ひりひりする。
物事を考えているのは脳であるはずなのに、こういうとき、実際に疼くのが胸の辺りなのはどうしてだろう。心臓に変な力が入れられたみたいに苦しくて、指の先がどんどん冷たくなっていく。英文を読み進めるけれど、思考の隙間に挟み込まれる異物のせいで、集中が続かない。貴重な休日だっていうのにテスト勉強が捗らないのはまずいっていう自覚だけはあるから、一人で焦って、追い込まれてしまう。物凄い悪循環だ。どうにかしたいのに、どうにもならない。
玲王くんたちは今日の午後、勉強会をするって言っていた。
時間を意識してしまうのが嫌で、部屋の時計が簡単には見えない位置に座った。スマホも、わざと本棚の上に置いている。こんなに徹底的に意識しないようにしているのに、それでもどうしても考えてしまうのだ。玲王くんと、玲王くんと勉強会をする皆のことを。
図書館、って話していたのが聞こえたから、学校に一番近い、大きな区営図書館に行くのかな。あそこは自習室も広々としていて、学校帰りに寄っていく子もいるって聞いた事がある。でも、お喋り厳禁だろうから、どうかなあ。休み時間みたいに皆で話しながら勉強がしたいって言うんなら、誰かのおうち、って考えるのが普通かも。でも、だったら、皆が玲王くんのマンションに行きたい、って言い出したって不思議じゃない。玲王くんのおうちなら広いし、おばさまもきっと歓迎する。
玲王くんのマンションなんか、私、もう何年もお邪魔させてもらってないや。
シャーペンを握る手に無意識に力がこもっていたみたいで、芯が小さな音を立てて折れた。ノートに転がるそれを見ながら、自分の中に生まれた黒いもやもやを引っ掻くみたいに鎖骨の下を撫でるけど、自分が嫌な子になっているみたい、っていう気持ちは、どうしても拭いきれない。
私、やっぱり変だ。玲王くんが誰かと勉強会をするのが嫌だなんて、なんでそんなことを思ってしまうんだろう。玲王くんと私が恋人同士っていうなら兎も角、幼馴染みってだけでそんなことを主張していいわけがない。私にはそんな権利ないのだ。頭では分かっているのに、気持ちに整理がつけられない。皆に優しい玲王くんが嫌、なんてことを考えるのは、良くない、絶対。
その時、扉の向こうから、カリカリってドアを引っ掻く音がして、現実に引き戻される。タマだ。さっきまでリビングにいたけれど、お母さんが出かけて一人になって、淋しくなったのかもしれない。「はぁい」って返事をしながら立ち上がって扉を開ければ、案の定、ふわふわの、大きな毛玉みたいなタマが現われる。その無垢な存在に救われたような気持ちになって、思わずタマを抱きかかえた。
「タマ〜」
存外、縋るような声音になってしまう。空いた手で、背中や首のあたりを撫でると、タマは安心したみたいに身体を預けてくる。時折鳴る鼻の音とか、しまい忘れた桃色の舌、ビー玉みたいな丸い目。こうしてタマを抱っこしている間は、辛いことも全部、一回り、二回り、小さくなる。
「もうちょっと勉強したら、あとでお散歩行こうねぇ……」
お散歩、って言葉に反応して、タマの耳がピンと跳ねる。ふんふん、って、微かな呼吸音がする。
腕の中のタマは、私を慰めるみたいにやわくて温かい。
「あ」
昨晩遅くに玲王くんから届いていたメッセージに気がついたのは、翌朝、家を出る直前だった。「数学のプリント、解けたか?」って一文がぽっかりと浮かんでいる液晶を見て、私はきっちり二秒くらい、固まってしまう。
受信時刻は二十一時を少し過ぎた頃だ。丁度お風呂に入っていて、気がつかなかったんだろう。それに、スマホは昨日一日、ずっと視界に入りづらい本棚の上に置きっぱなしだったから、寝るときも確認しなかった。
寝るには早すぎる時間帯だし、故意に無視したって思われているかもしれない。違うんだよ、たまたま見てなかったの。言い訳したい気持ちをぐっと堪える。ついでに、じわじわと滲み出るみたいに湧き上がる、「気にかけてもらえて、すごくすごく嬉しい」っていう思いを、身体の奥に沈めてしまう。
ガレージの端に置いてある自転車に手を触れる前に返信をしてしまおうと思って、ちょっと迷って、「大丈夫!」ってスタンプを送る。ちなみに全然大丈夫ではない。プリントは、ほとんど手つかずだ。
玲王くんが言っていた「数学のプリント」は、この週末にやっておくように、って先生が配ったものだ。この中の類似問題が幾つかテストに出るって言うから、最低限やっておかないといけなかったのに、昨日の私は頭の中がとっちらかってどうにもならず、結局他の教科の勉強に逃げてしまったのだった。
朝も家で少し見返したけれど、やっぱり全然分からない。そうなっては、誰かに教わるしかなかった。
