病院にいる間に一雨あったらしい。
 空のキャリーハウスを抱えて外に出たとき、スロープの手すりや、植えられた庭木の葉から雨の雫が垂れていた。土に染みこんだ独特の匂いを胸いっぱい吸い込むと、張り詰めていた緊張感がようやく解れた気になる。ずっとちりちりした火のようなものが燻っていた脳から、焦燥が消えて行く。
 でも、本当に最悪の事態にならなくて良かった。もしこれでタマが死んでしまっていたら、今度こそ立ち直れなかった。キャリーハウスの軽さは心細かったけれど、それ以上に、安堵が勝っていた。
 病院の外で待ってくれていたばぁやさんに改めてお礼を言って、帰宅の途に就く車内で、だけど私はどうにも居心地が悪い。行きのときはそれどころじゃなくて気にしている余裕がなかったけれど、広々としたリムジンとは言え、密室で玲王くんと並び合って座っていることに、尋常じゃないほどに緊張してしまうのだ。



「…………」



 リュックサックを膝に抱えたまま、隣に座る玲王くんにそろりと視線を送る。何か話してくれたら良いのに、玲王くんは車が動き出した直後に「なんともなくて良かったな」って一言言っただけで、以降は口を開かない。ふかふかのシートに、薄ら汗をかいた肌がなるべく接しないよう注意深く座る私は、沈黙と、そもそもこの車がもたらす独特な緊張感に、ほとんど息を殺している。
 何か話すべきだろうか。いや、話すべきなのは分かっている。話、っていうか、私がしなくちゃいけないのは、ほとんど弁明なんだけど。
 だって、感情が爆発してしまったとは言え、私は待合室で、とんでもないことを口走ってしまった。
 さっきはいつの間にかいたらしい受付のお姉さんに動揺して、待合室で感情を露わにしていたことに羞恥心でいっぱいになったけど、よくよく考えて見たらさっきの私はどうかしていた。タマを助けてもらったお礼を伝えるだけで良かったのに、勢い余って告白じみた言葉を並べてしまった気がする。これまでの謝罪だって、あんな形じゃなくて、もっときちんと向かい合ってすべきだったはずだ。むしろあの時お姉さんに声をかけてもらえて良かったのかもしれない。そうじゃなかったら、さらに取り返しのつかないことをしてしまうところだった――。
 いつの間にか前のめりになって、リュックを守るように身体を丸めて自省する私の隣で、不意に玲王くんが口を開いたのは、その時だった。私ではなく、運転するばぁやさんに向けて、玲王くんは、それまでじっと引き結んでいた唇を開いた。



「ばぁや、ここでいい。――ちょっとと話がしたいから、俺も一緒に降りるわ」

「えっ」

「承知いたしました。お戻りになられるまでこの付近で待機しております」

「あー、助かるわ。終わったら連絡する」

「えっ、えっ」



 話!?
 動揺する私を余所に、車は減速する。「行くぞ、」玲王くんは短くそう言うと、キャリーハウスを片手に、完全に停車した車からさっさと降りてしまった。
 玲王くんからしたい話、って何?



「え、あ、玲王くん待って……ッ! あっ、ばぁやさん、ありがとうございました!」

「いいえ。どうぞお気をつけて」

「はい! また!」



 リュックサックを背負い直しながら、玲王くんを追いかけて車を降りる。場所は、うちと白宝高校の中間地点くらいだ。玲王くんは私の家のある方角に身体を向けながら、首だけで振り向いて、「ほら、こっち」って、何てことの無いように言う。本当に、学級委員の集まりにでも行くみたいな、全然気負いのない声で。
 「は、はい!」と玲王くんの隣、というよりも、半歩分斜め後ろについて歩いたら、玲王くんは「馬鹿、なんでわざわざお前が車道側歩くんだよ」って、私の肩を反対側にぐって押すから、心臓が止まるかと思った。そういうことを軽率にされると、わあっ、てなるからやめてほしい。そんなこと、玲王くんには言えないけど。
 玲王くんは、私と歩幅を合わせてくれているんだろう。私がきちんと隣に並び立つような速度で歩くから、私は玲王くんが、私を空き教室に連れて行ったときのことを思い出してしまう。
 あの日、玲王くんは怒っていた。私も、こんな風に思っちゃだめだ、って言い聞かせていたけれど、玲王くんが他の子と勉強会をしているのに、本当はむかむかしていた。そういうのを、きちんと言語化して、お互い話し合わなくちゃいけなかったのだ。なのに、私はそこから逃げ続けていた。玲王くんは、あれからも向き合おうとしてくれていたのに。



