玲王くんの顔を見た瞬間、身体中の力が抜けて、そのまま地面に座り込んでしまいそうだった。
私は、心細かった。お母さんもいなくて、お父さんも頼れなくて、一人でどうしたらいいのか分からなかった。何か一つでも選択を間違えたら、それが大きな瑕疵になって、取り返しのつかないことになるんじゃないかって、怖くてたまらなかった。
そんなときに目の前に現われてくれた玲王くんに、どうして込み上げてくるものを我慢できずにいられただろう。
「……玲王くん」
玲王くんは、ほとんど走り寄るように私とタマの傍に来た。街路樹の奥では、ばぁやさんの運転するリムジンが、ハザードをつけた状態で停車している。恐らく、下校途中に私を見かけたのだろう。それで異常を察して、こうして声をかけてくれたのだ。
私、ずっと玲王くんに酷い態度を取っていたのに。
タマが、って、伝えようとした声は、けれど喉に引っかかって外に出ない。糸が絡まるみたいに感情がぐちゃぐちゃになって、どこから手をつけたらそれが元に戻るのか、判然としない。その中には玲王くんへの申し訳なさとか、不安とか恐怖が、全部混ざっていた。ルークの遺骸の上に散らばるみたいに、色んなものが落ちていた。でも、玲王くんはそういうの、全部分かっているみたいに私を見下ろしていた。涙の滲んだ目を拭っている間も、ずっと、黙って待っていてくれた。
平日の昼間、通りから一本入った場所にある歩道は、人通りがほとんどなかった。時折視界の端を、のんびりした速度の車が走っていくだけで。恨めしいくらい、私たちの外は、平生だった。
言葉の代わりに、キャリーハウスを抱える手に力を込め、「タマが」ともう一度言いかけたとき、玲王くんが地面にしゃがみ込む。「うん」って、短く答えながら。藤でできたキャリーハウスの、窓部分から中を窺った玲王くんは、それから眉根をそっと寄せた。一目見ただけで、ただ事じゃないって分かったんだろう。玲王くんは私の説明を、もう待たない。
「貸せ」
玲王くんの手が、タマの入ったキャリーハウスの持ち手を掴む。慎重な手つきだった。中にいるタマを思いやってくれていなければ、できないような。
「タマ、病院に連れていくんだろ? 乗れよ、俺も一緒に行くから」
「え、で、でも」
「でもじゃねえって。どこまで行くつもりか知らねーけど、走って行くより車の方がどう考えたってはやいだろ」
行くぞ、って。
短く言った玲王くんに、私はとうとうキャリーハウスを手放した。玲王くんが持つと、ハウスは普段より一回りくらい頼りなく見えたのに、玲王くんはそれを、胸に抱きかかえる。その真剣な目に、思わず頷いた。「ありがとう」って言いかけたときだ。私と玲王くんの間に、もう一つ別の声が落ちてきたのは。
「坊ちゃま」
しゃがれた声に顔を向けると、さっきまで少し離れた位置に停車していたリムジンが、私たちのすぐ傍に移動している。運転席の窓を開けたばぁやさんは、私と目が合うと、「ご無沙汰しております」と深い皺の刻まれた顔で静かに微笑む。慌てて頭を下げれば、ばぁやさんは、私が顔を上げるのを待ってから続けた。低く思慮深い、穏やかな声だった。
「白宝高校より先に、動物病院がございます。診療時間外となっていましたが、急患である旨を伝えたところ、受け入れ可能とのことですよ」
車から見たやりとりで彼女は全てを察した上、そこまで先回りしてくれていたらしい。ありがたくて、泣きたくなる。「かかりつけ医の方がよろしければ、そちらにお送りしますがいかが致しましょう」と続けるばぁやさんに、首を振った。一刻を争うかもしれないことを思ったら、車で数十分もかかるかかりつけ医に向かうよりもよっぽど正しい選択であるはずだった。
「申し訳ないのですが、電話していただいた病院に送っていただけないでしょうか」と申し出たら、私の隣にいた玲王くんが、「だから一緒に行くっつってんだろ」ってそっと笑った。その笑みに、今度こそ救われたように思ったのだ。
助けられてばかりだ。いつもだったら卑屈になってしまうのに、けれど、今の私は、ただただ彼らに感謝している。
タマは、軽い熱中症だったらしい。
曇っていて、外気温がさほど高くなかったこと、病院に着くまでの間に、ばぁやさんが施してくれた処置(車内にあった氷を袋に入れて、タマの体温が下がるようにしてくれたのだ)が適切だったこともあって、重症化には至らなかったとのことだ。けれど、もしも帰宅が遅かったら、もっと暑い日だったら、適切な処置ができていなかったら、命を落とすことだってありえたと指摘された。本当に申し訳なくて、処置台の上でじっとしているタマに、ごめんね、って、たくさん謝った。点滴をしてもらったタマの表情は、その頃には少し力が戻って見えた。
