欲しいものはどんな手段を尽くしても必ず手に入れろ。
 両親はそう俺を育ててきたけれど、あらゆる策を講じるまでもなく、何もかもが手に入る人生だった。なまじ、大抵のことなら何でもこなせちまうせいだろうな。成績優秀、運動神経も抜群、顔も悪くない……いや、なんなら良い方か。最初に配られた手札がバグってるせいで、金で手に入るものは勿論、形として見えないもの――例えば人からの評価、信頼、友情や愛情なんてのも、手に入れるのはそう難しいことじゃなかった。まあ、それは俺が御影コーポレーションの御曹司、なんていう肩書きを持っているからだってのも、俺はちゃんと分かっているけどな。
 は、初めからそんな俺の隣にいた。俺の周囲を埋め尽くす取るに足らないものたち同様、両親が与えてくれたものだった。父親同士が、学生時代からの親友だったのだ。
 さんのことは良く知っている。彼がいかに情に厚く、真摯で、無欲であったか、父さんは昔から俺に話して聞かせてくれていたから。当時から浮世離れしていたさんは、野心家の父さんには物珍しく見えたのだろう。陶芸に関することが九割、それ以外のことが一割、そういう形で占められていた彼の脳は、他人と自分との線引きすらも曖昧だったらしい。
 陶芸家として器だけを作り続ける、顔に似合わない無骨な手。父さんは彼の作品を、手を、目を、その性根を愛していたから、彼と彼の愛した妻が育てた娘であるを、俺の婚約者という形で繋ぎ留めようとした。……父さんらしいよな。
 は人懐っこく、表情が豊かな子だった。親からの愛を一身に受ける彼女は、足の先から頭のてっぺんまで、いつもきらきらして見えた。生まれたときから一緒にいるっていうゴールデンレトリバーのルークは兄のような顔でに寄り添っていて、俺はそんな二人が好きだった。あの頃あの二人だけが、微かに色づいて見えたのだ。



「玲王ちゃん、楽しそう。うちでも犬、飼おうか?」



 そう笑う母さんに首を振ったのは、別に犬が欲しいわけじゃなかったからだ。俺はとルークが、あの家の窓際に座っている姿を、目に焼き付けるようにして見た。そこには何か、言いようのない完全さがあった。必要なものがすべてそこに当然の形と収まっているような。は「ルーク、私といるときより楽しそう」とふて腐れていたけれど、あれは賢いルークが、俺を二人の間に入れるための儀式というか、ポーズのようなものだったんじゃないかって思う。
 ルークの輪郭が、陽の光に滲んで曖昧になっているのを見ると、どうしてか、時折怖くなった。そっと手を伸ばすと、けれどそこには柔らかく温かい、肉と被毛の感触があった。空気中に舞う毛の奥でもまた同じようにルークを撫でた。小さな白い手が、汚れ一つない爪の先が、俺の指の先に触れた。くすぐったそうに笑うも、満足そうに鼻を鳴らすルークも、あの頃の俺は大切に思っていたから、だからルークが俺達の前から消えた秋、火葬場に行けないというお前がベッドの中で泣きじゃくっていたその隣で、俺はただ、傍にいるしかなかった自分のことを許せずにいたのだ。
 何の力にもなれなかった。助けてやれなかった。泣いているを慰めることすらもできなかった。毛布の中から漏れる泣き声は、小さくなったり、大きくなったりした。をベッドから動かしたのは、の両親が遺骨を連れて帰ってきたときの、車のエンジン音だ。悄然とした顔で、彼女はベッドから起き上がった。見ていられなくて、その手を取った。
 あの日は確か用事があって、の両親と入れ替わる形で俺と母さんは出なければならなかった。母親同士が声をひそめて会話するその横で、俺は戻って来た骨壺を視界の真ん中に置いたまま立ちすくんでいるを見た。思わず名前を呼んだとき、はその日初めて、俺の名前を呼んだ。「玲王くん」って。譫言みたいに弱々しい声音だった。涙で腫れた目だった。



