クラスメイトに呼び止められて、軽く話し込んでいるうちに学校を出るのが遅れた。
「ごめんばぁや、待たせた」
「いいえ、お気になさらず。お帰りなさいませ、玲王坊ちゃま」
白宝の送迎車専用の駐車場で俺を待つばぁやに詫びて車に乗り込んで、短く息を吐く。窓の向こうにある空は相変わらず雲が覆っていたが、雨の気配はない。
終礼から三十分ほど時間が経っているせいか、校舎付近の生徒の姿は疎らだ。動き始めた車内で軽く身体を伸ばすと、首のあたりが鈍い音を立てる。
テストはあと二日残っているとは言え、今日の午後を含め二日半の小休止があると思うと気も楽だった。まあ、俺としては例え今日残りのテストを受けることになったとしてもさして問題はないんだけどさ、最後に範囲全体を見返すくらいはやっておきたい。
というのも今日の化学のテスト、あれが想像以上に難しかったのだ。最後の問題なんか、ほとんどのやつが引っかかるんじゃないか? 実際帰り際に話しかけられたのだって、あの問題についての議論だった。何人かで問題集を示し合って、各々が納得したところで解散したわけだが、あのレベルの問題がテストに出るんじゃはよっぽど苦労しただろう。
テストを終えて教室を出るの暗い顔を思い出す。リュックサックを重たそうに背負いながら、は気落ちした様子でとぼとぼと歩いていた。あれでちゃんと家に帰れたのかよ? 自転車で植え込みに突っ込んでねえかとか、信号が赤になっているのに気付かないで交差点に進入してないかとか、そんな心配をしてしまう。
あいつ、理数はてんでだめだからな。でも、通話をしながら勉強を見てやった夜だったか、ぽつりと「一番頑張らなくちゃいけなくて」って話していたのも理数科目だった。何を目指しているのかは話さなかったけど、からしてみれば大きな目標なんだろう。それを応援してやりたいと思うのは、俺が世話好きだからとか、そういうわけでもないのだ、恐らく。
さっさと解決しちまいてえんだけどな、こういうの。
はぁ、と息を吐いてから、顔をあげた。交差点があるわけでもない場所で、ばぁやが緩くブレーキを踏んだのだ。そこがいつだったか、タマの散歩をするの姿を見かけた通りだと気がついたのと、それが視界に入ったのはほとんど同時だった。「あ?」ほとんど無意識に、声が漏れる。
「――坊ちゃま」
運転中、自らはほとんど口を開くことをしないばぁやが俺を呼んだ。フロントガラスの奥に見える、見覚えのあるブラウスと、特徴的なスカート。そこから伸びた足は、肉付きがいいとは言えなかった。車は停車して、道の端に寄せられていた。次の瞬間、ほとんど考えるよりも先に、車のドアを開けて外に飛び出していた。五感が急に研ぎ澄まされたように思えた。「」声は、ほとんど張り上げるのと変わらない響きをもって、住宅街に響く。
街路樹の下、小さなキャリーハウスを抱えたは、俺の声に気がつくと、泣き出しそうな顔で俺を見た。
さっきからずっと耳鳴りがしている。
蒸した空気は肌に重く纏わり付いて、鬱陶しい。着替えられなかった制服が汗で張り付くのが不快だった。湿った前髪が目に入るのに、払いのける手がない。息が切れる。脇腹が、刺されたみたいに痛い。両手で抱えた、昔お母さんが見つけてきた藤製のキャリーハウスになるべく振動や揺れを与えないようにしないといけないのに、早くしなくちゃ、って焦りが、私の背を方々から押す。
財布を探す時間すらも惜しくて、参考書の詰まったリュックサックをそのまま背負って来てしまったものだから、肩も手も、全部、引き攣りそうなくらいに重く、痛かった。唇を噛みしめて、いつもの散歩コースの遊歩道を走る。空は相変わらず曇っていたけれど、雨の気配がないことだけが救いだった。これで雨に降られたら、私は今度こそ動けなくなってしまう。キャリーハウスの中にいるタマは、今もじっとして、動く様子がない。
部屋の扉を開けてそれに気がついたとき、私を生かす色んな器官が、一瞬全部止まったみたいに思えた。
冷房の効いていない部屋は、窓も閉めきっていた。カーテンの開けられた窓から太陽光は差し込まず、だけど、籠もった熱があった。「わ、あつ」って、思わず口に出してしまうくらいには。だけどカーペットの届かない部屋の片隅、扉のすぐ近く、果たしてそこに、白いふわふわの毛をしたタマが、じっと横たわっていたのだ。
