「玲王くん、もうちょっとでお誕生日だね」



 そう言われたのは夏休みの初日、の家で勉強を見てやっていたときのことだった。



「あ?」



 不意をつかれて、思わず短く返事をして顔をあげると、は既にシャーペンをノートの上に放り、アイスコーヒーの溶け始めた氷をストローでぐるぐる掻き混ぜながらつついて、視線を分かりやすく彷徨わせている。結露の滴り始めたグラスの中身は、ミルクを二つ入れた分だけ、俺のものよりも色が明るい。
 時計を見ると午後二時半。俺がこの部屋を訪れてから既に三十分強が経っていた。休憩だなんて言ったつもりはなかったし、そもそもが解いている問題集だってまだ二問目だ。もう集中力が切れたのかよ、と薄ら呆れもしたが、別に今日は前回と違ってテストの前日ってわけでもないもんな、と考え直す。だったら何も、根を詰める必要もないだろう。なんだかんだ、俺はに甘い。



「……あー、誕生日ね」



 「そういえばそーだな」と続けながら足を崩すと、は意図を汲んだのか、分かりやすく相好を崩した。俺に合わせたのか、慌てて正座を崩すは、四隅の丸い木目調のローテーブルの脚にごんと自分の足をぶつけていたけれど、全然気付いていないみたいに「ね、夏生まれだもんね」ってにこにこ笑っている。半月先の話ではあるが、にとっては大きいイベントみたいなもんなんだろう。俺からしたら自分の誕生日なんかどうでもいいが、の誕生日は盛大に祝ってやりてえなとは思うし、その気持ちは分かる。
 の部屋は、綺麗に整頓されていた。掃除するって言ってたし、俺が来る前に片付けたんだろうな。ベッドもデスクも本棚も、小物や細々としたインテリア品が多く、見ようによってはごちゃついている印象も与えるが、女子らしい部屋という括りを作るならば、の部屋はその範囲から少しも逸脱することなくきっちり収まるに違いなかった。薄いレースのカーテンも、肌触りの良いラグも、甘い香りを放つルームフレグランスも、全部の好きなもんでできてるんだろうな、って思ったら、丸ごと自分のもんにしちまいたいような気がした。気がしただけだ。
 の部屋のローテーブルは横に長い長方形で、必然的に俺達は同じ一辺に並んで座ることになる。の顔を真正面から見るために身体の向きを変えたら、はけれど、ちょっと目を丸くして、同じようにこちらを向きながらも、腰を軽く浮かせてやや後方にずれた。本能なのか、明確な意識を持ってのことなのかは――どうだろうな、わかんねえけど。
 スカートに覆われた膝の上に手を置いて、は言葉を選ぶように視線を落とす。



「ええと、その、それで」

「うん?」

「お、お誕生日のご予定、なんかは…………」



 言葉を詰まらせながらもそう尋ねるは、手近にあったクッションをほとんど無意識といった様子で抱きかかえた。白く毛足の長いカバーのかけられたもので、時々ぼんやりしているとタマに見えて、間違えて踏んづけたときにひやっとすると、この前が話して聞かせてくれたものだった(だったらカバー変えろよ、と思うけど、気に入っているんだろうな。相変わらずそれは、視界の端に置くとタマに良く似ている)。
 が何を言わんとしているのかは薄々察せられて、そうすると、格好はつかないが自然と顔が緩んでしまう。そんなんで隠せるわけはないとは分かっていたが、テーブルに肘をついて頬杖をして、表情を隠した。



「なに、祝ってくれんの?」



 なるべく感情が乗らないようにそう尋ねる。俺はの前では、できる限り余裕を持っていたかった。なんつーか、彼氏ってそういうもんじゃね? わかんねえけどさ。
 はクッションを抱きかかえたまま、やや前のめりに「お祝いしたい……っ」と口にして、それから我に返ったように元の姿勢に戻りながら、「……んですが、おじさまやおばさまとご予定があるのなら、全然、日を改めても……」ともごもご続けるから、笑いそうになる。こいつ、何て言うか、色んな方面に気を遣うよな。もうちょっと我儘になってもいいのに。が俺の顔を見るのを待ってから、口の端に緩い笑みを乗せる。の表情は、それでもまだ、微かな緊張を孕んでいる。



「……両親と食事には行くかもしんねーけど、別に、朝から晩までなんかするわけじゃねーよ」

「えっ、そうなの? なんかこう……観劇とか、お客さんを呼んでパーティとかしないの?」

「あー、まあ中学のときまではそーいうのやったこともあるな。でもこの年になってまではねーだろ」

「ね、ねーのか……」

「ねえよ」



 まあ、パーティなんかはやりたがるだろうけどな、あの人達も。でも、もうガキじゃねえし、付き合う義理もない。そもそも、「今の状況」じゃ俺だって平然と笑える気もしないしな。
 放心しているのか、思考しているのか、表情からは読み取れなかったが、はやがて「じゃ、じゃあ」と上擦った声をあげた。