「今日、きてくれて、ありがとう」



 笑おうとしているのに、上手く口角が上がっていなかった。そんな風に下手な作り笑顔を見せられるくらいなら、縋り付いて、泣かれた方がよっぽどマシだった。
 あれから俺達は疎遠になって――って言っても、一年に一回は必ず食事会をしてはいたから、縁が切れたわけではなかったんだけど、はちょっとだけ、俺に壁を作っているように見えた。まあ、ガキじゃないんだし、いつまでも昔みたいにはしてらんねえよな。あの頃何度か繋いだ手は今テーブルの端と端にあったし、俺達を繋ぎ留めるのはもう、父親同士がした約束だけだ。けれどデザートを美味そうに食べるは、まだどこかあの日の面影があった。目が合うと、は一瞬ぱっと視線を下げて、それから恐る恐る顔をあげる。そうしてから照れくさそうに笑ったは、俺から少し遠かった。喪失から少しずつ回復していくを、ただ見守っていただけだった。









 病院からの家に向かう途中で車を降りたのは、二人で話がしたかったからだ。
 並んで歩きながら、は、タマを助けてくれてありがとうと、何度目になるかわからない言葉を口にした。良いって言ってんのに、律儀なやつだよな。一生ありがとうって言う、なんて続けるから、流石に笑った。
 だけど命に別状はないと聞かされたときは、俺もほっとしたのだ。ルークとは似ても似つかない、白い綿毛のような小さな犬。枝を咥えて悠然と歩いていたあいつが、俺とルークの代わりにの傍にいてくれていたというのなら、俺はあいつを何に代えても助けたかった。
 それに俺はもう、が泣くのだって、見たくはなかったから。だから、良かった。タマに大事がなくて、本当に。
 雨に濡れたアスファルトが、湿った匂いを放っていた。時折、歩道に溜まった水たまりが音を立てて跳ねた。俺達が病院にいる間降っていた雨はもうやんで、雲間から微かな光が差し込んでいた。もうすぐ梅雨が明けるらしい。
 病院に向かう車の中、ばぁやの指示の下、氷を入れた袋をタマに押し当てていたの切迫した表情を思い出す。水分の多く含まれた目だった。ああいう顔を目の前でされて、初めて、ああ、これ、嫌だわって思ったのだ。がこんな顔をするのは、嫌だって。
 はぽつぽつと、俺を避けていたことを謝罪する。「どう接したらいいかわからなくて」と縮こまりながら謝る横顔も、別に、見たいわけじゃなかった。俺はに笑っていてほしかった。ルークと一緒にいたときみたいに。タマと散歩していた日みたいに。
 待合室にいる間、とルークのことを思い出していた。が弾くピアノも。炭みたいだったブラウニーも。ルークが死んだ日のことも。涙で湿った手も。椿山の制服も。黒板を消したときの悲鳴も。くじ引きも。一緒に残った放課後も。が送るルークにそっくりな犬のスタンプも。文化祭も、一緒に食ったカップケーキも、打ち上げのときの、上手くも下手でもない歌も、お前が俺に泣いたのも。それらを並べて見たとき、俺は、初めて自分の中で、音を立てて全てがはまったことに気がついた。何もかもが腑に落ちた気がした。
 が好きなのだ。俺は。



「……それで、どう俺に接したらいいかは分かったか?」



 両親から与えられたものでしかなかったお前を、俺はちゃんと好きだった。
 信号が赤に変わる。立ち止まったは、じっと考え込むように、自分の中に作っておいた答えが本当に正しいかどうかを探るような目で、俺を見た。は恐らく、もうずっと、答えを決めていたんだろう。俺はそれを、受け止めなくちゃならない。お前が下した結論が俺のそれと違ったとき、素直に譲ってやれる自信はないけれど。
 「私」とがすかすかの声を吐き出すのに、それなりの間隔があった。は真っ直ぐ俺を見つめる。その双眸が、切れた雲間からの光に照らされる。
 の顔を見つめ返す。「うん」と答えたとき、は泣いた。



「玲王くんのことが好き」



 普通の形で生まれることのできなかった俺とは、ずっと、色んなところが歪だった。


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