言ってしまった。やってしまった。
 全力で走る私の背中とか、腰を、揺れるリュックサックが殴りつけるような勢いでもってぶつかっている。階段を駆け下りて、踊り場の当たりで曲がりきれなくて、ちょっとよろめいた。そこに落ちた、無数の小さな四角い窓硝子が作る格子状の陽だまりが、空気中を舞っていた微細な塵が、まるで私を取り囲む現状に不釣り合いなもののように思えたけど、間違いなく、今おかしいのは私の方だった。気を抜けば滲む目を、手の甲で擦る。まだ乾いていなかった涙が、肌に傷のような線を作る。
 玲王くんがついさっきまで握っていた手首は、何の痕もついていないのに、まだ熱を持っていた。私を見下ろす目を思い出していた。そうすると身体のあちこちが痛みに似た熱を放つのに、だけど、それがどういう感情によるものなのかを、今の私は冷静に判断できない。自分の、乱暴な足音だけが耳についた。そうしても、玲王くんの声は拭えなかった。
 昇降口には立ち止まって談笑する生徒が疎らにいたけれど、うちのクラスの子が見当たらなかったのは幸いだった。クラスメイトに会ったとき、不審に思われない対応ができるか、自信がなかったのだ。乱れた呼吸を整えながら、手早く靴を履き替えた瞬間、スカートのポケットに入れていたスマホが振動した気がして、ぎくりとする。恐る恐る確かめたけど、新着メッセージも、他の通知も、何もなかった。細く長い息を吐いてから、外の駐輪場へと向かう。校舎から一歩出た瞬間の、夏特有の、肌に纏わり付く熱の感覚が、今だけは救いみたいに優しい。
 歩く自分の足元を、じっと見る。
 どうしよう。なんてことしちゃったんだろう。
 玲王くんから逃げ出して、振り向きもせずに走っていたときは「お願いだから追いかけてこないで」って思っていたのに、今、私はリュックサックの肩紐を軽く引っ張りながら、却って普段よりも遅いくらいの速度で、とぼとぼ歩いている。動揺が落ち着いたら代わりに後悔が襲ってきて、あの空き教室は昇降口と棟が違うから確認なんかできないってわかっているのに、こっそり振り返りすらした。後ろ髪を引かれていた。間違えた気がした。でも、自分がどこから間違えたのか、全然分からない。
 白宝高校の、堂々とした瀟洒な校舎。普段自分がこの中で、何食わぬ顔をして学校生活を送っているなんて、嘘みたいだ。だって、私なんて、本当はこの学校に全然相応しくない。奇跡的に入試を突破できただけ。玲王くんにフォローしてもらって、なんとか通っているだけ。玲王くんのおかげで、私はかろうじてやっていけている。
 なのに、余計なこと言っちゃった。
 だって、玲王くんが「何で三浦に勉強見てもらってんの?」なんて、あんな怒った顔で言うから。外の空気を吸って一度は落ち着いた感情が、お腹の底で蠢くみたいに熱を持つ。あのとき、私は一瞬で、いろんなことを考えた。考えて、考えて、最終的に間違えた。
 私たちが幼馴染みでしかないんだったら、私が玲王くんに一方的におんぶされているような今の状態は、いつか玲王くんにとっての枷になる。だから玲王くんを頼らない自分になりたいと思ったのに、どうして玲王くんは私の決意を揺さぶるようなことを言うんだろう。なんで他の人を頼る私を、こんな風に非難するんだろう。そういうことを、考えた。
 玲王くんが怒る理由が分からなかった。玲王くんに掴まれた腕が、ずっと痛かった。玲王くんが怒りを露わにしたのは、それを明確に向けられたのは、初めてだった。背中に扉があるのが嫌だった。私は多分、怖かったのだ。
 責められる理由が分からなかったなら、理由を聞けばよかった。今朝のことを、詳しく説明したらよかった。だけど、実際に口から出てきたのは「玲王くんだって、昨日、私じゃない子たちと勉強会してた」なんだから、もう、どうしようもない。
 あれは絶対に正しくなかった。



