「次、―」
「はいっ!」
テスト返却でざわつく教室の中、小走りで先生の元へ向かう。五月、教壇の上に立つ先生に、「もっとがんばれよー」って言われたのは記憶に新しく、私は緊張で気持ち悪くなりながらも、両手で答案用紙を受け取った。
薄目で恐る恐る確認する。丸とバツと三角の混在するそれは、パッと見ただけではどれくらいの点数なのかわからなかった。ドキドキしながら右上に書かれた二桁の数字に思いきって目をやったのと、先生が「にしては頑張ったな」って言葉を添えてくれたのはほとんど同時で、それで、思わず「わ〜!」と声をあげてしまう。返却前に先生が言っていた平均点より、二点低いだけだったのだ。前回が平均より二十点も下だったことを思えば、すごい進歩だ。
思わず、玲王くんの方を見る。玲王くんはテストを受け取る私のことを、自分の席からちゃんと見ていてくれて、私は二重で嬉しくなる。玲王くんも表情だけで私がそれなりの点数を取れたことが分かったらしい。その眦を微かに細めて、微笑んでくれた。数学のテストの前日だった日曜日、退院してきたタマのお見舞いも兼ねてわざわざ私の家に来て勉強を見てくれた玲王くんに幻滅されるのは嫌だったから、どうにかギリギリ、首の皮一枚繋がったことにほっと息を吐く。よかった。ほんとによかった。平均点より下だけど、大躍進だ。
「さん」
名前を呼ばれたのは、席に戻るときだ。ざわつく教室の中でそっと目線を彷徨わせれば、三浦くんが自分の席からこちらを見上げている。「どうだった? テスト」相変わらずほとんど表情の動かない三浦くんだけど、一度私の惨状を見ている彼は、私のことを気にしてくれていたんだろう。思ったよりも点数が良かったのも相まって、顔が緩みそうになる。
「前より良かった! 三浦くんも、その節は大変お世話になりました……!」
「や、俺なんもしてないし。でも点数あがったんなら、良かった」
教えてもらったのはあの一回だけだったけれど、彼曰く「死にそうな顔」をしていた私は、あの時三浦くんに教わっていなければここからさらに点数を取りこぼしていたのは間違いない。
改めて三浦くんにお辞儀をして、今度こそ自分の席に座ろうとしたとき、視線を感じて顔を上げる。それで、ひえ、って悲鳴をあげるところだった。だって玲王くん、さっきまでとは打って変わって、すっごい顔でこっちを見ていたから。
他の男の子から勉強を教わるな、って言われていたけれど、もしかしてこういうのもだめなんだろうか。ちょっとお話しただけなのに。玲王くんって、案外嫉妬しいだ。そういうの、自分に全然自信がない、私みたいな人間がするものだって思っていた。
ポケットの中でスマホが振動する。先生がまだ他の生徒にテストを配っているのを確認して、こっそり通知を確認したら、玲王くんから「おい」ってだけ届いていて、わ……、となった。通知を見るだけならまだしも、先生の目を盗んで返事ができるほど私は器用じゃないから、そのままスマホをポケットに戻してしまう。あとでごめんねって言った方が良いのかな。嫉妬してもらえてちょっと嬉しいなんて、それはおかしいかもしれないから、絶対に口にはしないけど。
隣の霧島さんに話しかけられたとき、こっそり視界の端に引っかかるように玲王くんを見た。玲王くんはもう、隣の席の男子と涼しい顔で会話をしている。窓からの光で、玲王くんの輪郭はちょっとだけ白んでいた。あの人と私が幼馴染みで、婚約者で、それからちゃんと恋人になったなんて、今でも信じられなかった。
玲王くんのことが好きだと伝えたとき、私は感情が昂ぶったせいで泣いてしまっていたから、玲王くんが実際どんな顔をしていたのかなんて、私には全然分からなかった。
雨の匂いの残る、夕暮れにはまだ早い時間帯だった。リュックサックはそのまま私を地面に沈み込ませるくらいに重かった。言うつもりのなかった言葉が私の首を緩く締め上げるようだった。言ってしまった、とは思ったけれど、でも、後悔はしたくなかった。この関係に縋り付いていた私は、最後まで足掻かなければならないと思ったから。例えどれだけみっともなくても。これで完全におしまいになったとしても。とどめを刺すのが自分であっても。
玲王くんのことが好きだった。いつか玲王くんに好きな人ができたら、私はその人にこの場所を譲らなくてはいけないだなんてどれだけ殊勝なことを思っても、私は本当は、大人になっても、おばあちゃんになっても玲王くんの隣にいたかった。
ずっとずっと好きだった。嫌いになんかなれるわけも、諦めることができるはずもなかった。
だから、玲王くんが笑ったとき、私はそれが自分に都合の良い幻覚だと思ったのだ。
玲王くんは笑っていた。「ははっ」て、声をあげて。滲んだままの視界をどうにかしようと目を拭おうとしたとき、でも、ぐいって腕を引っ張られた。バランスを崩しそうになって、咄嗟に一歩前に足を出す。歩道に溜まっていた水が跳ねて、生ぬるい温度をもって、私の脛に飛んだ。だけど、そんなのもう全然気にならなかった。「良かった」って、玲王くんがそっと耳元で息を吐いたから。
「俺もが好きだよ」
それは紛れもない玲王くんの声だったから、私はすっかり、息を止めてしまったのだ。
信号は、いつの間にか青になっていたらしかった。玲王くんは私の腕を掴んでいた手を一度離して、その手の甲で私の目を拭った。クリアになった視界の先で、玲王くんは、慈しむみたいな目で私を見ていた。
