夏休みと言ったら、お祭りとか、花火とか海とかプールとか、イベント事で溢れかえっているっていうのに、私の予定は真っ白だ。いや、夏休みの間に何にも予定がないわけじゃなくて、そういう、夏ならでは! って感じの予定が一つもないっていうだけの話なんだけど。
 予定はある。そう、学生の本分である「勉強」だ。理系科目が苦手なくせに獣医学部志望の私は、この夏玲王くんにみっちり勉強を見て貰うことになっていた。返却されたテストを玲王くんに見せたら、「これで獣医学部は無謀だろ」って、割と低い声のトーンで言われてしまったのだった。自覚があるとはいえ胸に刺さる。実際無謀なのだ。数学も、生物も、ちょっとだけとは言え平均よりも下だったし、どっちも最後は短期記憶になりがちな暗記で乗り越えてしまったようなものだったから。
 図書館の自習室とかだと人の目についてしまうだろうからっていうことで、お互いに予定がない日は、私のおうちで勉強を教えてもらうことになった。玲王くん自身は外でも問題なさそうだったけど、そういうところは、私のことを気遣ってくれているんだと思う。私はやっぱり、玲王くんと二人でいるところを誰かに見られたら、居たたまれなすぎて縮こまっちゃうと思うし。夏休み明けに「なんであの子が?」って顔でヒソヒソされてしまうのは避けたい。
 ……ってことを考えたら、お祭りも花火も海もプールも、そもそも行けないのかも、ってことに気がついてしまう。だってそんなところで誰かに会ったら、それこそ「幼馴染みだから」で乗り越えられない場面なんじゃない? 逆の立場で考えたら、そういういかにもな場所で誰かが二人でいるところに出くわしたら、「付き合ってるんだ!」って思っちゃうし。
 悶々としていたら、「おい」って隣から顔を覗き込まれて、短い悲鳴と一緒にちょっとだけ飛び跳ねてしまった。玲王くんの顔はいつも完璧に整っているから、突然顔を近づけられると心臓に悪い。
 夏休みを目前に控えた帰り道だった。梅雨もすっかり明けて、からっとした、突き抜けるくらいに高い青空の下、私たちは二人並んで帰路に就いている。人の少ない通りを、玲王くんが引いてくれている自転車の前輪が、のんびり回っていた。そういう一つ一つを確認してからようやく、私は半袖のブラウスの胸のあたりに両手を寄せて、玲王くんの顔をじっと見返す。――そうだった。今、下校中だった。



「今聞いてなかっただろ、話」

「き、聞いて……なかったです」

「大分ボケッとしてたもんなー」

「ボケッとじゃないもん、考え事してたんだもん……」

「ふーん?」



 玲王くんの口角が緩くあがる。私を見透かすように細められた目に、「ご、ごめんなさい……」と謝りながらもつい視線を逸らしてしまう。
 日焼け止めをどれだけ塗りたくっても、首の後ろがじりじりするくらい暑い午後だった。明日から夏休み、っていうので、今日はいつもよりも下校時間がずっと早い。下着の中を汗が垂れていくのが分かって、気持ち悪い。頭のてっぺんで燦々と輝く太陽の熱さに、ちょっと眩暈がした。
 家の近くの遊歩道沿いは木々がたくさん植えられていて、日陰が多い。ようやく人心地ついたようで、そっと息を吐いた。濃い色をした二人分の影が、伸びた枝葉のそれに飲み込まれる。勢いを増す蝉時雨は、雨の中にいるみたいに耳を揺らしている。その音に紛れるみたいに、玲王くんは言う。



「で、とりあえず明日お前んち行くつもりでいるけど、平気?」



 多分、私が「ボケッとしていた」ときも、玲王くんは同じ事を聞いてくれていたんだろう。弾かれたように顔を上げる。木々の葉が作る、木漏れ日と呼ぶにはまだらな模様が、玲王くんの顔に落ちていた。



