒になって手を叩いたり、歓声をあげる。褒美に放られる魚すらも目で追うの目は、差し込む光に煌めいて、きらきら輝いている。
でも、どうなってんだろうな、あれ。自分の身体の倍以上の高さも難なく飛んでしまうイルカは、天井から吊下げられたボールも鼻先でつついてしまう。ある程度訓練は必要だろうけれど、そういう能力が最初っからあるってことなんだろうか。――あれぐらいの身体能力、俺にもありゃあいいのに。スピードもジャンプ力も持久力も、ユースの中じゃ平均値。筋田さんにそう言われたことを思い出してしまう。隣にがいるってのにもかかわらず。
イルカが着水した瞬間の飛沫が、前列の客に降り注ぐ。悲鳴まじりの歓声と、「ね、玲王くん、すごいね」って、隣のが聞き取りやすくするために寄せた身体の熱で我に返った。
「ん、すげえな」
折角今日一日休みを取ったっていうのに、この一月近くの日々が塗った色は、一枚紙を挟んだだけでは、簡単に滲んでしまうらしい。
紅潮した頬でイルカとトレーナーに惜しみなく拍手を送るの横顔を、漫然と眺める。
夢ができたんだ、俺。って、そう言ったら、は父さんと母さんみたいに、俺に失望するんだろうか?
これまで一度だって考えたことのないそれが脳裏をちらついたとき、微かに、胸のあたりに違和感を覚えた。それはどこか、緩やかな吐き気に似ていた。