心臓が大きく脈打った。思考の停止を自覚した頃、悲鳴が出た。「タマ」って呼んでも、タマは焦点の合わない目を私に向けるだけで、身動ぎもしない。
触れたタマの身体は熱かった。口からはベロがはみ出て、目はうつろだった。
「タマ、タマ!」
血の気が引いていく。それまで整然としていた思考が支えを失ったみたいにバラバラになって、私の中に散らばっていく。タマの身体、すごくあつい。熱? 意識が完全にないわけじゃない。でもなんで。なんで。なんで。
その時、脳内に浮かぶ光景があった。私はそれを、今でも時折夢に見た。頭に殴られたような衝撃があった。「どうしよう」リビングで横たわって、じっと動かないルークの姿がそこにある。「お医者さん」小学生の私が、縋るようにお母さんを見上げている。でも、今あの時と同じ台詞を吐き出す私は、もう、自分で物事を選択できるくらいには成長していた。呆然と立ち尽くして、お花に包まれた、箱の中のルークを見つめるだけの子供じゃなかった。
病院に連れて行かなくちゃ。
キャリーハウスを抱えて自転車に乗るわけにはいかないけれど、タマのかかりつけ医は徒歩で行ける距離じゃない。でも、悩んでいる暇はない。タマを抱きかかえて、藤でできたハウスに入れた。その間も、タマはじっとしているだけだった。私の足に纏わり付いていた数時間前が、嘘みたいだった。
靴を履いて、家を飛び出す。
どうしよう。どうしよう。どうしたらいいんだろう。
私のせいだ。私が、タマがついてきていることを知らないで部屋の扉を閉めちゃったから。だから、あつかったんだ。出られなくて。閉じ込められて。お水もない部屋で、何時間も。朝家を出るとき、タマの気配がないのをもっと不審に思うべきだった。扉なんか開けっぱなしにしておけばよかった。扉の傍にいたってことはきっと、いつもみたいに中から爪でドアを引っ掻いていたんだろう。そう思ったら、胸が締め付けられたみたいに痛んだ。
どういう行動を取るべきなのかが、だけど今の私には分からない。お医者さんまで、タクシーを探す? もうお昼過ぎちゃったけれど、診療時間に間に合うのかな? 夕方まで様子を見るべきだった? でもそれでもし手遅れだったら。私のミスでこの子をこんな目にあわせてしまったのに、私の判断がこの子を殺してしまったら、私はもう、今度こそ、二度と立ち直れない。
私はこの時、物凄く混乱していた。もし家にお母さんがいたら、私一人じゃなかったら、もう少し落ち着いて、色んなことを調べたり、対処できたはずだったのに、ぐったりと動かないタマと二人でいることが、堪えられなかった。私はルークを思い出していた。いや、思い出したんじゃない。ルークはいつも、寄り添うみたいに私の傍にいた。私たちが外出している間に、何の前触れもなく一人で逝ってしまった子。リビングの隅っこで、お昼寝でもするみたいに目を閉じていた。その傍には、玲王くんが投げてくれたボールがあった。心臓が止まっているなんて、気がつかなかった。
立ち止まって、キャリーハウスの扉を開けたい。タマを今すぐ抱きかかえたい。生きているか確かめたい。でも、そんなことしている時間はなくて、私は一刻も早く、この子をお医者さんに診せることが唯一の方法だと思っていて、だから、走るしかなかった。どんなにお腹が痛くても。
大通りまで出たら、運が良ければタクシーは捕まえられる。でも、もし見つからなかったらどうしよう。だったら最初から駅の方まで走った方が良いのかな。それとも、時間はかかるけどタクシー会社に直接電話した方が早いだろうか。混乱する。不安と、恐怖と、迷いが混ざり合って、私の中で酷い色になる。歩道と道路の間のちょっとした段差に躓いて、タマの入ったハウスを揺らしてしまった。瞬間、私は今度こそ、泣きたくなったのに。
「」
聞き覚えのある声が、その時、私の名前を呼んだのだ。
酷く重たい、灰の梅雨空だった。
「こんなところでどうしたんだよ」
そのハウス、タマか? って、玲王くんはキャリーハウスをじっと見る。
「……何かあった?」
低く、だけど優しい声でそう尋ねてくれる玲王くんが、そのときの私には、私とタマを救ってくれる、ヒーローみたいに見えた。