元々そんなに夜型の人間ではないから、何か特別なことがなければ日付が変わるまで起きているなんてことは滅多にない。
 でも、今日は間違いなくその「特別」な日だ。だって玲王くんから電話がかかってくるんだから。
 今日玲王くんに教えてもらった単元の問題を解き直しながら、私は五分置きに、机の上に置いたスマホを確認してしまう。日付が変わったら、って約束だから、まだ三十分は先のはずなのに、電話があると思うとそれだけで全然落ち着かない。ちょっと気を抜くと、ふわふわ、そわそわしてしまって困る。せめて問題を解いている間くらいは集中したいのに、それすらも難しい。
 一日の終わりに玲王くんの声が聞ける、お話ができるなんて、身に余るくらいの贅沢なんじゃないだろうか。そうじゃなくたって、今日はお部屋に来て勉強を教えてくれたのだ(結局、おしゃべりとかおやつ休憩が多かったような気もするけれど)。こんなに幸せなんじゃ、いつか盛大なしっぺ返しを食らってもおかしくない。
 背後にある、玲王くんが座っていた場所をちらりと振り返った。数時間前まで、玲王くんは私のお部屋にいた。そんなことを思い出すとじわじわ色んな感情が込み上がってきて、堪えきれなくなる。わあって声をあげて、顔を覆いたくなる。
 玲王くんと一緒にいる間、本当は気が気じゃなかった。だって、何もかもが近すぎたのだ。玲王くんの髪はさらさらで、指なんかすらっとしてて、でもちゃんと男の人のそれで。テーブルに置かれたそれが視界に入る度、この手と恋人繋ぎしちゃったんだ……って事実が脳裏をちらついて、いや、ちらつくどころかど真ん中に居座るくらいの存在感をもって私の思考を圧迫した。一挙手一投足にいちいちドキドキした。声とか体温、玲王くんを形作るもの全部がいつもよりずっと私の傍にあって、本当は全然、勉強どころじゃなかったのだ。
 の部屋で勉強するのなんて、これが初めてってわけじゃないだろ、って玲王くんは言うかもしれない。でも一回目のときはテストの前日でそれどころじゃなかったし、あの頃退院したばかりだったタマも、あの日はずっと玲王くんの足元に転がっていたから、あんまり二人っきりって感じがしなかったのだ。
 でも、今日は違った。
 お付き合いを始めて約三週間。私たちはその間、映画とかお買い物みたいなデートらしいデートなんかはしていないけど、幼馴染みとか形だけの婚約者だったこれまでと違って、世間一般で言うところの「恋人」っていう枠に、徐々に収まりきろうとしている。連絡は前よりずっと頻繁だし、おはようとかおやすみとか、前だったらしたくてもできなかったやりとりを当たり前のようにしている。昨日の帰り道、あんな風に手を繋いだのだってそう。そういう、日々の、三週間分の積み重ねが私の背中に降り積もっていたから、余計に緊張していたのだ。もしかしたら、そう、もしかしたら、勉強っていう名目だけど、なんか、こう……進展というか、何かがあるんじゃない? って、期待七割、不安三割の気持ちを抱いてしまって。だって私たち、ここまで順調に進展しているから。だからキスくらい、しちゃうかも、って。
 そしてそれは実際、ほとんどその通りだった。
 お誕生日の話をした後だった。当日の約束ができて、嬉しさと安堵で胸を撫で下ろした私の頭を、玲王くんはほとんど慈しむみたいに撫でてくれた。丁寧に髪を梳かれて、それだけで息もまともにできなかった。抱いていたクッションにぎゅうって力を入れて、身体を縮こまらせていたら、玲王くんの指が私の顎を、あんまりにも自然な所作で掴んで、それで、それで。



「うわぁ〜……ッ!」



 ぶわ、と顔に熱が籠もって、振り払うみたいに頭を振る。そのまま身体を机の方に戻して、開いたノートに半身を突っ伏した。
 こんな風に思い出して一人で取り乱すのは、玲王くんが帰ってから三回とか、四回目だ。さっきもお風呂の中で思い出して沈みそうになったし、部屋に戻ってからも、変形するくらい抱きしめていたクッションが転がっているのを見て息を飲んだ。それくらい、だって、攻撃力がすごかったのだ。
 玲王くん、睫毛、長かった。私の手首を掴んだ手は熱くて、大きくて、身を乗り出されたとき、私のことを丸ごと覆った影に、食べられちゃうんじゃないかって思った。「いい?」って、きちんと尋ねてくれる掠れた声も、微かに触れた鼻先の硬さも、ちゃんと覚えている。ありありと思い出しながら、「わぁ……」ともう一度呟いた。キス、するところだった。結局してないけど。心臓、飛び出そうだった。死ぬかと思った。
 突っ伏していた身体を起こして、熱くなった頬に両手を触れる。