わけがわからなくて、言葉はどれだけ時間をかけてもちゃんとは染みこまなくて、ただただ、一度は止まっていたはずの涙がぼろぼろ落ちて行った。声をあげて泣きたくて、でもできなくて、ただ一回、「嘘だぁ」って言った。「馬鹿、嘘なんかつかねえよ」って笑った玲王くんの声だけが、私の皮膚を撫でるみたいに優しかった。
「好きだ」
もう一回、確かめるみたいに玲王くんが言った。玲王くんの伏せられた睫毛に、光の粒が落ちていた。ルークの背にあったそれに、良く似ていた気がした。
でも、本当は今でも、夢なんじゃないかって思ってしまうのだ。「おい」っていうメッセージは、確かに私のスマホに残っているのに。そう言ったら、玲王くんは、呆れるか怒るかするんだろう。昼休みにこっそり「ごめんね」ってスタンプを送ったら、既読マークがつくのとほとんど同じタイミングで、「だめ」って返事が来た。これも玲王くんの独占欲なんだろうか。そう思ったら、やっぱりどうしても、胸の内側がむず痒い。
「個人的に三浦と連絡取り合ったりはしてねえんだよな」
「えっ、してないよ」
駅やバス停と方向が違うっていうのもあって、下校時間を少しずらせば、帰り道に生徒の姿はほとんどなくなる。
とは言え毎日だと流石に噂されちゃうかもしれないから、一緒に帰るのは週に一回だけって約束を、私と玲王くんはしていた。だけど玲王くんの方は私と婚約者って知られようが、そもそも全然問題なかったらしい(それを知ったとき「本当に!?」って声をあげてしまった。どうやら私が色眼鏡で見られるのを避けるために、皆には幼馴染みで通したらしい。そんなことにも気付かないでやきもきしていたなんて、本当に申し訳なかった)。とは言え、やっぱり私に「それ」は荷が重い。だから、今まで通り周囲には、幼馴染みで通すことにしたのだ。
でも、私の自転車を引いてくれる玲王くんを視界に入れると、こそばゆくなってしまう。恋人みたい。って舞い上がってしまって。へら、と頬を緩める私に、玲王くんはそっと眉根を寄せた。「なーに笑ってんだ」玲王くんはまだ、三浦くんと時折話をする私のことを、良く思っていないらしい。連絡を取り合うどころか、三浦くんの連絡先さえ私は知らないのに。
「めんどくせえ……。三浦にだけ釘刺しときてえ……」
「そ、そんなことする必要ないよ。三浦くん、絶対私なんか興味ないし」
「……お前だけ指輪でもしとくか? 指、何号?」
「没収されるよ……っ」
私の手元をじっと見て言う玲王くんに慌ててつっこんだけど、玲王くんは「はは、冗談」って小さく笑うだけだった。冗談が冗談に聞こえなくて、心臓に悪い。
病院からの帰り道、じゃあ正式にお付き合いをしましょうってなったとき、「お前は俺になんか言っときたいことないの?」って言われた。他の男に勉強を教わるな、って玲王くんが私に言った直後のことだった。
その時頭に浮かんだのは玲王くんが女の子たちを含んだメンバーで参加していた「勉強会」のことだったし、玲王くんもそのつもりで、それについて私が訴えやすい空気を作ってくれたんだと思う。でも、私が口にしたのは、「他の女の子と二人で勉強会っていうのは、嫌……です」だった。玲王くんの交友関係を狭めたくないのもそうだったけれど、いざ自分が恋人っていう立場になったら、なんだかそういうのは瑣末なことのように思えた。多分、その時玲王くんが繋いでくれていた手が、優しかったからだ。大切にしてくれようとしているんだっていうのが、ちゃんと伝わったから。玲王くんは、「しねーよ」って、困った顔で笑った。その笑顔も、酷く優しかった。
気を抜くと、はあ、ってため息が漏れそうになる。多幸感でいっぱいになって、ふわふわしてくる。これから夏休みだし、そうしたら玲王くんと、どこかにお出かけできるかもしれない。玲王くんのお誕生日だってもうすぐだ。プレゼント、どうしようかなあ。花火とかも行きたいなあ。そういうことを考えると、私は今、自分がとんでもなく無敵の女の子になったような気になってしまう。
「なーにニヤニヤしてんだよ」
どこかから蝉の音がする。和らぐ気配のない夏の日差しは、虹彩を焼くみたいに熱い。ニヤニヤ、って指摘された顔のまま、「夏休み、楽しみだね!」って隣を歩く玲王くんに言ったら、「お前は勉強漬けにするけどな」って言われて、ひえ、と声が漏れた。声のトーンが本気だったから。
この間、玲王くんに目指している進路の話をしたせいか、玲王くんは私の成績を、物凄く厳しい目で見ている。このままじゃどう考えても無理、だって。理系科目がてんでダメなのに獣医さんになりたいなんて、やっぱり過ぎた望みなんだろう。でも、玲王くんは「どうにかするか」って言った。「わざわざ白宝を選んだくらい、本気なんだろ」って。そう言われたら、やる気も漲って、やったるぞ! のスタンプを連打したいくらいだった。次の日に分厚い問題集を渡されたとき、そのやる気は半分くらいに落ち込んだけれど。
でも、私は自分の歩いている道が、きらきら光って見える。祝福に包まれている気がする。これから先どんなことがあっても、玲王くんが隣にいてくれるならなんだってできるって、そう思う。
自転車を引いてくれている玲王くんに、半歩近づく。周囲に誰もいないのを見計らって、一瞬だけその腕に額をくっつけたら、玲王くんは「ルークみてえ」って、小さいときみたいな顔で笑った。