お母さん達がキッチンでお茶をしている間、庭に面した日当たりのいいリビングで、私たちは二人、ううん、三人で、並んで座っていた。
 子供の頃の話だ。私たちの真ん中には、いつもルークがいた。お母さんが気に入っている、細長いフランス窓から差し込む陽光が、ルークの金色の毛にいくつもの粒子を作っていた。撫でる度に、それが空気中にぱって散るみたいだった。大きな黒い鼻は、時折ふん、て音を立てた。それを聞く度、私と玲王くんは内緒話でもするみたいに二人で顔を見合わせて笑った。私は普段思慮深い玲王くんの目が、そういうとき、少し意地悪そうに細められるのが好きだった。
 玲王くんは私よりも、ルークのことが好きだったんじゃないかな。私と同じくらい、ルークに話しかけていたし。お部屋でするパズルに飽きると、玲王くんはルークを連れて庭に行ったから(玲王くんは、結構飽き性だった)。
 当時うちの庭はまだ庭木が少なくて、ルークが走り回るのに充分なスペースがあった。肘から手首くらいの長さの、大きくてふわふわな尻尾が揺れるのを見るのが好きだった。玲王くんがボールを放ると、ルークはあの巨体からは想像もできないくらいの速さで駆け出した。深い茶色の目は、外で見ると微かにオレンジがかっていて、生き生きとしていた。男の子同士、何か通じるものがあるんだろうか。私と遊ぶときは、いつももうちょっと、ルークはおざなりに走っている気がするんだけどな。



「投げ方じゃないの? はさ、多分、力が足りないから」

「そうかなあ……」



 力かあ、って、試しに渡されたボールを思いきり投げてみると、それは私たちの目の前で叩きつけられて、大きくバウンドして、在らぬ方に飛んでいく。のろのろと追いかけていくルークの後ろ姿と、声をあげて笑う玲王くんとを見比べて、物凄く複雑な気持ちになったけど、でも、もしもこれで私が玲王くんと同じくらい上手にボールを投げられて、それでもルークが好ましくない反応を示したら、きっと落ち込んじゃっていたに違いないから、逆にボール投げが下手くそで良かったのかもしれなかった。
 ボールを咥えて戻って来たルークは、やっぱり玲王くんのところにそれを持って来た。ちょっと悔しかったけれど、「お前は偉いなー」って、ルークの頭を撫でる玲王くんも、嬉しそうに尻尾を振るルークも私は大好きだったから、幼いながらも、これこそが最大の幸福だと知っていたから、だから私は、世界で一番大切だったルークの命があの身体から抜け落ちたとき、何ヶ月かして、その喪失をきちんと受け入れられたとき、玲王くんに会うのをやめたの。
 あの頃のことは、あんまりきちんと覚えていない。黒く塗り潰されて、虫食いされたあとに残った微かな記憶が、私の周囲に散らばるみたいに落ちている。
 お花と、ボールと一緒に棺に横たわるルークは、眠っているみたいだった。金色の毛はもうあの頃みたいな眩しさを放っていなかった。どこを撫でても、尻尾は揺れなかった。突然死だった。ルークのような、身体の大きなゴールデンレトリバーには、たまにあることらしいんだ、お父さんがそう慰めるみたいに話してくれたけれど、そんなの飲み込めるわけがなかった。ルークを一人にした、私のせいだと思った。
 ルークをお骨にするための火葬場には、ついていけなかった。留守番をする私の隣に、玲王くんと、おばさまがいてくれた記憶が薄ら残っている。ベッドに潜る私の足元で、玲王くんが黙って本を読んでいたような気がしたけれど、それから時折微かな咳払いが聞こえたような気もしたけれど、それも全部夢かもしれない。玲王くんは私に、何も話しかけてはこなかった。ただじっと、黙って隣にいてくれた。それが現実だったにせよ、そうでなかったにせよ、ルークのいないこの家に、玲王くんはそれからはもう来なかった。私もピアノのレッスンを言い訳に、玲王くんのおうちに行くのをやめた。
 でも、そうじゃなくても私たちは自然と疎遠になっていたはずだった。異性というものを認識して、自分との区別化が図られたのも、ちょうどこの頃だったから。ルークがいなければ、ルークのことじゃなければ、私は玲王くんと上手く話せる気がしなかったし、一方で死んでしまったルークの思い出話ができるほど、私は強くもなかったのだ。
 一年に一回の食事会でしか顔を合わせなくなっても、それでも玲王くんは優しかった。ルークがいなければ千切れてなくなる糸だと幼い私は思っていたけれど、私たちの手には、そう簡単には断ち切れない太さの紐があった。私たちは、いつまでも「婚約者」だった。陽だまりに包まれたリビングから、夜景の美しいホテルに場所を変えて、私たちはけれど、あの頃よりも表層的な会話で互いの隙間を埋めていた。玲王くんは、きっと私のことを、特別好きなわけじゃない。
 それでも私は玲王くんのことが好きだった。というより、嫌いになるようなことが、私と彼の間に一つも落ちていなかった。玲王くんとルークとの思い出だけが、燦然と輝いていた。玲王くんを前にすると、それはいつも色濃い気配を纏って私の前に並べられた。私は、私と一緒にルークを愛してくれた玲王くんが好きだった。私たちの前で、大きく口を開けて笑う玲王くんが好きだった。ルークが欠けても、一年に一回しか会うことをしなくなっても変わらない口調で話しかけてくれる玲王くんが、易々と全国模試の成績上位者に名前を連ねる玲王くんが、たまに翳った目で遠くを見る玲王くんが、どんどん大人びて、私を置いていく玲王くんが、私は好きだった。
 ちゃんと恋だったから、同じ学校に進学できて、同じクラスで学級委員をやれて、悩んだこともたくさんあったけど、嬉しかった。楽しかったんだよ。たくさん助けて貰って、玲王くんがいなければ、私は多分もうずっと前に躓いて、動けなくなっていた。タマを撫でてくれた。勉強を教えてくれた。夜に電話をくれた。文化祭の後、アイスティーをくれた。今日だって。全部が全部特別だった。でももうこれ以上はきっと、玲王くんの迷惑になるから。「婚約者」っていう鎖が、私を「そっち側」に立たせて、これからも些細なことで醜い嫉妬をしてしまうくらいだったら、そんなのはきっともう、消えてなくなるべきだ。



