そりゃあ夏だし、俺だってと行きたいところはいっぱいあった。
 流石に旅行は無理でも、プライベートビーチとか、花火とかさ。人混みでもみくちゃにされるような祭りでも、汗だくになるような野外フェスでも、とだったら絶対に楽しいし、良い思い出になる。
 俺達みたいな帰宅部の人間には予定なんかほとんどない夏休み、本当だったら、の勉強を見るのに費やして、たまに、そういうところに息抜きで出かけられりゃあいいかな、って思っていた。と付き合うことになって、まだ日の浅い頃は、そう考えていたのだ。
 だけど、そういうわけにもいかなくなってしまった。どうしてって、俺にもやりたいことができたからだ。俺は、「それ」を見つけてしまった。出会ってしまった。
 その時の衝撃は、きっと一生忘れられないだろうと思う。
 夏休みを目前に控えた深夜だった。デスクに置いた液晶が、遠いモスクワを映していた。
 スタジアムを覆うような大歓声の中、芝を駆ける男たち、計算された、完璧なボールの軌道、それを可能にするだけの身体能力と、目には見えない経験、彼らの努力、ゴールネットを揺らした瞬間の熱狂。掲げられた金杯が画面に映った瞬間に、ああ、これだ、って思った。俺もあれがほしい、って。あそこに立ちたい、って。そんな風に何かを欲しいと思ったのは、初めてだった。俺が欲しかったものは最初からこの手にあったか、欲するより早く、呆気なく手に入るものばかりだったから。
 欲しいものはどんな手段を尽くしても必ず手に入れろ。
 簡単に手に入るもので埋め尽くされた世界だと思っていたから、「それ」が今の自分から果てしなく遠い場所にあることに、ほとんど死にかけていた感覚が刺激された。到達するまでの道のりが困難であることが、俺にどれだけの希望を与えたか。父さんも、やってみろって俺の背を押すだろうと思ったのだ。だって「どんな手段を尽くしても必ず手に入れろ」と俺に教えたのは、父さんだったんだから。
 けれどワールドカップで優勝したいのだと言った俺を、父さんも、母さんも、歓迎しなかった。首を振って、馬鹿げているとでも言わんばかりの目で、諦めろと言ったのだ。サッカー選手なんて一握りの選ばれた人間にしかなれないのだから。今から始めたところで追いつけるはずがない。お前は一流のビジネスマンになるんだ、と。
 納得なんかできるわけがない。だって他に見つかる気がしなかった。あんな風に全身の血が沸騰したような感覚に陥ることも、それ以外の音が遮断されたようになることも、もうきっとないと思った。到底到達し得ない高みにいる彼らを、俺は尊敬した。
 お前のためを想って言っている。そう両親に言われたときの、失望とも怒りともつかない感情は、今も尚この腹に燻っているけれど。
 だからと言って、それで諦めるような人間ではないのだ、俺も。
 これまでのように与えてくれないのであれば、自らそれを掴み取るまでだ。
 すぐさま計画を練った。俺がワールドカップで優勝するために。まずはプロになるところから、そのための最短ルートを、する必要のあることをリストアップした。自分のレベルアップは勿論、サッカー選手になるには、白宝のサッカー部も利用しなければならない。高校の大会で優勝すりゃあ、あの人達だって文句は言わないはずだ。そうすれば注目もされてスカウトの目にも留まりやすいし、一石二鳥だろう。とは言え、弱小サッカー部を優勝に導くなんてことが容易くないのは間違いない。紙の上ですら困難は多かったが、それにすらも燃え上がった。ばぁやに協力を仰いで、そのための人材も集め、今や「計画」はもう始まっている。俺はサッカー選手になる。障害は排除するし、どんな手だって使う。あれを手に入れるためならなんだってしてやるさ。それを俺に教えたのはあの人たちだ。
 この一週間足らずの間に起きたありとあらゆる変化についてを、けれど俺はに一切を伝えていなかった。自分の心境に、これだけの変化があったにもかかわらず。
 の前にいるときは、俺は彼女の恋人として振る舞いたかったし、気を遣わせたくもなかった。例えこの話をにしたら、は「じゃあ私の勉強なんか見てる場合じゃないよ!」と言うだろう。自分に時間を使うべきだと。誕生日の話題だって、きっと遠慮してしなかった。下手したら祝いたいとも言わなかったはずだ。食事面が徹底的に管理されていることを知ったら、「これめっちゃ美味しいんだよ……!」って、最近ハマっているっていうチーズおかきを差し出しはしなかっただろうし、この前テレビで観たっていう眉唾物の健康法を教えてくれることもなかった。そういうのが全部面白く、愛おしかったから、の前では、サッカーのことは遠くに追いやりたかった。俺の夢に、を巻き込む気は無かった。
 キス未遂の件があったり、つい話し込んだり、タマだけでなくおばさんが部屋に入ってきたりしたせいもあってか(おばさんは母さんの話を二三するとすぐに出て行ったが)、その日、の勉強はあまり進まなかった。「今度計画表でも作るか」と言った俺に、は「け、計画表かぁ……」と露骨に顔を顰めていたけれど、俺の立てる計画は、まあまあ間違いないと思うぜ。だって最終的に、俺は穴のないそれでプロに上り詰める予定なんだから。
 夕方になり、玄関まで見送ってくれたとおばさん、タマに挨拶をして別れ、迎えの車に乗ったときには、俺の頭はもう切り替わっていた。の恋人で、婚約者である御影玲王は影にまわり、今脳を支配するのはワールドカップを目指す野心家の御影玲王だ。「玲王坊ちゃま」運転席に座るばぁやが、バックミラー越しに俺を見る。



