翌朝、はここ最近と変わらず、俺よりも早く登校を済ませていた。
その隣に座っていたのは、三浦じゃなくて、昨日欠席していた、本来のあの席の持ち主である女子生徒だ。彼女の席の方に身を乗り出したは解法でも学んでいるのか、真剣な面持ちで、プリントが広げられたその手元を見つめている。その横顔は、いつものと何ら変わらない。
ほとんど無意識に視線を彷徨わせると、三浦はすぐに見つかった。窓際に寄り掛かって、いつもつるんでいる友人と並んで参考書を広げる三浦は、今日はに目もくれない。こうして見ると、二人は本当に、ただ同じ教室にいるだけの人間であるように見えた。昨日の俺が抱いた危惧はそもそも思い違いだったのかもしれないと感じるくらいに、二人の間にはそれ以上の関係性は見出せなかった。――けれど、それに安堵していいのかどうかも分からないのだ、俺は。
「あっ! 玲王、おはよう〜!」
一昨日の勉強会に参加していた女子に肩を叩かれて、ほとんど反射的にそちらを見る。その寸前、視界の端に、引っかかるような感触でもって、の目が俺を見た気がした。でも、「ああ、おはよ」って挨拶を返して再びの方を見た時、の視線は既に、あるべき場所に収まっている。
それで避けられていると判断するのは早計だろうけど、多分、そう思っても間違いないんだろうな。ほとんど直感で思う。
の方から目を合わせてくれるんだったら、まだ活路はある気がしたんだけど、それも難しいか、やっぱ。
どうしよう。
「玲王、おはよう〜!」って声に思わずそっちを見てしまったけど、万が一目があったらどうしたらいいかわからないじゃん、って瞬時に考えて、すぐに顔を背けてしまった。でも、背けた後で、痛む胸を庇うみたいに背中を丸めてしまう。玲王くんを勉強会に誘っていたあの子と玲王くんって、やっぱり仲良しなんだなあと思うと、醜い嫉妬で呼吸が浅くなる。こんなの、持つべき感情じゃないのに。頭を振って、雑念を追い払う。
昨日のことがあってから、私はずっと思い悩んでいた。これから玲王くんとどう接したら良いか。どんな顔で過ごしていたら良いか。いっそ、夜のうちに連絡を取って、謝ってしまうべきなんじゃないかとも思った。だけど結局それができなかったっていうのは、現状が示す通りだ。スマホを持つと、動悸が激しくなって、とてもじゃないけど玲王くんの声なんか聞ける気がしなかったのだ。
玲王くんからも連絡がなかったのは、けれど、意外だった。肩すかしを食らった気分だった。こういうとき、玲王くんはとことん話し合いをして、解決への道を示すタイプの人だと思っていたから。
そう思うと、刺されたみたいにお腹が痛くなる。やっぱり玲王くんは、怒っているのかもしれない。いや、そうじゃなくて、そもそも玲王くんは、最初から怒っていた。元々あった怒りの上に別種の怒りを塗り重ねて、益々堅牢な怒りを纏っている。――そう考えるのが、正解に限りなく近いことのように思えた。
「何で三浦に勉強見てもらってんの?」
今でも鮮明に思い出すことのできる彼の声に、思わず目をぎゅうと閉じる。そうすると、内臓まで縮こまるみたいだった。昨日はびっくりしてちゃんと受け止められなかったけれど、今こうして冷静に考えれば、玲王くんの怒っている理由は、そこにあるんだろう、ってことは、流石に察することができる。あれだけ大丈夫かって心配してくれていた玲王くんを拒絶して、他の人から勉強を教えてもらっていたんだもん、それってやっぱり不誠実だ。玲王くんが怒るのも当たり前だ。私だって、逆の立場だったら「なんで?」って思ってしまうだろう。悲しいし、ちょっとむっとすると思う。例えそれなりの事情があったのだとしても、それが相手に伝わっていないんじゃ、不快にさせてしまって当たり前だ。
でも、じゃあだからって、玲王くんに「やっぱり勉強を教えてください」なんて、どうして言えるだろう?
