玲王くんは下校する生徒たちを追い越しながら、どんどん先を歩いて行く。



「あっ、玲王だ!」

「玲王くん、ばいばーい」



 その歩幅や、普段よりも大きく思える足音から鑑みれば、玲王くんは多分、今、ちょっと怒っているんだろう。私はそう思っていたから、玲王くんが周囲から向けられる声の一つ一つに、平生の調子で挨拶を返しているのが不思議だった。「おー、またなー」って言う玲王くんの声は、淀みなく明るい。どんな顔をしているのか、玲王くんの真後ろにいる私の位置からでは正確には分からなかったけれど、どうにかその髪の隙間から見えた口元は、きちんと笑みの形になっていた。でも、それに安心して良いのかどうかも、私には分からない。だって玲王くん、全然こっちを見ないから。
 昇降口に行くのに一番近い階段を、玲王くんは下りなかった。必然、私たちは下校する他の生徒たちから離れることになる。さっきまで数歩遅れて玲王くんを追いかけていた私は、人の目がなくなったことで、ようやく小走りになって玲王くんの半歩後ろについた。どこに行くんだろう。私は玲王くんに、行き先も、用件も告げられていない。



「あ、あの、玲王くん……」



 勇気を出して名前を呼んでも、玲王くんはちっとも振り向かなかった。届いていないはずないのに、私の声だけが聞こえないみたいに、真っ直ぐ前だけを見ていた。
 心臓がばくばくと音を立てる。人の気配が希薄になる方へ向かって行く玲王くんと、そんな彼についていく私は、何か取り返しのつかないミスを犯してしまう気がした。そして、そのミスは、私たちの身体に大きな傷を作るんじゃないかって、予感めいた確信だけがあった。
 一度追い付いたはずなのに、今日の玲王くんは歩幅が大きいから、また少し距離が空いてしまう。いつも一緒に歩くときは気がつかなかった。玲王くん、本当は私に歩くのを合わせてくれていたんだ。でも、今はそんな風に心を割いてもらえない。そう思ったら、泣きそうに鼻の奥が痛んだ。前を歩く玲王くんの背中から、そっと目を逸らす。なんでそんな風に怒ってるの? なんて、聞けるはずがない。
 玲王くんが怒っている原因を考える。昨日の夜に届いていたメッセージの返信が、朝になってしまったせいだろうか。でも、前は返事が遅くなっても、全然気にしてなさそうだった。それとも、やっぱり内容が素っ気なかった? 今回だけじゃなくて、最近のやりとり、玲王くんが何も言わないのを良いことに、私は玲王くんの厚意を蔑ろにしてしまっていたのかもしれない。そういうつもりはなかったけれど、玲王くんがそういう風に受け取っていた可能性は大いにある。そう思ったら、血の気が引いた。ごめんなさい、そんなつもりはなかったの。そう言いかけた言葉は、だけど喉に引っかかる。「そんなつもりはなかった」なんて、本当だろうか。玲王くんがどういう風に感じるかを考えていなかっただけで、私は玲王くんと、距離を置こうとしていたのに。玲王くんから離れる心の準備をしようとしていたくせに。
 いつの間にか、私と玲王くんは文化部の部室の並ぶ、人気のない廊下にいた。普段この時間は美術部や書道部の学生が行き交うのだろうけれど、テスト前の今は、二人分の足音だけが反響している。両端に教室の並ぶ廊下は、突き当たりに非常口用の大きな窓があるだけで外光が届きにくく、仄かな闇さえ落ちている。
 夏だって言うのに、半袖のブラウスから出た腕が寒いくらいだった。玲王くんは、美術室や準備室の前を通過して、その奥の、引き戸が開かれっぱなしになっていた空き教室に入っていく。逡巡したけれど、私も彼に続いた。そもそもそうする以外に、選択肢はなかった。
 化学室で使われるような、六人くらいの生徒がつける大きな机が九つと、必要な椅子だけが整然と並ぶ教室だった。黒板は使い込まれている形跡があったから、何かの授業で使う部屋ではあるんだろう。玲王くんは、初めてこちらを振り向くと、扉の傍で突っ立っている私の元まで歩み寄る。でも、全然目が合わなかった。その腕が動いた瞬間、思わず身体を竦ませる。玲王くんの腕は、私の背後にある扉を閉めただけだった。いや、だけど、果たしてそれは、「だけ」なのだろうか。後ずさりたくても、閉められた扉に阻まれる。密室。私の影と、玲王くんの影が重なる。







