仔細は知らされていないけれど、玲王くんのお誕生日は、朝早くから家を出ることになっていた。「ちょっと遠いから」だって。楽しみで、約束の時間よりも何時間も早く目が覚めた。夏の朝の良いところは、どれだけ早く目が覚めても、太陽がすっかり顔を覗かせていることだろう。光を取り込むためにカーテンを思いきり開け放つと、専用のベッドで眠っていたタマが尻尾をぺち、と振って、身を捩らせながら怒った。丁度彼女の顔面に、光の筋が真っ直ぐ伸びていたのだった。
「わ、眩しかった? ごめん……!」
タマの身体の下に手を差し込んで、ごろりと壁の方に寝返らせる。それでもまだ尻尾がぱたぱたって、大きく揺れていたから、「よ〜しよ〜し、今日も可愛いねえ」って、お腹をいっぱい撫でておいた。やがて満足したらしいタマのお尻をぽんぽんと軽く叩いてから立ち上がる。玲王くんが迎えに来てくれるまではまだ随分時間があるけれど、やることはたくさんあった。
顔を洗うとか、朝ご飯を食べておくとか歯を磨くとか荷物のチェックとかも勿論大事なんだけど、一番時間をかけてやらなくちゃいけないことは、やっぱりその先、今日着る服についてだ。
壁にひっかけておいた数着の服を見る。昨日ある程度は絞っておいたけれど、この中から相応しいものを選ぶって、やっぱり難題だ。朝陽の差し込む部屋の中、「どうしようかなあ……」って、ほとんど独りごちるように口にする。
こういうのってTPOがあるけれど、そもそも今日の行き先がどこなのか、私は知らされていない。「内緒」なんだって。とりあえず、誰か知り合いに見られる心配のないところ、っていうので、玲王くんが「ちょっと遠い」ところを選んだのは間違いないと思うんだけど。あとは、やっぱり私が行きたいって言った場所のどこか、ってことになるのかなあ。でも、どうなんだろう、玲王くんのことだから、そういうのも全部裏切ってきそうで、全然想像がつかない。
だけど、本当だったら玲王くんのお誕生日なんだし、行き先なんかは祝う側である私が決めなくちゃいけないんじゃなかったかな、って、ちょっと思ってしまう。いや、勿論玲王くんに対して、この件について思うところがある、なんて言いたいわけじゃない。ただ、申し訳ないような気持ちになってしまうのだ。こっちが色々考えたり、手配したりしなくちゃいけなかったはずなのに、結局玲王くん自身に全部やってもらってしまっているんだから。後で、ちゃんとお礼を言わなくちゃ。玲王くんのお誕生日なのに、全部任せてしまってごめんねって言わなくちゃ。そう心に決めながら、改めて並んだ洋服を見つめる。
最近お気に入りのノースリーブのワンピース(白地なんだけど、裾にラインが入っていてめちゃくちゃ可愛いのだ)は、ちょっと丈が短いかな。逆にお母さんがこの前出先で選んでくれたタイトスカートは大人っぽくてオシャレなんだけど、裾が長い分何か(そう、何かが)あったときに走れない。今日は暑くなりそうだから、首元まできっちりボタンをとめなくちゃいけないこのブラウスだと苦しくなりそうだ。これは一つボタンを外すだけで、随分だらしなく見えてしまうから、除外しよう。こっちのワンピースは風通しもよくて着心地は抜群なんだけど、この前の勉強会で着たばっかりな気がするし。
そうやって消去法で一つ一つ候補を削ぎ落としながら、そわそわと落ち着かない胸を両手で押さえる。冷静に洋服を選んでいるつもりでも、全然だめだった。唇を噛んでいないと、タマと自分しかいない自室で、にまにましてしまいそうだった。
だってデートなんだもん。
玲王くんと、初めてのおでかけなんだもん。
それだけで、耳の端っこまでが熱を持ってしまうくらいに身体がぽかぽかしてくる。玲王くんが迎えに来るまであと三時間。ベッドに倒れ込んで、わあ、って顔を押さえる。玲王くんのお誕生日を一緒に過ごせるなんて、こんなに幸せなことって、もうきっと、あんまりない。
「玲王くん、お誕生日おめでとうございます……っ!」
白いワンピースに身を包み、運転手を務めるばぁやに挨拶をしたは車に乗り込む直前、俺の顔を真っ直ぐ見つめてそう言った。
