今更足掻いたって、とは思うけど、その足掻きも一点二点のプラスにはなるかもしれないって考えたら、開き直って諦めることなんてできなかった。
 金曜日、期末テスト二日目の今日は古典と化学、それから保健のテストがあって、私はお母さんが作っていってくれた朝ご飯をもくもくと食べながら、ダイニングで最後の確認をしている。普段食卓でこんなことをしようものなら「行儀が悪いよ」って叱られるけど、お母さんはもう御影のおばさまと出かけたし、お父さんはここ数日、初秋にある個展の準備に追われていて家に帰ってないから、今日だけは特別だ。焼いたトーストに齧り付きながら、参考書と睨めっこする。
 保健はテスト前の休み時間に教科書を確認するくらいで良いし、古典は得意だから、後でノートを見返しておけば問題ない。でも、理数の得意でない私にとって化学は鬼門だ。暗記でとれるところは絶対落とさないようにして、でも計算が必要になってくるこのあたりは、もうややこしい問題が出ないように祈る他ない。
 最後の一口を飲み込んで、食器を流しに置く。パジャマの袖を捲って洗い物をしていると、足の甲近くにふわふわの白い毛玉が見えた。



「タマ、そこにいると踏んじゃうよ」



 一応声をかけてみるけど、タマは何食わぬ顔で私を見上げるだけだ。本当は撫でたり抱っこしたり、お腹に顔を埋めたりしたかったけど、そうしてしまうとまあまあなタイムロスになってしまうことは自分でも分かっていたから、ぐっと堪えた。
 洗面所と自室を忙しなく行き来しながら身支度をととのえる私の足元をタマがうろうろするのもいつものことだった。普段なら、蹴飛ばしそうになるのを見かねたお母さんがタマを抱きかかえてくれるんだけど、今日はそうもいかない。お母さんは、今頃おばさまを助手席に乗せて、高速に乗っている頃だろうから。紫陽花を見に行くとは聞いたけど、具体的な行き先は、どこって言ったっけ。ちょっと記憶にない。
 制服に着替えて、髪をととのえて、リュックサックを背負ってから部屋の扉を閉める。時間を見て、ちょっとギリギリかも、って気付いた。スマホをポケットに突っ込んでから靴を履き替える。「いってきまぁす」って声をかけても、リビングの方に引っ込んでしまったのか、タマの姿はいつの間にかない。








 今日が終わったら、残りのテストは土日を挟んであと二日。
 自転車を漕ぎながら考えるのは、今日のテストに間違いなく出るだろう公式でも活用表でもなくて、来たるべき「おしまい」についてだった。
 そりゃあ、仕方ないよね、両手も目も足も使っている状態で、勉強なんかできないんだもん。信号が赤に変わる。歩道に植えられた広葉樹の影が作る疎ら模様を車輪で踏みながら、私は玲王くんのことを考える。
 廊下で話しかけられたのに聞こえないふりをしたのを最後に、玲王くんは、私のことを見なくなった。前まで感じていた視線はもう私ではない、玲王くんの周りにいる誰かに向けられていて、彼は私を気にしない。連絡も、勿論なかった。私と玲王くんのやりとりは、月曜日の朝に私が送った、「大丈夫!」っていう底抜けに明るい笑顔をした犬のスタンプで終わっている。
 私はそういう一つ一つについて、考えることをやめた。感じるのをやめる、っていうのは土台無理な話だったから、ただただ、考えないようにした。化学式やイディオムでぱんぱんになった頭に針を刺すのは、テストが終わってからであるべきだった。玲王くんが私にうんざりしているかもしれないとか、私の頑なさに呆れているのかも、とか、そういう自分の心を悲しくさせる可能性からは、目を逸らしていたかった。自分はそれだけのことをしているという自覚があるにもかかわらず。
 だけどそれときちんと向き合おうとすると、私はどうしても悲しくなる。どうしたらいいのかわからなくなる。玲王くんの、からっとした笑い声とか、屈託のない笑顔が、自分と関係の無い別の世界のものみたいに思えてしまうのは、やっぱりまだしんどい。
 東京は、そろそろ梅雨が明けるらしい。まだ朝だっていうのに、蒸すような空気に、首のあたりがじっとりと汗をかいていた。昨晩降った雨の名残が、いっそ憎々しいくらいだった。
 信号が変わってペダルを漕ぎだしたその瞬間、剥き出しの脛のあたりに、水滴が微かに跳ねた。あの角を曲がれば、白宝高校の校舎はすぐそこだ。