いくつかの検査を済ませた頃には、病院に着いてから数時間が経っていた。 その頃にはお母さんとも連絡がついて、先生と三人で話し合って、今日一日だけタマを入院させてもらうことにした。お母さんたちも予定がずれこんで、帰りが夜になってしまうらしい。自転車で行ける距離とは言え、家に戻って万が一またタマの容態が急変したりだとか、何かあったときのことを考えたら、私としてもそちらの方が安心だった。タマの身体をそっと撫でて、「また明日迎えにくるね」って言う。タマはそれに答えるみたいに、耳をぴんとたてた。
ばぁやさんが見つけてくれた動物病院は個人院で、開院してから長いのか、随分と風情のある佇まいをしていた。本当は休憩時間だったのに飛び込んでしまったから、他に患者さんはいない。ひらべったいスリッパが足から飛び出して行かないように、慎重に歩きながら、待合室の、表面の捲れたソファに腰掛けていた玲王くんの元に向かう。天井近くにある小さな窓から差し込む外光は弱く、玲王くんの顔に、微かな陰影が落ちている。読んでいた本から顔をあげた玲王くんは、けれど、微かに生じた陰鬱な雰囲気をかき消すように目を細めた。普段と全然変わらない、いつもの、玲王くんの笑顔だった。
「お疲れ。どうだった?」
それに一瞬、言葉に詰まる。
一人分の空席を作った状態で玲王くんの隣に座って、無人の受付に、そっと目を送る。
「その……熱中症、だって。ばぁやさんの処置が良かったみたい。今他の検査もしてるんだけど……多分大丈夫だろうって先生が。でも今日はこのまま、一日だけ見てもらうことになって」
「……そっか。大事にならなかったなら良かったわ」
「うん。……ええと、何とお礼を言ったら良いか……ばぁやさんにも……」
「いーって、別に。タマが何とも無かったんならそれが一番だろ」
足を組んで、玲王くんはなんてことのないように言う。ほっとしたのと、嬉しいのと、申し訳ないのとで、そのまま泣いてしまいそうになった。でも、「色々やってくれたのはばぁやだし、俺はなんもしてねえしさ」って玲王くんが続けたのには、思いがけず、顔を上げてしまった。
「なんもしてなくないよ!」
玲王くんが、そっと目を瞠る。その身体の奥にある、大きく成長した、立派な観葉植物が、玲王くんの輪郭を濃く浮かび上がらせていた。玲王くんの目とか、短い眉とか、きれいな形をした鼻梁が、思いのほかはっきり見えたのは、だけど、私が知らず知らずのうちに身を乗り出していたからだろう。
でも、止められなかった。言葉は私の身体の奥から、湧き上がるみたいに溢れ出た。ずっと引っかかっていた分も、まとめて全部、流れ出てしまうみたいだった。緩く握っていたはずの手に、力がこもる。
「玲王くんが声をかけてくれなかったら、私、多分どうしたらいいかわからなかった。一人で泣いて、タマも助けられなかったかもしれない。玲王くん、だってあのとき、すごかったんだよ。私とタマのこと、助けてくれるヒーローみたいだった、私たち、ばぁやさんだけじゃなくて、玲王くんにも救われたんだよ」
「」
「私なんか、ずっと玲王くんから逃げてたのに、酷いこといっぱいしたのに、優しくしてもらう筋合いなんか全然、全然ないのに、なのに、いつも玲王くんに助けてもらってて、今だって、診察が終わるまでこうしてずっと待っててくれたの、すごく嬉しいの」
「」
「玲王くんが隣にいてくれると、私、勇気が出るよ。釣り合ってないって分かってるけど、分かってるから、だから、私じゃダメだって思って、玲王くんには私じゃなくて他の人がいいんだって、ずっと逃げてて、でも、でもやっぱり、こうして助けてもらえて、すごく、すごく玲王くんのことが」
「…………」
そこで不意に頭を小突かれて、我に返る。
玲王くんは、苦笑いを浮かべながら私の後方を指差した。振り返ると、さっきまで確かに無人だった受付ににこやかに微笑んだお姉さんがいる。「さん、お会計は明日、白玉ちゃんの退院のときにまとめてしますので、今日のところはこのままお帰りいただいて結構ですよ」って淀みなく口にしたものだから、私はそのまま椅子から落ちて、わあって頭を抱えてしまいたくなった。血の気の引いた顔で、いつからお姉さんいたの? って玲王くんに目で訴えるけど、玲王くんは笑いを殺すのに一生懸命で、私の問いかけには全然答えてくれなかった。