解法パターンを掴んじまえば楽な単元だけど、はそこに辿り着くまでに苦労するかもしれないな、と、問題を解く頭の片隅で思っていた。
 あいつは多分、単純な計算問題はそこまで苦手ではない。そこに図形やらグラフやらが関わってくると思考停止に陥るだけで。あとは単純に数学そのものに対する苦手意識が強いから、ある程度進むとまたマイナスからのスタートになりがちなのが問題だろう。そう思って、先週から入った単元の問題を復習しておくように言っといたが、どうもありゃあやってねえな。机に肘をつき、やや前傾姿勢を取るの背は、普段よりも丸い。



「じゃあ前に出て答えを書いて貰おうかな」



 数学の授業中に先生がを指したのは、週明けのことだった。
 日付と出席番号を関連付けて生徒を指名する先生だから、今日の日付から全く関係のないが名指しされたことに、思わず意識をそちらに向ける。顔をあげての方を見れば、分かりやすく動揺した声音で「わ、わぁ……はい……」と返事をしていた。どうも顔を上げた瞬間にうっかり目が合ってしまったらしい。タイミング悪いっつーか、なんつーか。
 が当てられたのは三問目。よりによってちょっとややこしい問題だ。あそこのひっかけ、綺麗にひっかかりそうだよなあ。でも、そもそも基本が出来ていなければひっかかる、ひっかからない以前の話だ。折角薄れかけていた数学への抵抗感が、丸ごとリバウンドでもするみたいに大きくなっている新単元。あれはには荷が重いだろう。
 の背中は徐々に丸くなって、困っているのがここからでもよく分かる。だからちゃんと予習復習しとけっつったのに。昨日やっとけっつった問題が身についていれば解答は導き出せる類のものだったから、余計にそう思う。
 呆れと心配とが上手い具合に混ざり合ったような心地でその背を見る。もしも隣の席だったら、こっそり手助けしてやることもできたんだけどな。流石にこの席からじゃあ見守ることしかできない。一問目、二問目を解くよう指名された他の二人が立ち上がったのを見て狼狽するを突き放してしまえるほど、俺はの身の回りに起こるあらゆる出来事を、他人事として捉えられなくなっているらしい。――なんだろうなこれ、親心か?
 どうなることかと案じたが、結局俺と同じように見かねたらしい隣の席の女子生徒が、先生が他を見ているタイミングを見計らってにノートを貸してやっていた。そのノートを片手に黒板へと赴いたはどうにか恥をかかずに済んだとは言え、それでも問題が分からないっていうことに対する根本的な解決にはなり得ない。それくらい、本人もわかっているだろう。



「お、正解。ここ引っかからなかったな」



 先生に丸をつけてもらった瞬間のは、安堵と罪悪感がごちゃまぜになったかのように俯いた。これを機に勉強してくれるんだったら良いんだけどな。でも昨日の電話の様子から窺うに、ちょっと心配だ。そうでなくてもは、打ち上げの後半から、どうも気が沈んで見えたから。
 昨日ははぐらかされたけどそっちも気にかかるし、直接声かけた方がいいか。
 そう思って、放課後、報告書の提出を終えて生徒会室から戻ってきたに「よ」と声をかけたのだ。提出に案外手間取ったのか、思っていたよりも戻ってくるのが遅く、残っていた他のクラスメイトも教室を出て行った後だった。
 は俺を見て、目を丸くしていた。さりげなく視線だけで周囲を見回して、それから「びっくりしたぁ」って、笑いたいのに上手く笑えない、みたいな顔をする。



「もう遅いし、教室に誰もいないと思った」



 今朝もは、俺を前にこういう顔で笑った。眉根に力がこもって、口角が上手く上がらない、作り笑顔にしても三流品のそれだ。前も見たな、って思う。最近じゃなくて、小さかった俺達が最後に会った秋。
 あの時、あいつの家にルークはもういなかった。








 私のことを待ってくれていたのかな。
 誰もいない教室に一人残っていた玲王くんを前にそんなことを思ったけれど、それが今の自分にとって都合の良い考えなのか、逆に都合が悪いものなのかは、判然としない。
 心臓がばくばくと音を立てていた。どんな風に玲王くんに接したら良いのか、全然分からなかった。朝は、まだ何とか誤魔化せた。だって廊下でばったり出くわしただけだったし。だけど、二人きりのこの状況では平生を装えない。
 玲王くんが私の顔を見て「お疲れ。提出、ありがとな」って言ってくれるのに、目を合わせられず、そっと頷くしかない。今まで通りにしていたらいいんだよ、それが正しいんだよ、って思うのに、その「今まで通り」がどんなだったかが、今の私には分からない。
 玲王くんの視線に気がつかないふりをして、自分の席まで歩いた。玲王くんは、何か用事? いつもの私だったら、そういうことを尋ねるんだろう。でも、それは喉の奥に張り付いたまま、少しも外に出てくれない。
 互いの両親が作った「婚約者」っていう肩書きはハリボテだって知っていたから、私はそれを大事に抱えていた。年を重ねるごとに、土塊みたいに端から零れ落ちていくそれは、いつか自分の手からなくなってしまうものだって分かっていたはずだ。形だけの婚約者。いつか玲王くんは私じゃない他の誰かを好きになって、私の前を去って行く。才覚もなければ勉強もできない、容姿も平凡、その上こんなに後ろ向きな私を、玲王くんが隣に置いてくれるわけがない。
 それで諦めちゃえたら良かった。
 私たち二人の間に落ちた沈黙を丁寧に取り除くみたいな声色で、「あのさ」って、玲王くんが口を開く。