本当は、さっき玄関で顔を合わせたときに言いたかったんだろう。俺がおばさんに挨拶をしていたから、口にするタイミングを逸しただけで。「サンキュ」と笑えば、は安心したように「へへ」と笑った。下がった眉尻は、相変わらずの人の良さが滲み出ている。編み込みごと一つに束ねた髪の後れ毛を指先で弄りながら、は面映ゆげにその目を細める。
「一番に直接おめでとうって言いたかったのに、お母さんに先に言われちゃった……」
扉の開いたリムジンに乗り込んで一歩、思わず「は?」と声をあげてしまったのは、それが想定外の言葉だったからだ。確かにのおばさんは、「今日はをお借りします」と頭を下げた俺に、「お誕生日おめでとう。をよろしくね」って言ってはくれたけれど、でも、それが「一番」でないことくらい、だって分かるだろうに。
昨晩のことが脳裏を過ぎる。定位置に座りながら「覚えてないのかよ?」って尋ねたけれど、は「ん?」って首を傾げるだけだ。
が言葉を続けるより先に、わざわざ俺との間に一つ空席を空けて座ろうとしていたその手首を引っ張って隣に誘導したものだから、は「はぇ!?」と、返事なのか悲鳴なのかわからない音を口から漏らした。ぼす、と音を立てて、は俺の隣に収まる。掴みっぱなしの手をそのままに、もう一度「なあ、昨日の、覚えてねーの?」って確認すると、は俺と、掴まれた手首とを見比べる。
「お、覚えてないってなにが……?」
狼狽した様子で尋ね返すは、どうやら本当に昨日のことが記憶にないらしい。首を傾げるにため息を吐けば、は困惑した様子を隠す気もないまま、俺を見つめていた。
昨晩、日付が変わったタイミングで、は俺にメッセージを送ってくれた。
「十六才のお誕生日おめでとうございます。玲王くんの幼馴染みとか、婚約者、っていうだけじゃなくて、彼女としてお祝いができるのが、すっごくすっごく嬉しいです。今日は楽しみにしてるね。おやすみなさい」
クラスメイトや、中学の同級生、昔の先輩や後輩。誕生を祝うメッセージやスタンプは俺にかかわる多くの人たちからも届いたけれど、俺は皆に返事をするよりも先に、に電話をかけたのだ。だって、恋人にこんなこと言われたら、いくら数時間後に会えるって言ったって声が聞きたくなるだろ? ただでさえトレーニングで身体を限界まで酷使して、疲弊しきっていたんだから。
はちょっとの発信音の後、半分寝入ったような声で「あれ、玲王くんだぁ」って、むにゃむにゃした声で口にした。寝るところだったんだろうか。遅くまで起きていられないは元々予定がなければ、日付が変わる一時間前、下手したら二時間前にはベッドに潜り込む。だから、きっと俺にメッセージを送るためだけに起きていたんだろう。それで、どうにか送信した直後に寝落ちした。ちょっと悪いことをしてしまったように思えて、「ごめん、寝てたか?」って聞いたら、「寝てない!」って、思っていたよりも明快な声で否定された。
「大丈夫、起きてたから」
の声は、嘘偽りなどなさそうなくらいにはしゃんとしていた。第一声がたまたま眠そうに聞こえただけか、そう思い直したのだ、俺は。
その時にした会話は、だけど、ほんの少しだけだ。「メッセージ見た、ありがとな」って言う俺に、「ううん、玲王くん、お誕生日おめでとう」って、は耳がくすぐったくなるくらいに柔らかな声で言った。「だいすき」とも。
それが、身体中に一気に血が巡るような感覚に陥るほど俺を喜ばせたのに。
なのに、まさかこいつ、覚えてねえのか?
眉根を寄せたままを見つめる。はまったく、不思議そうな顔で俺を見つめ返していた。薄ら化粧の施された目が、やがて困ったように伏せられる。「あの、手……」って、か細い声で言われたけれど、むしろ力を入れて手を握り直した。
「寝ぼけたまま電話なんか出るなよ……」
思ったより懇願するような声音で漏れたそれに、え、との唇が動いたのと、車が動き出したのはほとんど同時だった。の顔は、暑気のせいか、それとも別の何かが原因なのか、徐々に赤くなっていく。どうにももう一押しくらいしてやりたい衝動に駆られて、玄関でを見たときから思っていた「今日の服、似合ってる、可愛いな」って、ほとんど脈絡もなく続ければ、は泣きそうに顔を歪めて、俺の視線から逃げるように顔を背けた。
「あ、ありがとうございます……」
俺に掴まれていない方の彼女の手は、白いワンピースの、ラインの入った裾のあたりをぎゅうと握りしめていた。