「ドキドキしたぁ……」



 結局未遂に終わって、良かったような、ちょっとがっかりしたような。自分の中でも整理しきれないそれとどう向き合ったら良いのか分からなくて、大きくため息を吐く。今日のこと、一生忘れないんだろうなっていう確信だけが、きちんと私の中に浮かんでいる。
 でも。いつまでも浸っている場合じゃない。ぎゅ、と唇を引き結んでシャーペンを手にしたのと、机の端っこに置いていたスマホが振動したのは、ほとんど同じタイミングだった。








「はいっ、です!」



 予定よりも少し早い時間だったし、いきなりかけたって出ないかもしれないな、とは思ったけれど、はすぐに電話に出た。日付が変わる、十五分前。昼間一緒にいたはずなのに、こうして声を聞けるのは妙に嬉しい。
 筋肉疲労はマッサージで取り除いたはずなのに、の声を聞いた途端、その奥の神経とか、そういったもんが緩むような感覚を覚える。「こんばんは」って丁寧に挨拶するに、「ん、お疲れ」って返せば、はくすぐったそうに笑った。イヤホン越しだと、こっちまでこそばゆくなって、つられて小さく笑う。



「勉強してたか?」

「ん、し、してたしてた……」

「はは、嘘下手すぎだろ」

「う、嘘じゃないよ、してたよ、あんまり集中できなかっただけで……」



 ちょっとは問題解けたもん、と言い訳するを、つい「おー、偉いじゃん」と甘やかしてしまうのは、これからのことを考えたらあんまり良くないことかもしんねーな。でも、「ふふ」ってちょっと得意気に笑うに厳しいことを言うのは気が引けた。いや、勿論言わなきゃいけないときは言うけどさ、今日は多分、俺と電話するっていうので気が散っていたんだろうなってのはわかるから。
 の声は、思ったよりふわふわしていなかった。「まだ眠くないか?」って尋ねると、「ん、まだ平気」って、柔らかい声が返ってくる。



「玲王くんは?」

「俺も別に。――でも明日も早いから、ちょっとしたら寝るわ」

「玲王くん、忙しいもんねえ。眠くなったら遠慮しないで言ってね」

「や、こっちの台詞な。夜更かし苦手なの、だろ」

「そうだけど、でも玲王くんもちょっと声、疲れてる気がして」



 そうとは知らずに核心をついたに、ちょっと面食らう。「そんなことねえよ」って笑みを含んだトーンで流したけれど、そっか、声に出てたか。気を付けなきゃな。にはまだ、知られて良い段階じゃない。
 今日ジムで行ったのは、俺のフィジカルチェックだった。ばぁやが御影の名を使って引き抜いてくれたJリーグのトップフィジカルコーチである筋田さんは、俺の計測結果を見て「ユースの選手と遜色ない」と称賛していたが、いくら比較対象がそこらへんにいないような優秀な選手達とは言え、その中で平均値、と言われてしまうと、どうにも面白くない。恵まれた環境と生まれ持っての才能、それらをもってして「平均」の枠に収まることなんか、だって、あっていいわけないだろ。だから、ハードなトレーニングになることは承知の上で、最速で結果が出るように俺を鍛えてほしいと筋田さんには要望した。初日から楽なトレーニングじゃなかったけど、これもプロになるため、夢を叶えるための一歩だと思えば、苦では無かった。
 実際、疲労が微塵も残っていないと言えば嘘になる。でも、の前に並べて見せるもんでもねえから、の目からそれが遠ざかるように、「そういや今日のおかき、美味かったな」って話を変えた。そんなことは露知らず、「でしょ〜! あれねえ、のり味もあるの」って、楽しそうに声を弾ませるは単純で、やっぱり、俺にとって一番の回復薬である気がした。


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