最近が妙に素っ気ない。
 いや、素っ気ないって言い切るにはギリギリのラインなのだ。昇降口で出くわせば挨拶はするし、週末にメッセージを送れば数時間以内には当たり障りのない返信が来る。前期の一大行事である文化祭が終わって学級委員の仕事はほとんどなくなったとは言え、その他何か必要な決め事があったときも、これまでと変わらずに俺の後ろで書記をして、分からないことがあれば俺にきちんと尋ねた。目はそんなに合わないけれど、元々は人の目を見て話すのが苦手な奴だったから、それをもって「変化」というには証拠に乏しい。
 こうやって挙げてみると、素っ気ない、とまでは言えないか。――でも、なんか違うんだよな。俺にしか分からない薄い膜で全身を覆ったは、俺にしか分からない形で俺と距離を取っている。同じ教室にいるはずのは、今、少し俺から遠い。
 勉強に関して俺に泣きつかなくなった。
 多分、それが一番大きいの変化だろう。あの放課後からだ。文化祭が終わった、打ち上げの翌日。あの日から今に至るまで、は俺を頼らない。俺が「数学大丈夫か?」ってメッセージを送っても、黄色い犬が拳を握りしめて「やったるぞ!」って叫んでいる、俺の問いかけの答えには全くなっていないスタンプが送られてくるだけだった。どう返したものかと眉根を寄せてスマホを眺めていたら、一分くらい経って、「ありがとう!」って送られて来た。そっちはスタンプじゃないのかよ、って笑いそうになったけれど、その不自然さは、見方を変えれば穏やかな拒絶であるようにも思えた。
 ――なんて、流石に穿ちすぎか?
 こういうとき、公平に、何の思惑も計算もない真っ新な人間がいりゃあいいのにと思う。俺が尋ねたとき、常に客観的な姿勢を崩すことなく正しい答えをくれる人間。そうしたら、俺は何か落としどころを見つけられたかもしれなかった。でもそんな奴いやしないから、自問自答する他ない。
 が自力で数学の問題が解けるようになったのなら、それは良いことだ。大学受験に俺を連れていくわけにはいかないのだから。
 でもなあ、別に、順調そうには見えないんだよなあ。
 七月に入って、期末テストはほとんど目前に迫っていた。ここ最近のは俺よりも早く学校に来て、仲の良い女子と一緒に自分の席で勉強をしている。頭を寄せ合いながら神妙な顔で頷いているを見るに、やっぱ数学が得意な人間から教えてもらってんだろうな、とは思う。ただ、眉根を寄せてシャーペンを手に難しい顔をしているの顔は、そういうとき、滅多に晴れなかった。理解できていないらしいのは明白だった。
 「やっぱり大丈夫じゃなかったので、教えてもらえませんか……」って、申し訳なさそうに目線を落としながら俺に言うはいくらでも思い浮かべることができるのに、けれどそれは実際には起こらない。は俺ではなく、隣の席の女子を選んでいる。
 それが、どうにも面白くないのだ。
 教室の時計を見ようとしたのか、ぱ、と顔をあげたと偶々視線がかち合った。はぎこちなく笑って小さく会釈をすると、すぐに俺から手元のノートへと視線を戻した。








 数学の期末テストの範囲は、私が苦手なところがばっちり入っていたから、憂鬱で憂鬱で、頭を抱えてしまいたくなる。
 中間テストの後の、玲王くんにたくさん見て貰っていたあたりは、何とか覚えているんだけど、でもやっぱり文化祭前くらいから始まったあの単元、あれがどうしても私には理解できない。玲王くんに発破をかけてもらってからは予習復習に意識的に取り組んでいたし、彼とは距離を置くように心がけて以降も、玲王くんが送ってくれた問題集の「ここだけは押さえておけよ」っていう箇所とはきちんと向き合っている。難しすぎるのと、問題が理解できないのとで、全然進まないだけだ。
 玲王くんは優しいから、「わかんないとこないか?」って、良くメッセージをくれる。いっぱいあるよ。問題が五問あったら、三問と一問の半分はわからないくらいだよ。でも、だからって玲王くんにばっかり頼っていちゃいけない。ただの幼馴染みの私が、玲王くんを独占しちゃいけないって分かっているから、私はいつも、当たり障りのないスタンプを送る。素っ気ないな、ちょっと失礼かも、って気がついて、あとで「ありがとう」って付け足すんだけど。既読のマークがついてからしばらく経って返事がないって確信したとき、私はいつも、心の隅っこでほっとする。








 テスト前の玲王くんは、仲の良い男の子たちだけじゃなくて、クラスの中でもとびきり可愛い、私よりもずっと賢い女の子たちに囲まれて休み時間を過ごしている。私がまだ解いてすらいない問題を指して「ここの解説がちょっと……」って言う子に、「あーこれはさ……」って、何食わぬ顔で説明する玲王くんを、私は窓際の壁に背を預け、夏帆ちゃんとリサちゃんと英単語帳を広げるその目の端で追っている。
 私に教えてくれるときよりも、ずっと難しい言葉を使うんだな。いちいち擦り傷を作るなら聞かなきゃ良いのに、私の目も、耳も、いつも玲王くんを探してしまう。この癖がなくなったときが、私が玲王くんを諦められたときなんだろうなって、漠然と考える。



「ね、ね。テストの前にこのメンバーで勉強会しない?」



 そんな声が玲王くんの席のあたりから聞こえたのは、七月に入ったばかりの、ある日の休み時間だった。「えー、したいしたい!」「今日金曜日だから……急だけど、明日とか明後日とかさ」「私は大丈夫」「私も。場所はどうする? 図書館とか?」「それってオレらも入ってんの?」「当たり前じゃん」教室の片隅で広がる明るい声は、花がぱって開いたみたいだ。それにもやもやしてしまうなんて、私が変なんだ。狭量なんだ。
 勉強会、って聞くと、私は五月の自分を思い出す。中間テストがあんまりにもな出来だったから、玲王くんが私に勉強を見てくれる、って約束してくれた、あの放課後。おめでたい私は、あの時色んなことを考えた。二人で勉強するなら、誰かに見られるようなところだとだめだよね、図書館とかだと良くないよね、とか。あの頃の私は、もうちょっと前向きにいろんなことを考えられていた。まだ二か月も経ってないのに、ずっと昔のことみたいだ。



「玲王はどう?」



 彼女たちのきらきらした声に、「あー」って言う玲王くんの返事に、心臓が一際強く跳ねる。
 行かないで、なんて、どの口が言えるんだろう。



「明日は用事があるから無理だけど、明後日の午後なら空いてるな」



 思わず顔を上げた。女の子に机の周りを囲まれた状態で、彼女たちの方を向いて話していた玲王くんの姿は、私からは、制服の袖口と、足の先くらいしか見えない。
 こんなにも殴られたように思うなら、単語帳を落としても、夏帆ちゃんたちに不思議がられても、今の瞬間くらい、耳を塞いでいたらよかった。聞かないでいたらよかった。それだったら、ないのとおんなじだった。
 一度息を止めてから、玲王くんの姿が完全に視界から外れるように、立ち位置を変えて単語帳の角度を整える。夏帆ちゃんが何か言うのに、相槌を打ちながら笑う。夏服から剥き出しになった腕が触れる教室の壁は、体温を吸い取るみたいに、ひんやりと冷たい。窓から差し込む白んだ光がページを反射して、思わず目を細めた。英単語は、全然頭に入ってこなかった。


PREV BACK NEXT