 ばぁやの運転する車のシートに身を沈めながら、漫然と窓の外を眺める。梅雨らしい、どんよりとした雲が空を覆う、けれど妙に蒸す朝だった。
 母さんは早朝、の母親と出かけるのだと言って家を出た。年甲斐もなく「玲王ちゃん、この服どう思う?」と俺に尋ねた母さんの顔を思い出して、相変わらず仲が良いようで何よりだよな、って、一匙分くらいの皮肉を込めて笑う。俺達の方は未だかつてないってくらいぐらついてんのにさ。
 小さくため息を吐けば、バックミラー越しにばぁやがこちらに視線を向けたのが分かった。ばぁやはこういうとき、不必要に踏み込むことはない人間だって分かっているから、言い訳も説明も、俺はしない。ただ、視線を逸らすだけだ。
 今となっては、まあ、勘違いだったんだろうな、とは思う。
 何って、三浦とのことだ。あれから数日、二人のことはさりげなく観察していたが、会話もなければ目が合うことすらなかった。勿論、こっそり連絡を取り合っている可能性もないわけではなかったが、三浦は兎も角、がそういうのを表に微塵も出さないとは考えにくい。本人の口から聞いたわけではないけれど、十中八九、あの時が三浦に勉強を教わっていたのは偶々、なんかの流れでそうなった、ってだけだったんだろう。二人はせいぜい、互いに他の異性のクラスメイトよりかは喋る相手、くらいの認識を持っているだけだ。早とちりした俺が悪い。そう思うことにしている。そうじゃないと、自分の苛立ちを処理できないから、ってことに、目を瞑る。
 どのみち、逃げ回られたら追求なんかできないのだ。
 があんまりにも俺を避けるもんだから、最近は、無理に捕まえようとするのをやめた。正直、逃げられたら追いたくなる性分ではあるけどな。あんまり嫌がられても、後が困る。
 でも、とは一度ちゃんと話をすべきだろう。お互いが何に対して怒っていて、許せないことがあるとすればどこなのか。そうやって腹を割って話しとかないと、これから先、お互い変に気を遣い合ってすれ違うばかりだ。流石にこれからもこんなことをしてたんじゃ、嫌になるだろ。
 僅かに背中が丸まっていたことに気がついて座り直す。正門が見える少し前、見た覚えのある自転車が視界に入った気がしたけれど、あえて目を伏せた。
 この日、俺達の現状が大きく動くことになるなんて、俺は知らなかった。








 罰が当たったんだと思う。自分の痛みにばかり敏感で、周りを省みようとしなかったことへの罰が。



「ただいまぁ……」



 三教科分のテストを終えて、私が家に帰ってきたのは、正午を少し過ぎた頃だった。厚い雲が太陽を覆っているせいで、家の中は翳っていた。
 人の気配のない家って、どうしてこんなにじっとり湿ったもののように感じられるんだろう。いつもだったらリビングにお母さんがいて、こんな風に、薄暗い昼でも家は煌々とした光に満ちていた。でも、今は静かだ。海の底みたいに。
 古典と保健は置いといて、化学のテストは散々だった。皆がむずかしかったって口を揃えて言うんだもん、私ができないのなんか当然だ。肩を落としながら靴を脱ぐ。朝脱いだままのスリッパに履き替えて、長いため息を吐く。
 家の中は、何の音もしなかった。私の足音と呼吸音、微かな衣擦れの音だけが、振動みたいに広がった。おかしいな、って思った。だっていつもだったら、タマの気配があるはずだ。帰ってきた私を、出迎えてくれるはずだ。
 リビングで眠っているのだろうか。着替えたら、起こしに行こう。部屋のドアノブに手を触れる。家の中の籠もった熱が、纏わり付くみたいに、私の体温を上げている。


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