「ん」



 昨晩に送ったメッセージには、いつの間にか既読のマークがついていたらしい。
 いつもの犬のスタンプが送られて来ていたのに気がついたのは、ばぁやの運転する車の中だった。広々とした車内で足を組み、スマホを片手に、思わずぼやく。



「……本当かよ」



 バックミラー越しに視線を感じながらも、顔は上げなかった。ほとんど無意識に、「」とのトークルームをスワイプする。最近のから送られてくるものは、スタンプと、短い一言ばかりだ。それを自覚すると、腹の底が妙にざわつく。
 返事をしようか少し迷って、やめた。どうせこの後学校で顔を合わせることになるのだ。自身、大丈夫、って言っているわけだし、変につつくのもな。アホみたいな顔をした、スタンプの犬と見つめ合う。大丈夫! って叫ぶルークと同じ毛色をした犬は、ルークと言うよりもどことなく本人に似ている。
 まあ、しかしどう考えたって「大丈夫!」ではないだろう。あの数学のまあまあややこしいプリントを、この週末にが一人の力で解けたとは到底思えない。よしんば解けたとしても、二問かそこらが関の山だ。あそこから類似問題を出すって言うなら、間違いなく期末の難度は跳ね上がる。
 どっかで泣きついてくるだろうと思い、スマホはいつでも(それこそ、昨日の「勉強会」のさなかでも)目に付くところに置いていた。もし通知が来たら、いつでも返事をしてやるつもりだった。それでもわかんないって言うなら、電話をかけて、前みたいに懇切丁寧に教えてやったって良かったのだ。
 だけど結局、夜になってもから連絡が来ることはなかったわけで。
 口の端から、ほとんど無意識に息が漏れる。
 素っ気ない、っつっても、どうしようもなくなったらは俺を頼るだろう。他の友人に連絡するより、俺のほうが余程気が楽だろうから。どっかでそう考えていたところはあったから、何の連絡もないまま休みが終わろうとしていたことに、心配する気持ちも半分は持ちながらも、「は?」と思った。その「は?」の意味するところを、余すことなく言語化しろと言われたら、けれど少し言葉に詰まるのだ。自分の感情だってのにな。もやもやする気持ちを抑えながら「数学のプリント、解けたか?」って送ったのが昨晩の、まだ早い時間帯だった。
 でも、その返事がこれだ。
 ――どうすっかなあ。
 思考しながらもばぁやにお礼を言って車を下りると、「あ、玲王だ」「おはよう〜!」と方々から声をかけられる。「おはよ」と短く返しながら、けれど俺は、校門から駐輪場へと向かう自転車通学生を探す。テスト期間に入った頃からは普段よりも早めに登校して勉強しているようだったけれど、その辺にいやしねえかな、って考えてしまう。
 正直、がどうして急に俺と距離を置こうとしているのかは分からない。自身でも気がつかないうちに、を怒らせるようなことをしたんだろうか? 打ち上げの前後にあったことを思い返すも、でも、どれもの神経を逆撫でしたとは思えなかった。……つーか、あいつが怒るところって、どうも想像つかないんだよな。小さいときから、喜怒哀楽の怒の感情だけが、他と比べてどうにも薄いやつだったから。敢えて怒っていたとすれば、俺がルークにボールを投げているときくらいだっただろうか。「なんかルーク、私といるときより楽しそう……」ってふて腐れていたのを、何となく覚えている。あいつの怒りのポイントがその辺だとするなら、益々原因が分からない。
 やっぱ直接声をかけた方が手っ取り早いし、確実か。
 そう考えながら教室に入ったもんだったから、それこそ今度は本気で、「は?」って言葉が口をついて出かけたのだ。
 だって人間、誰だって、信じらんねえもんを見たらそうなるだろ。
 半数以上の生徒が登校を済ませ、それなりに賑やかな教室の片隅にある自身の席に、は座って背を丸めていた。やっぱり早めに登校して勉強していたんだろう。白い腕の隙間からプリントの端が見える。多分、例の数学のプリントだ。やっぱり自力じゃ解けなかったのだ、あいつは。
 頭をゆらゆら左右に動かすは、やがて助けを求めるように、その視線を隣に座っているやつに向ける。視界に映る、丁寧にアイロンのかけられた半袖の白いシャツ。その腕は、文化部とは思えないほどにがっしりとしている。その横顔が視界に入る。
 の隣で勉強を教えてやっていたのは、本来の席の持ち主である女子じゃなくて、三浦だったのだ。
 ――ああ、これは苛立ちだ。
 冷静に考えながら、変色していく感情の行き場を探っている。「あ、玲王、おはよう。昨日はありがとね」そう親しげに声をかけてくるクラスメイトに、「おー」と答えながら、作った笑顔を向けたけれど、どこも引き攣っていなかったかどうかは、自信が無い。








 三浦くんの教えてくれたポイントを改めてノートにまとめたら、何だか急に出来る女になった気がしてきた。
 やっぱり「テストに出す」って先生が言っていただけあって、あのプリントの解法パターンを掴むことが最優先になってくるみたい。プリントで解いた問題の考え方を基にすれば、どの問題に対してもとっかかりにはなるだろうって。それに数学は途中点もくれるし、頑張って取り組めば答えまで導けなくてもきっと加点はしてくれる。そう思ったら、ちょっとだけ心が軽くなった。テストは今週の木曜日から、来週の火曜日まで。数学は三日目の月曜日で、もう一回土日を挟むから、まだ時間はある。やれるだけやるしかない。とりあえず、このプリントだけは隅から隅まで理解しなくちゃ。三浦くんが教えてくれたポイントを、まずは噛み砕いて飲み込んでしまうことを目標にする。
 授業中も、休み時間も、頭の中はテストのこと一色だった。そういう風にしておけば、昨日玲王くんたちが行っていたって言う「勉強会」のことは、意識の外に放り出せた。そもそも、考えたって、それは仕方の無いことだった。私は玲王くんの恋人ではなくて、いや、例え恋人だったとしても、玲王くんの行動や選択を縛る権利は私にはなくて、私たちは一個の個人として、互いを尊重し合わなくてはならない。幼馴染みだから、婚約者だからとかじゃなくて、それは対ひとに向けるべき最低限のものだ。そういう風に考える。染みこませる。自分に言い聞かせる。例えもう一人の自分が、「それでも嫌だ!」って喚いていても。
 実際、私は今日一日の間、玲王くんたちのことを気にしないようにしていられた(気にせずに済んだ、でないのは、仕方がない)。「昨日の勉強会さあ」って誰かが話した気がしても、ずっとプリントと、三浦くんの言をまとめたメモとにらめっこできた。割り切るしかなかった。面と向かって「嫌だ」って言えない以上。この不安定な関係をなかったことにする勇気がない以上。
 だから、放課後になってリュックを背負った私の前を玲王くんが立ち塞いだとき、私は、びっくりしてしまったのだ。
 いつもと違って、教室にはまだ何人かの人が残っていた。テスト前だから部活もなかったし、私の傍には夏帆ちゃんたちがいた。「えっ」って声が漏れる。廊下側の窓からの明かりで微かに逆光になった玲王くんが、私を見下ろしている。







 私を呼ぶ玲王くんの声は、微かに掠れていた。



「ちょっと付き合え」



 教室の後ろ側の扉。私はリュックの肩紐部分を両手で掴んだまま、感情の読み取りにくい玲王くんの双眸を、ただ困惑しながら見つめている。


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