「ご予定ですと、これからフィジカルチェックのためジムに向かうことになっておりますが」

「ん、分かってるよ。よろしく」

「承知致しました」



 飴色に染まり始めた空を、遠くの建物が黒く切り抜くのを見る。
 もしも俺があの日ワールドカップに出会ってなければ、俺は自分の欲しいものを見つけられないかわりに、無謀にも思えるの夢を応援するだけだっただろう。それはそれで、きっと悪くはなかった。出かけるとか、恋人らしいことも、きっともっとできるはずだった。だけど今はただ、わくわくしている。この高揚をに伝えられないのは惜しいような気もするけれど、あいつには、隠しきれなくなるまではこのままでいてもらおう。の前でくらい、俺はに遠慮の一つもされることのない恋人でいたいのだ。
 ポケットの中でスマホが振動する。からの新着メッセージに、無意識に口元が緩む。



「今日はありがとう。とーっても楽しかったです!」



 それから、ルークに似た犬がでかいハートを抱きかかえて、「だいすき!」って言っているスタンプが時間差で届いた。せめて文章で言えよ、と思う。そういうところ、結構恥ずかしがるんだよな、こいつ。
 次の約束は来週だ。その頃には俺の計画もまた一歩先に進んでいるかもしれないけれど、その時もが隣にいるだろうことを思えば、全ての障害も乗り越えられる気がする。
 「俺も好き」って、スタンプじゃなくて文章で返したら、何か思うところがあったんだろう。既読がついてからちょっとして、「夜、ちょっと電話してもいいですか?」って返事が来た。スマホに入れたスケジュールを確認する。でも、そもそも今日は帰りが遅い。二十三時までしっかり埋まっているそれを見て、「日付が変わるまで起きてられるか?」って尋ねた。どうせ、起きてるよ、って言うんだろうな。その頃にはうつらうつらしてるくせに。
 眠くなると普段の倍は柔らかくなるの声を思い出して、小さく笑う。「うん! 勉強して待ってる」って返事が届いたのと、ジムの立体駐車場に入り込んで手元が僅かに暗くなったのは、ほとんど同時だった。適当なスタンプを送ってスマホをポケットに入れる。吐いた息は、思ったよりもやわい。俺はの存在に、自分が思っていた以上に支えられていることを、こんなときに自覚する。


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