「あの、半日でいいので、来月の十二日は玲王くんのお誕生日のお祝い、したいです……」



 クッションを抱きかかえたまま、若干頬を染めて、窺うように俺を見つめるに、「ん」って目を細めた。



「して」



 それだけで、これまでの緊張が全部吹っ飛んだような顔では笑うから、俺まで胸の内側からくすぐられたような感覚に陥ってしまうのだ。
 ほとんど無意識に、に手を伸ばす。その頭に触れた瞬間、けれどの肩はびくりと跳ねた。首元までボタンの止められたブラウスは、制服よりも袖が短くて、白い腕が露わになっている。そこに落ちる髪を指先で梳く俺に、は「わ、わ」と目を白黒させていて、つい喉の奥で笑う。昨日手を繋いだときもそうだったけれど、は恋人らしい接触に、とんと弱い。男に免疫がないんだから当たり前か。……あったら困るんだけどさ。
 の髪は、俺のとはやっぱ、髪質が違った。滑らせるように、頭皮に触れるか触れないかの程度で髪を梳き続ける俺に、がくすぐったそうに身を捩る。「うう」唸るような微かな声に、悪戯心が芽生えるのは、それは俺が男で、のことが好きだからだ。
 視界の端には、テーブルに広げられたノートと問題集がある。コースターの上に置かれたアイスコーヒーのグラスはもうほとんど氷が溶けていて、こんなことしてる場合かよって訴えてるようにも見えたが、それらを全部思考の外に追いやって、に向かって身を乗り出した。
 クッションを抱きしめたまま恥ずかしそうに目線を下げていたは、不意に落ちた俺の影に気がつくと、ぎょっと目を見開く。髪を撫でていた指先を頬に滑らせて、細い顎に触れて持ち上げれば、この後の展開を察したらしいが「ぅえっ!?」って上擦った声をあげた。
 付き合い始めたのが七月の頭だから、かれこれ三週間。その間何度か一緒に下校したし、手だって繋いだ。でも、それ以上はまだない。それってさ、ガキの頃となんも変わらなくね? 俺は男だからさ、せめてキスくらいはしたいんだけど。
 狼狽した様子で俺を見つめるに、「いい?」って低く尋ねる。何するにも、同意は得ねぇとな。は俺に顎を掴まれたまま、視線を緩く彷徨わせて、けれど最後には、虫の鳴くような弱々しい声で「はい……」って頷いた。



「良い子」



 従順に目を瞑るに、俺の中にある支配欲が満たされていくのを感じる。睫毛の先が緊張で震えていることすらも愛おしかった。ほとんど無意識に、もう片方の手での手首を掴む。びくりと震えたそれは、俺のものと違って、必要なもんがちゃんとあるのか疑わしいくらい細い。の緊張が伝わって、面白くて、小さく笑った。目一杯力を入れて目を閉じているらしいに、顔を近づける。鼻先が触れる。俺の掴んだ手が、ぎゅ、と握られる。
 その唇に触れるまであと少し、って時だった。部屋の扉の向こうで、がりがりがり、って、奇妙な音がしたのは。



「あっ!」



 目を閉じていたが、ぱっとその双眸を開く。咄嗟に顎に添えていた手を放したのは、俺も驚いたからだ。ドアを何かで勢いよく擦ったような音だ。流石にのとこのおばさん、ってことはないだろうけど、その扉の向こうに何かがいるのは間違いない。
 立ち上がったが「まってまって今開けるから」と言いながらドアを開けたとき、弾丸のように飛び込んで来た白い物体があった。――タマだ。
 タマは俺の膝に真っ先に飛び乗ると、勢いよく俺の胸に前足をつける。さっきリビングでのおばさんに挨拶したときは昼寝でもしていたのか、反応が鈍かったんだけどな。ぴんと張った耳も、大きく揺れる尻尾も、光を受けて輝く目も、あの日に抱かれていたときとは似ても似つかないくらい元気そうで、「おー、タマ、元気じゃん」とその頭を撫でる。
 ……邪魔をされたな、って気持ちもないわけではなかったけれど、こればっかりはしょーがねえか。
 頬のあたりをべろりと舐められた瞬間、が「タマッ!」と叫んですっ飛んでくる。



「ちょっとー! だめだよ、私もまだしてないんだから……ッ!」



 は、自分がとんでもないことを口走ったのにきっと気付いていないんだろう。想定外の言葉に思わず噴き出したけれど、白い毛玉の向こうにいるは不思議そうな顔で俺を見ているだけだった。その目がはっと見開かれるのは、数秒後のことだ。


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