「平気ッ!」

「はは、食い気味じゃん」

「食い気味になっちゃうよ! やったー、嬉しい、楽しみ!」



 つい顔がにまにまと緩んでしまうけれど、仕方ない。お祭りも花火も海もプールも本当のことを言えば行きたいけれど、私は、やっぱり玲王くんと一緒にいられるだけで充分幸せなのだ。夏休みの初日からおうちに来てもらえるなんて、例えただの勉強会であったとしても嬉しい。
 玲王くんが来てくれるなら、お母さんは勿論、タマも絶対に喜ぶ。勉強は好きじゃないけれど、一人でやるよりは絶対に捗るし、良いことしかない。



「へへ、帰ったら掃除しなきゃ」

「そのまんまでも気にしねえけど。前も綺麗だったじゃん」

「や、あれだって慌てて片付けたんだよ!」



 タマが病院から帰ってきた翌日の日曜日(要するに、数学のテストの前日だ)、タマの様子を見に来てくれた玲王くんが、直前の追い込みに付き合ってくれた日のことを思い出して、慌てて首を振る。「別に気にしなくていーのに」って玲王くんは笑いながら微かに首を傾げるけど、そんなわけにはいかない。とりあえず、テーブルに広げたまんまの雑誌とか小物類はちゃんと片付けなくちゃ。今朝急いでいて蹴飛ばしてしまったせいでベッドの下に入り込んでしまったタマのボールも、忘れずに回収しよう。あとは、この前雪崩を起こしてそのままにしてある本も。
 自分の部屋の現状を思い出していたら、玲王くんがふはって笑う。「眉間やべーぞ」って。皺の寄っていたらしい部分を指で突かれるものだから、びっくりしすぎてめちゃくちゃ目を見開いてしまった。固まったままの私に、玲王くんは「ん」って手を差し出す。玲王くんの腕は、小さいときよりも太くて、血管が浮き出て見える。私とは全然違う形をしている。
 一緒に帰るとき、玲王くんはこの遊歩道の途中くらいで、いつも私の手を繋いでくれる。学校から離れて他の生徒の姿が完全になくなって、かつご近所さんの目もほとんどないこのあたりは、私たちが外で恋人らしくいられる、数少ない場所だった。
 でも。
 全身にじっとりかいた汗を自覚して、玲王くんから半歩距離を取る。



「わ、私、今暑さで手汗すごい……」

「俺もすごいけど?」

「嘘だあ……いつもさらさらだよ玲王くんは……」

「いや、いつもさらさらなわけねーだろーが」



 胸のあたりに引き寄せていた手を、玲王くんは有無を言わさずに掴んだ。「ひえっ」って悲鳴が漏れる。身体が変に動いて、葉っぱの隙間から差していた光が一瞬、目に入る。世界はあっという間に白んで、だけど、私の手には玲王くんの温度と感触があった。やっぱり玲王くんの手の平は、私のと違って、さらさらだった。いつもより、ちょっと熱いだけだった。
 玲王くんは、でもそのまま、私の指と自分の指とを絡めるみたいに手を繋ぎ直す。玲王くんの指の関節の、ごつごつした感じが、指先に伝わる。びっくりしすぎて声も出なくて、思わず玲王くんの顔を見上げた。だって、いつもはなんか、もっと、っていうか、子供のときとおんなじような繋ぎ方しかしてなかったから、こんなちゃんとした繋ぎ方、初めてだったから。
 指一本一本の感触が直に伝わる。絡めるみたいにちょっとだけ擦られて、くすぐったさにびくりと身体が揺れる。
 私の頭より一個分くらいは上にある玲王くんの目は、悪戯っぽく笑っていた。「ほんとだ、手汗すげー」って言われて、我に返る。慌てて手を離そうしたのに、玲王くんはそういうのも全部分かっているみたいに、ぎゅって指先に力を入れた。全然離せなくて、「うぐぅ……」と唸ってしまう。玲王くんは、ただただ、「はは」って、息とも声ともつかない音で笑って、それから私の手を引いた。がっちり掴まれた手は、私の意思ではもう切り離せないものみたいだった。それで私は、もう観念してしまう。



「……楽しみだな、明日」



 色んなものが内包されているような声で言いながら、玲王くんは私に目を細める。いつもタマが匂いを散々嗅いでいく梢の木で、蝉が鳴いていた。あんまり得意じゃない昆虫を視界の端に置いても、心臓の鼓動は全然、やむ気配がない。「は、はい……とても……」って何とか返したら、玲王くんは短く、声をあげて笑った。


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