「あぁ〜…………」



 人気のないがらんとした駐輪場で、自分の自転車にもたれかかるように体重をかける。吐き出した声は、惨めに震えて、私の足元に落ちて行く。



「なんであんなこと言っちゃったんだろう…………」



 玲王くん、びっくりした顔してた。
 馬鹿なことを言ってしまった。あんな、嫉妬に満ちた、綺麗じゃない言葉、思っていたって外に出すべきじゃなかった。後悔と羞恥と混乱で泣きそうになった顔を見られたくなかったとは言え、走って逃げるなんて、最悪だった。
 明日からどんな顔をして学校に通えば良いのか、もう全然わからない。玲王くんの顔だって真っ直ぐ見られる気がしない。鼻を啜ったら、喉の奥が痛かった。後頭部を焼く太陽の熱が、少しずつ、煩わしく思えた。








 謝るべきかと思ったが、そもそも何をどう謝れば良いのかわからない。
 休日にクラスメイトと集まって勉強するなんて、だって、そんな気にすることか? そんなもん中学のときからいくらでもあっただろ。あんなの、予定がなかったから付き合っただけだし、そんなところ突かれたってこっちの腹は全然痛くない。後ろめたいことなんか何もないんだから、当たり前だ。頭の隅でそんなことを考えながら問題を解いている途中で、シャーペンの芯が音を立てて折れた。ノートの間に挟まるように転がったそれを見て、ほとんど無意識に舌打ちをする。



「めんどくせぇ……」



 独りごちた声は、誰もいない自室に存外大きく響いた。それを誤魔化すように、シャーペンを放る。ベン図を真っ二つにする位置で止まったそれを、視界の端に留め置く。
 話をすり替えられたせいで聞けず仕舞いだったが、結局は三浦のことをどう思っているんだろう。やっぱり、異性として好意を抱いているんだろうか。今までの二人を見るに、有り得ないとは言いきれないように思うが、そう考えてしまうと、妙に苛つく。三浦は悪いヤツではないって俺だって分かっているのに、どうしたって燻る靄がある。
 椅子の背もたれに体重を預けて、息を吐く。無意識に掲げた手には、まだ、の手首の感触が残っているような気がした。ほっそい手首だった。そうすると、連動するように記憶が繋がって、の俺を見上げる、涙で滲んだ目が脳裏に浮かぶ。痛みを訴える弱々しい声も、転びそうになりながら遠ざかる、あの小さな背も、消えない痣みたいにこびりつく。
 両親から与えられた婚約者。は俺にとっての、「あって当然」だった。自分の元から勝手に動いて、どっかに行っちまうなんてこと、だから俺は考えていなかったのかもしれない。俺はそれが気にくわないのかもしれない。でもじゃあそれが何でかって考えても、答えに窮する。



「……なんなんだよ、クソ……」



 机の端で、しんと静まっているスマホに視線を送る。こんな状況なのに、のことがどうにも心配だった。数学のテストは週明けだが、赤点なんかとったときには、だから言っただろって、頭を小突くくらいはしちまうかもしんねえ。勿論、その時あいつの隣に三浦がいなければの話だが。でも、それができたらどんなに良いだろう。俺とは、そういう関係であるべきだった。自分の感情に理由付けはできなくても、俺はそうやって、を傍に置きたかった。
 スマホに何度か手を伸ばしかけたけれど、やめた。まだ自分の中で確かな答えが出ない以上、どうするかは、明日直接の顔を見てから決めた方が良いだろう。自分の意思を優先すべきか、のことを考えてやるべきか。後者を取るなら、けれど俺は自分自身を納得させられるのか。そういうことを考え出すと、やっぱり腹の奥が疼いて気分が悪くなったから、仕方なく転がったシャーペンを握る。勉強してた方が、余計なことを考える暇が減る分、ずっと楽だった。


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