「どっか行きたいとこある?」
八月の上旬、電話越しの玲王くんにそう聞かれたとき、私は一瞬、思考が停止してしまった。
「そっ……それは、夏休みの間に……ってこと?」
たっぷり三秒は経ってから尋ね返す。玲王くんはそれだけで、微かに笑う。
お父さんの工房に行った、翌々日のことだ。この夏休みの間、相変わらず玲王くんは忙しそうで(御影コーポレーションの次代を担う人間として、やることはたくさんあるんだろう、きっと)、勉強会をすることはあっても二人でお出かけらしいお出かけをしたことは一度もなかったから、「そうそう」っていう玲王くんの言葉に、動揺と喜びで舞い上がってしまった。思わず緩んでしまう口元を慌てて隠す。……電話してるんだから、そんなことしたって玲王くんには全然見えないのにね。
「夏休み、結局どこも出かけられてねーしさ。の勉強の息抜きも兼ねて、どう?」
「え、わー、わー……い、いいの……? 玲王くん、忙しいんじゃ……」
「いや、だからって流石にどっこも行かないとかねーだろ。俺ものこと、あんま構ってやれてねーの気になってたし」
「わ、わあ……!」
構ってやれてない、って言葉にどうしてか胸がぎゅわ、となって、困った。なんでだろう、ふわふわしていたところを両手で挟み込まれて、そのまま捕まってしまったみたいで、心臓がばくばくする。顔が熱くなって、空いている手で頬にそっと触れる。色んな種類の「嬉しい」がそこに全部詰まっていて、ともすれば溢れてしまいそうなくらいだった。顔がにやけて、ほとんど無意識に口にしてしまった「やったぁ」って声が、微かに上擦る。
玲王くんと行きたいところなんて、数え切れないくらいにあった。
お買い物も行きたいし、遊園地とか水族館にも行きたい。水着姿に自信はないけれど、プールとか海も絶対に楽しいし、お祭りでたこ焼きとかかき氷も食べたい。そんなことをうんうん言いながら挙げていたら、「知り合いには会いたくないんだろ? じゃあもううちのレジャープール貸し切る?」ってとんでもないことを言われて、「いやっ」って思わず首を振ってしまった。玲王くんは時折、発想が規格外だ。
玲王くんが言っているのは、御影コーポレーションが経営するあのウォータースライダーが充実している、このあたりでも有名なプールのことだろう。中学生のとき、椿山のお友達グループで出かけてめちゃくちゃ楽しかった記憶がある。あそこで玲王くんと過ごせたらどんなに良いだろう、という気持ちは勿論あるけれど、でも、貸切なんてだめだ。私一人のために、誰かの楽しみを奪ってはいけない。だってもしかしたら、その日、そのプールにどうしても行きたい人とかいるかもしれないでしょう? 例えば明日には単身赴任先の海外に戻らなければいけないお父さんと息子が一緒に過ごせる最後の一日、行こうと約束していた思い出のプールに「本日貸切」ってお知らせがされていたら、そんなの悲しすぎる。――と一息に話したら、玲王くんはふは、って笑った。「想像力逞しすぎんだろ」って。
「ま、でもそーいうのもないとは言い切れないよな。……うちのマンションのプールなら問題なさそうだけど流石に味気ないし……とりあえず、今回プールは外しとくか」
「んん……折角案出してくれたのにごめんね……私が行きたいって言ったのに……」
「いーって。他んとこにしよ。……あ、そーだ」
スマホの向こうで、玲王くんが一拍置く。
「一応俺の誕生日に出かけるつもりでいるんだけど、良い?」
てか十二日って、終日空いてんの? 続けられた言葉に、「はぇ」と漏らしてしまったのは、自分がそれを、全然想定していなかったからだった。
計画の滑り出しは順調だった。
フィジカルチェックを経て始めたジムでのトレーニングは俺の要求通りにハードなものだったけれど、成果が目に見えるのは有り難い。ここ数日で、身体に変化が出ているのは明白だった。元々それなりに、必要な筋肉はつけてあるつもりだったんだけどな。サッカー選手になるためには、全然足りなかったらしい。