最近の私は、数学の得意な隣の席の女の子、霧島さんを頼っている。霧島さんは真面目で優しい子で、部活はバドミントンをしている。テスト期間に入ってからは運動部の朝練が禁止されてしまっているんだけど、霧島さんは「早い方が電車がちょっとだけ空いてて楽だから」って、普段と同じ電車に乗って、始業よりも随分早く学校に来ていた。そんな霧島さんと一緒に勉強をするために先週から私も早く家を出るようにしていたのだけど、どうやら今日、霧島さんは風邪を引いてしまったらしい。
もう霧島さんは居るものだと思って教室に「おはようー!」って飛び込んだ瞬間、スカート一枚隔てた太股が、スマホの振動を感知した。霧島さんだった。
「さん〜! 今日私風邪ひいちゃって休むから朝勉強できない、ごめん〜!」
「風邪……大丈夫かな……」誰もいないのを良いことに、教室の灯りをつけつつ、そう呟く。
「そんな、私のことなんて気にしないで! 風邪、大丈夫? 無理しないでゆっくり休んでね」って返事を打ちながら席に着く。隣の霧島さんの席は、今日一日空っぽらしい、って思うと、何だか寂しい。だけどただでさえテスト前なのに、体調を崩しちゃうなんて、霧島さん自身が一番落ち込んでいるだろう。けれどすぐに「ありがとう、本当に微熱だから、明日には行けると思う」って返事が来て、ほっとした。お大事に、って犬がお花を抱えているスタンプを一つ送って、既読がついてからしばらく返事がないのを確認して、それからスマホをスカートのポケットに入れる。
こうなっては、一人でやるしかない。先生に聞きに行くっていう手も勿論あるけれど、職員室に入るの、ちょっとドキドキするし、それは最終手段ってことにしよう。リュックの中からプリントを出して、机に広げる。空白だらけのそれを前にすると、ちょっと気分が悪くなってしまうけど、朝だし、今のところ頭もスッキリしているから、一問くらいは解けるだろう。
そう高を括っていた。
「だからここはこういう風に考えればいいから、さっきさんの言ってた公式はこのタイミングで使うわけ」
「はあ〜……っ! じゃあ、つまりここにこれを代入していくってこと?」
「そう。これでいけるでしょ」
「うん、わかったかも……!」
一人でプリントを広げてから三十分後、霧島さんの席には、三浦くんがいた。彼は貸していたシャーペンを私の机に置くと、「じゃあ終わり」って、短く言う。その表情も、声も、相変わらず凪いだみたいに平坦だ。
教室はいつの間にか、私と三浦くん以外の子たちもやって来ていた。ついさっきまで二人だったはずなのに、集中しすぎて気がつかなかったらしい。時計を見れば、始業まであと十五分。強張っていた肩の力が抜ける。
「わー……これで解き方がわかった……!」
例の如く段階を二段飛ばしにしたような解答を見ても全然理解できなかったのが嘘みたいだ。三浦くんに考え方のポイントなるものを教えてもらったら、随分とっつきやすくなったように思う。ただの記号と数字の羅列だったプリントが、今はちょっと、馴染み深くすら感じられる。メモもたくさん取ったし、これだったら一人でも解けるかもしれない。
「ありがとう三浦くん、助かりました……!」
「別に良いよ。俺もそのプリント見直すつもりで早めに来たんだし……。でも」
「でも?」
「さんが数学できないの、意外だった」
「うっ……」
真顔で呟かれたそれに、反論はない。むしろ、意外って思ってもらえるほどに今日まで数学ができる人間だと勘違いされていたことが、嬉しいような、申し訳ないような。痛む胸を押さえながら、「私、数学全然できないよ。ほんとに困ってたの。三浦くんが早く来てくれて本当に良かった……ありがとう……」と改めて頭を下げる。三浦くんは、相変わらず感情の読み取りにくい目を、微かに細めた。「いいよ」って、やっぱり短く口にして。
「あんな死にそうな顔してたんじゃ、流石にね」
でも、その時彼は確かに、ちょっとだけ笑ったのだ。
私が席に着いてから十分が経った頃、三浦くんは教室にやって来た。プリントを前に困惑していたのを見かねたらしい彼が、「それ、わかんないの?」って声をかけてくれたのを思い出す。ほとんど真っ白のプリントと、頭を抱えた半泣きの同級生、彼が声をかけるのに逡巡したか、しなかったのかは、私には分からない。だけど、本当に、本当にありがたかったのだ。「一緒に文化祭やったよしみ」って、三浦くんは言うけれど。
席を立つ三浦くんに、「今度何かお礼させてください……」って言ったら、三浦くんは「いらない」って素っ気なく返すだけだった。打ち上げのときではないけれど、前よりちょっとは仲良くなれたかなって思った直後だったから、変わらない三浦くんの反応に、思わず気が抜けて、笑ってしまった。
その時の私はもうすっかり目の前のことに集中していたものだったから、玲王くんが私たちのそういうやりとりを視界に入れていたことなんて、全然気がつかなかったのだ。