そもそも私は、玲王くんにこれ以上迷惑をかけたくないから離れたのだ。なのに結局玲王くんから教えてもらう道を選んだら本末転倒だ。けれど、逆に今回の件を不誠実だったと謝罪するなら、私は玲王くんに、自分がそういう行動を取るに至った経緯を説明しなくてはならなくなる。玲王くんが好きで、でも玲王くんはきっと婚約者っていう今の形を、近い将来解消する選択をとるだろうから、だから、なにもかもを諦めるために距離を置いたの、なんて、そんなの、死んでも言えない。だってそれは、私たちの関係を今度こそ終わりにしてしまいかねないから。
結局私がしていることは、ただの延命だ。
だけど、それ以外に、私は自分がどうしたら良いのか分からないのだ。肥大化した欲の扱いにこんな風に手をこまねくなら、いっそ、玲王くんと同じクラスでなければよかった。玲王くんの手を患わせることのないくらい、賢ければよかった。
そうしたらきっと、もっと簡単に諦められたのに。
無意識に視界の端に入れてしまった玲王くんの背から、慌てて目を逸らす。教室内のざわめきの中に玲王くんの声を見つけたくなくて、頬杖をつくふりをして、片耳を塞いだ。それでもやっぱり、「玲王、ここわかんなくてさ、教えてくれる?」って声が聞こえるから、本当は、わあって声をあげてしまいたかった。
結局玲王くんとは口をきくことのないまま、期末テストの初日を迎えた。
この数日の間、会話の一つどころか、目も合わせることがなかったんだから、私も大概だ。
玲王くんは、何度も私に話しかけようとしてくれていた。私は気付かないふりをしていたけれど、玲王くんはよく私の方に視線を送ってくれていたから。私が毎回、彼から逃げ出していただけだ。休み時間、終礼の後、あるいは朝のホームルームの前だって。私はいつも、夏帆ちゃんたちの中にいた。それが鉄壁の防御になり得るはずがないことは分かっていたけれど、それでも玲王くんは、そういうとき、絶対に私に声をかけたりしなかった。
夏帆ちゃんたちは、「玲王くんと喧嘩でもした?」って、心配そうに尋ねてくれる。あの、玲王くんに呼び止められた放課後を彼女たちは見ていたわけだから、そういう風に考えるのも当たり前だった。そうして気遣ってくれるのは、単純にありがたかいことだった。
喧嘩。
喧嘩なのかな。これは。ただ、私が玲王くんにどう接したらいいか分からないっていうだけで、喧嘩じゃない気がする。だけどこんな状況、仔細なんか誰にも打ち明けられないから、私は「うーん」って首を傾げて、言葉を濁す。
一度、一人で廊下を歩いているとき、「おい」って、呼び止められたことがある。「」って。私はそのときも、聞こえないふりをして、走って逃げてしまった。足音に紛れるみたいに、玲王くんのため息が聞こえた気がした。それでも自分の感情が上手く処理できなかった。なんでこんなに不器用なんだろう。テストがまるっと被っているのも、正直に言うと、とても良くなかった。自分自身にも、玲王くんにも向き合う時間を充分に作れないっていうのは、致命的なことだった。
だから、テストが終わったら。テストが終わったら、きっとどうにか、私、ちゃんと玲王くんとお話するから。延命のために玲王くんに嫌な思いをさせるのも、終わりにするから。全部お話して、もういいよって言うから。婚約者でいるのは、そろそろおしまいにしようって。でもその代わり、これからも、クラスメイトとして、仲良くしてくれますか。たまにで良いから、勉強を教えてくれますか。それを許してもらえるなら、私、ちゃんとこれまでみたいにはできると思う。そこにちょっとの嘘とか我慢は、きっとあるけれど、そうしないといつまでも足踏みしているだけだから。そういう心の整理を、私はこの五日間で、つけていた。
「、お母さん、明日朝から一日いないからね」
「そうなの? お出かけ?」
「御影さんと遠出するのよ。夕方には帰って来るから、戸締まりよろしくね」
「へぇ、いいねえ、いってらっしゃい」
あんまり手応えのないまま初日のテストを終えた私は、家に帰ってお母さんと一緒にお昼ご飯を食べているとき、不意にでてきた「御影さん」に、胸が軋むような感覚を覚えてしまう。紫陽花を見に行くんだって。あと、お買い物と、ランチ。写真撮ってくるね、って笑うお母さんに、うん、楽しみ、って笑みを返す。楽しんで来てねって言ったら、お母さんは微かに首を傾げて、私によく似た目を細めた。
私と玲王くんを繋ぐ糸が切れても、お母さんたちも、お父さんたちも、どうかそのまま、仲良くしていてほしいな。そう思ったら、ちょっとだけ泣きそうになった。私の足首に頭を擦りつける、タマの温もりだけが優しかった。