さ、数学、今の単元苦手なんじゃねーの?」



 でも、それがもう、痛いのだ、私には。
 玲王くんの優しさを勘違いして、いちいち嬉しくなんかならなきゃ良かった。
 もし私が将来を見据えて選んだ受験先が白宝じゃなかったら、あの日うっかり合格なんかしていなければ、あるいは、玲王くんと同じクラスになっていなかったら。そうしたら私はきっと、勘違いすることなく自分の立場を適切に理解して、受け止めていたはずだった。



「今日も当てられて困ってただろ。……わかんねーとこ放置しとくと、後で面倒臭ぇぞ」



 玲王くんはきっと、私じゃなくても助けてくれた。居残って、隣に座って勉強を見てくれた。連絡先を確かめて、メッセージのやりとりをしてくれた。夜に電話をくれた。問題が解けるようになるまで、根気強く教えてくれた。だって玲王くんは、酷く優しい人だから。
 「私だから」じゃない。
 それは私に、重すぎるくらいの衝撃を与えた。今まで何度だって言い聞かせてきたことのはずだったのに、それが今こんなにも自分の骨をぐちゃぐちゃにしてしまう理由は、だけど、一つしか無い。それが、何よりも私のお腹を抉ったのだ。



「用事とかないんだったら見てやるからさ、今日これから――」

「今日はっ!」



 玲王くんの言葉に、自分の言葉を重ねてしまう。顔を見ることができなくて、私は視線を、自分の足の先に落としていた。数ヶ月分の日々を過ごした内履きは、春よりも少し草臥れてしまっている。



「……今日は、用事があるので」



 これからすぐに帰らなくちゃいけないの、って、ほとんど口の中だけで言葉にする。不明瞭で早口のそれを、玲王くんはだけどきちんと聞き取ったらしい。その瞳を微かに丸くして、「用事?」って、聞き返した。でも、何の、とは、彼は尋ねなかった。
 幾らかの沈黙の後、「そっか」って、彼は小さく笑う。



「大丈夫か? 急いでるなら、ばぁやに送らせるけど」

「ううん、ありがとう、自転車もあるから大丈夫。……えっと、勉強も、ごめんね、とりあえず自分なりにやってみます」

「や、それは全然いいけどさ。……でも、分かんなかったらいつでも連絡しろよ?」

「……うん、そうする、ありがとう」



 机の脇に引っかけっぱなしだったリュックを背負って、私はそのまま教室を出て行く。「」って、椅子に座ったままの玲王くんが私を呼ぶ。整然と机と椅子が並んだ教室の中、一人そこにいる玲王くんは、だけどどうしてこんなにも燦然と輝いて見えるのだろう。
 光が目に入って、視界が滲む。



「また明日な」



 なんて言ったら良いかわからなくて、だけどどうにか掠れる声で「うん、また」って言った。薄いグリーンのリノリウムの床を、早歩きで歩く。窓から差し込む光溜まりを踏みつけて、リュックの肩紐ごと手を強く握る。手の平に食い込んだ爪の痛みのせいだ、こんなにも、ひりひりしてやまないのは。
 私は玲王くんが好きだった。昔からずっと好きだった。私に色んなことを話して聞かせてくれる玲王くんが、頑張って作ったブラウニーを、すごいなって褒めてくれた玲王くんが、ルークを慈しむように撫でてくれる玲王くんが、私は好きだった。階段を一つ下りた瞬間、目の奥の熱さに気がつく。気がつかなければ良かった。その痛みにも、自分の心の変化にも。
 私はあの頃よりも、もっともっと、玲王くんのことが好きなのだ。
 ノートを貸してくれた玲王くんが、学級委員になってしまった私の前に現われて、笑ってくれた玲王くんが、皆の中心にいる玲王くんが、変わらずに「」って呼んでくれる玲王くんが、勉強を教えてくれる玲王くんが、私は好きだ。いつか玲王くんに相応しい誰かが現われたとき、その場を譲ることが、きっと簡単にはできなくなってしまったくらいに。
 でも、玲王くんはきっとそうじゃないから、だから。
 だから蓋をしなくちゃ。無理矢理箱に押し込めて、体重をいっぱいかけて、なかったことにしなくちゃ。見ないふりをしなくちゃ。鼻を啜る。泣かないように上を向いたら、吹き抜けの先にある円い天井からぶら下がるライトの灯りを直視してしまって、その白さに思わず目を力強く閉じた。
 遠くで誰かの笑い声がする。それが、いつかの自分と玲王くんのもののように聞こえている。


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