「私」



 信号が青に変わっても、私はじっと、そこに立っていた。私たちの脇を、何台か車が通り抜けていった。その度に、私を振り返って待っている玲王くんの髪が、頬を撫でるように靡いていた。玲王くんの双眸を勇気を出して見返したけれど、やっぱり私は、その内心なんてちっとも掴めなかった。



「うん」



 でも、玲王くんは私の言葉を待っている。藤のキャリーハウスを抱えて、私を見下ろしている。
 言わなくちゃいけなかった。玲王くんの婚約者を、おしまいにしようと思う、って。でもそれを吐き出そうとすると、最後の足掻きみたいに喉に引っかかる。この場所を手放したくないって、小さな私が駄々をこねている。だって、それって全部、なかったことにするってことだ。玲王くんとのこれまでを、ただの思い出にしてしまうってことだ。その事実は私の横っ面を一方的に殴った。嫌だ、って思ってしまった。嫌だ、嫌だ、絶対嫌だ、って。
 息を吸ったら、喉と胸のあたりが震えた。目頭が急に熱くなって、鼻の奥が痛くなった。こんなところで泣いたら狡いって分かっていたのに、止められなかった。おしまいにしよう、これからは同級生として仲良くしてもらえたら、それで充分、って、そう言わなければいけなかったのに。
 そんな本心と真逆のこと、どうして言えるだろう。
 目の前の玲王くんが、微かに目を見開いたのが分かった。だけど、どうしようもなかった、勝手に込み上がる涙を堪える術を、私は知らなかった。「私」もう一回、口にする。視界の端で、泡が弾けるみたいに、もう一度、信号が点滅を始めている。
 私は自分の感情に嘘を吐いて、これまでの全てを千切って捨てることができる人間じゃなかった。与えられたものを振りかざす私は、きっと狡い。でも、それの何が悪いって言うんだろう。私は玲王くんが好きだ。他の女の子が思ってるくらい、ううん、もっと、ずっと玲王くんのことが好きだ。自信がある。例え玲王くんがそうじゃなくても。私はルークの背中を撫でる玲王くんの手が好きだった。私とタマを助けてくれた玲王くんが、どうしようもなく好きだった。
 だからせめて、思いを伝えるくらいは許して。
 玲王くんが私の名前を呼んだ気がした。でも、それすらももう、幻聴だったのかもしれない。



「私、玲王くんのことが好き」



 直後急激に滲んだ視界で、玲王くんがどんな表情をしていたかなんて、私には分からなかった。


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