「あ、あの」



 話がある、って言っていたのは玲王くんの方だったから先に切り出すのは少し迷ったけれど、勇気を出して口を開いたら、玲王くんは「ん?」って、私の方を見てくれる。その眦があんまりにも優しいから、ちょっとだけ泣きたくなった。自分がそんな風に見つめられていい人間であるように、やっぱり私は、到底思えなかった。
 リュックサックの肩紐をぎゅうと握りしめながら、玲王くんの顔を見つめ返す。玲王くんの双眸の中には、緊張を孕んだ面持ちをした私がいる。



「ええと……、その、お、お話をさせていただいてもいいでしょうか……」

「なんで許可制なんだよ。いーよ、喋れば?」

「あ、ありがとうございます……!」

「いや、なんで礼?」



 短く笑う玲王くんに、ちょっとだけ緊張が解れる。足元で、水たまりが小さく跳ねる。いつもよりも歩幅を小さくして、時間を稼ぐみたいに歩く私は、けれど、時折通り過ぎる車の排気音よりも、通りにあるお店から漏れる話し声よりも、自分の鼓動の音を、一番近くに感じている。「その」と、一拍置いたときがピークで、私はもう、ほとんどまともに息もできなかった。



「お話したいことがいっぱいあって、何から話すべきなのか全然わかんないんだけど……」

「うん」

「まず、タマを助けてくれてありがとう……」

「だーから、それはもう良いって」

「そ、そういうわけにいかないよ! 一生ありがとうって言うよ……!」

「わかったわかった、じゃあ今ので一生分ってことにしとけ。……で? あとは?」

「ん、あとは、ええと……」



 お話したいことがいっぱいある。そう言ったけれど、私の言いたいことは、もうあの薄暗い待合室で、全部吐き出してしまったのだ。私はそれを、改めて伝え直そうとしている。言葉を変えて、玲王くんに正しく届くように、思考を重ねる。自分が本当に伝えたかったことを、一つずつ形にしなければいけないと思っている。
 その、と一度言葉を切ってから、何度か逡巡して、ずっと抱え込んでいたボールを投げつけるみたいな気持ちで口を開いた。私はその行方を見届けなければいけなかったのに、どうしても、目を開けていられなかった。



「一週間くらい、玲王くんから逃げててごめんなさい……!」



 ぎゅう、って目を閉じてそう言った私に、玲王くんは、でも、小さく笑った、見えなかったけれど、呼吸音でそれが分かった。それで、恐る恐る玲王くんの方を見る。玲王くんは私と目を合わせると、「大分逃げてくれたよなあ」って、首を傾げて意地悪そうにその双眸を細めるから、心臓が止まりそうだった。



「ご、ごめんなさい……! その……あれからどう接したらいいか、全然わかんなくて……」

「ふーん?」

「怒ってる……?」

「いや? どうせ長く続かねーだろって思ってたし、怒ってねえよ」



 怒ってない、って言葉には、ほっとした。逃げ続けていたことに関しては、私が一方的に悪いっていう自覚はあったから。「ん、でも、ごめんね……」ってもう一度謝ると、玲王くんはちょっとだけ、困ったみたいに眉尻を下げて笑った。「いーって」って。
 安堵はしたけれど、でも、それで終わる話では無かった。一度できてしまった傷に手を当てただけでは、どうにもならないって、私は知っていた。多分、玲王くんも。
 玲王くんは薄く笑ったまま、続ける。



「……それで、どう俺に接したらいいかは分かったか?」



 低く掠れた声は、耳に直接放られたみたいな響きを持っていた。真っ直ぐ伸びる歩道の先に、人の姿はない。
 どうしたらいいか。
 私は、やっぱり私が玲王くんに相応しいとは、全然思えなかった。私って言う人間が玲王くんを縛り付けてしまっているのが、申し訳なかった。好きって気持ちだけで隣にいられるんだったら、それは他の、玲王くんをきちんと好きでいる女の子たちに失礼だと思った。だから、一旦この、婚約者っていう関係を終わりにしたほうがいいんだって思っていた。ずっと、そう伝えるつもりでいた。
 目の前で信号が赤に変わる。無意識に狭めた歩幅のせいで、玲王くんの隣から、半歩遅れる。
 私たちは、きちんと話をしなくてはいけなかった。そうしないと、ここからどこにも行けなかった。


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