 その時、玲王くんが私の名前を呼んだ。低く、掠れた声だった。さっき、教室でも呼ばれたはずなのに、それは随分久しぶりに耳にしたような響きに思えた。
 こんな風にちょっと身を捩らせれば身体に触れてしまうような距離に玲王くんがいるのは、初めてだった。幼い頃を換算するのなら、それは、厳密に言うなら初めてではなかったけれど、でも、私はもう、あの日々と今とを切り離そうとしていた。
 だから、玲王くんの手が私の手首を掴んだとき、息も心臓も思考も、全部、止まってしまうかと思ったのだ。
 玲王くんの、いつもより濁った双眸に、目を丸くした私が映っている。



「お前、何で三浦に勉強見てもらってんの?」



 玲王くんの手は、いつかのそれより骨張っていて、私が思っていたより、ずっと温度が低い。








 腹が立っていた。
 どんだけ俺が気にしていたと思ってんだとか、こっちは何回も大丈夫か聞いてただろとか、それでなんで俺じゃなくて三浦なんだよとか、ガキくせえことばっか頭に浮かんで、それが全然拭えない。俺の身体の内側にべっとり手形をつけていく粘度を持った感情が、不快でならないのだ。が隣の席の女子に教わっているのを見たときから腹にあった異物感が膨張していて、今それはほとんど破裂する寸前になっている。



「れ、玲王くん、手、痛い……」



 いつの間にか、掴んでいたの腕に必要以上に力を加えてしまっていたらしい。我に返ったけれど、離してやれなかった。の手は、やわくて、小さくて、本気で力を入れれば折れてしまうんじゃないかってくらい華奢だ。俺のものとは違う。性差なんかほとんど感じなかったガキの頃とは、もう、何もかもが変わってしまった。
 そんなの当たり前だろ。
 自答した直後、腹の底からふつふつと湧き上がる苛立ちに舌打ちをする。そもそも、なんでそんなもんが生まれるのかもわからないのだ。が困惑した目で俺を見上げるのも、それにどこか怯えが混ざっているのも、全部、腹が立つ。だって、何で三浦なんだよ。
 今朝のメッセージも、その前からの素っ気なさも、三浦に聞くから大丈夫、ってことだったんだろうか。だとすれば、俺と距離を置こうとしていたように見えたのも勘違いじゃなかったってことになる。打ち上げの集合場所でも、そういえば二人で並んで話してたもんな。文化祭が終わった後のカップケーキだって、わざわざ直接三浦からもらったんだろ? 一日中そんなことを考えて苛立っていたなんて、だけどどうして言えるかよ。
 なあ、だからせめて、違うって言え。



「……お前、もしかして三浦のことが好きに」

「玲王くんだって!」



 俺達の言葉はほとんど同時に発されたもので、だけど、声量はの方がずっと大きかった。俺の声をかき消すほどに。だから俺は、の声が聞き取れたのだ。
 少しも荒れていない唇が、喘ぐような息と共に言葉を紡ぐ。「玲王くんだって」って。



「玲王くんだって、昨日、私じゃない子たちと勉強会してた……!」



 言い終わった瞬間、その目がはっと見開かれる。の目が潤むのと同時に、その顔が一気に赤くなったのに、驚いてしまったせいだ。俺が、の手首に込めていた力を緩めたのは。
 「は?」って声を漏らした俺に、は後ずさろうとしたのだろう。その踵が扉にぶつかって、ごん、と鈍い音を立てた。



「……ち、ちがう、今のは、なんでもない、から」



 空いている手の方で髪をかきあげ、震える声で口にしたは、直後俺の手を振り払い、後ろ手で引き戸を開ける。涙で滲んだ目はそのまま、そして、踵を返して今来た廊下を走って逃げた。「!」慌てて廊下に飛び出したけれど、足をもつれさせながらも遠ざかっていくを追いかけてあの肩を掴む気にはどうしてもなれなかった。だって、泣かせたかったわけじゃなかったのだ、俺だって。
 全身から力が抜けていくような感覚に、素直にしゃがみこむ。



「……んだよ……」



 心臓が、変な音を立てている気がした。いつまでも、の俺から逃げる足音だけが、耳にこびりついていた。


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