専属トレーナーの筋田さんは、俺と、かつて彼が指導してきた選手とを度々比較した。彼曰く、俺の身体レベルはそれと同等だということらしいが、んなもん、俺からしたら煽りと同等だ。例え筋田さんが褒め言葉のつもりでそれを言っているんだとしても。だって、並の選手程度じゃあ困るのだ、俺は。例えユースだとしても、そこで「並」でしかない選手がワールドカップに出られるわけないだろ。黙々とトレーニングをこなす俺を、筋田さんは称賛した。「ドMでも音をあげるくらいハードなのに」って。どういう例えだよ。
まあ何にせよ、身体作りっていう下地はできつつある。もうすぐ、それこそ誕生日の後くらいからサッカーの基礎練に入る計画になっているわけだが、そうなってくるとどうしても気になることがあった。
本格的にサッカーを始めれば、との時間はこれまで以上に少なくなるだろう、ってことだ。
からの連絡にすぐ返事ができない日が続けば寂しい思いだってさせるだろうし、デートらしいデートも、たまにしかできない。今のところあいつは、俺が「御影コーポレーションに関連する何か」で多忙を極めていると思っているようではあるけれど、それでも一生勘違いしたままでいるかどうかは定かじゃない。何か違和感を抱いたとき、のことだ、まーた何か変な勘違いをするに決まっている。それこそ、他に誰かと会っているんじゃないか……とかさ。あいつって、自己肯定感が妙に低いのが欠点だよな。そこが良いところでもあるんだろうけど。
隠しきれなくなるまではサッカーについては黙っていようと思ったが、あいつを傷つける可能性があるならもう、先に白日の下に晒しておくべきだ。疚しいことなんか全然ない、サッカーしてるだけだから、って。でも遠慮すんなよ、って。何かあったら飛んでいくし、これから先時間が全然作れないわけじゃないんだから、って。そっちの方が、余程誠実だ。真っ直ぐなには、真っ直ぐ向き合うべきじゃないだろうか。
そう思ったから、誕生日に時間を取った。
俺の夢を諦めろと一蹴した父さんの前では一度引いてみせはしたが、父さんは俺がサッカーをしたいのだと告げて以来、どこか距離を取って俺を眺めている節がある。いくらばぁやが全面的に協力してくれているからと言って、金も大きく動かしているし、御影の施設で起きていることを把握していないわけがないだろう。家ではほとんど顔を合わせないけれど、監視されているのは分かっていた。だから、正直言えば、俺の誕生日に商談が入ったと言った父さんの腹の内も分かるのだ。
じゃあ、二人で食事に行こうか、って提案してくれた母さんには、悪いけど首を振った。黙ってたけど、実は先月からとちゃんと付き合うことにしたから、二人で出かけるわ、って言ったら、母さんは目をまん丸くして、「まあ、そうだったの?」って、声に微かな喜びを孕ませる。は俺と違って、早々におばさんに打ち明けたらしいから、そこ経由で話は行っているもんだと思っていたが、そういうところ、ちゃんとしてるんだよな、おばさん。
というわけで、誕生日はトレーニングも休養日にし、まるまる一日空けたわけだが、はそう口にした俺に、「おばさまと過ごさなくていいの……?」って念を押す。慎ましいのは美徳だが、あんまり遠慮されてもな。
「なんでがいるのに母親と過ごさなきゃなんねーんだよ。俺と一日一緒は嫌なわけ?」
「まさか! う、嬉しいよ、すごく……。ただ、お誕生日はいつもおじさまたちとお食事するって言ってたし、ほんのちょっとだけ会うくらいのつもりだったからびっくりしちゃって……」
電話の向こうで、の声が微かに震えている。あ、嬉しいんだな、これ。そう思ってつい顔がにやけた。俺が顔をにやつかせていることなんて、は全然気付いていないんだろうな。「わー……」って噛みしめるように口にしてから、「すごい、たのしみ」って、ほとんど独りごちるみたいに呟いた。
「不束者ですが、よろしくお願いします……」
それ、なんか前も聞いたな、って気がついて、今度こそ声を出して笑ったけれど、はスマホの向こうで、え、え、って困惑しているだけだった。早く会いたいな、って思ったけれど、格好悪い気がして、口にはしなかった。