「は〜……!」
バッグを放って、ベッドに突っ伏す。タマは声をかけてもリビングの定位置でお腹を見せたまま動かなかったから、今日は部屋に一人だ。――でも、一人で良かった。今タマにじゃれつかれても、可愛がる気力がないのは明白だったから。
「…………疲れた…………」
もうすぐ夏至っていうだけあって、窓の外は夕方なのにまだ明るい。お母さんが日中開けておいてくれたのか、隙間の開いた窓の向こうからは、人の声や車の排気音が漏れ聞こえる。そよそよと流れ込んでくる風が気持ち良くて、ごろりと寝返りを打った。見慣れた天井を漫然と眺めていたはずなのに、だけど私は、次の瞬間にはわあっと顔を覆ってしまう。
疲れた、って思わず口にしちゃったけれど、今のこれは純粋な「疲れた」じゃない。でも、自分の中をどれだけ探しても、今に相応しい言葉が見つからない。
楽しくなかったわけじゃない、むしろ逆だ。ほんとにほんとに楽しかった。悩みに悩んだ洋服も、可愛いって言ってもらえた。普段あまり話をしなかった子ともお話できたし、ファミレスで食べたご飯は美味しかった。あまり長時間居座ると迷惑だろうからって、食事の後は皆でカラオケにも行った。流行りの曲とか、子供のときに見ていたアニメのOPとかを大合唱して、時間なんかあっという間に過ぎていったのだ。隣に居た子に「これ一緒に歌おう!」ってマイクを渡されて、今放送しているドラマの主題歌を歌わされたときは、ほんとにどうしようかと思ったけれど(ただでさえそこそこの音痴なのに、玲王くんにまで聞かれていると思ったら、生きた心地がしなくて)。
皆の前で歌う羽目になったことについては「思い出したくない出来事」に分類されてしまうけれど、それは兎も角として、ここまではただただ楽しかった。大勢で遊ぶのって楽しいんだなあ、白宝に入学が決まったときはすごく不安だったけど、良いクラスで良かったなあ、玲王くんがいてくれて、ほんとによかった!
でも、最後までそういう、上向きの気分のままじゃいられなかった。きっかけは分かっている。飲み物がなくなった女子何人かで、揃って空になったグラスを持ってドリンクバーに向かうとき、「あっそうださんさあ」って、普段あんまり話をしたことがなかった子に名前を呼ばれた、あの瞬間。
「玲王の幼馴染みなんでしょ?」
そのときそこにいたのは、私と夏帆ちゃんとリサちゃん、それから、別のグループの女の子が複数人。
私と一緒に「えええっ?」って声をあげたのは、入学式からずっと仲良くしてくれていた夏帆ちゃんたちだ。でも、夏帆ちゃんたちの「えええっ?」と私の「えええっ?」って、意味が全然違う。夏帆ちゃんたちは「そうだったの?」っていう驚きで、他方私は「なんでそれを知ってるの?」っていう動揺だったから。
「玲王くんと?」
「うそ、知らなかったー!」
他の部屋から漏れ聞こえる人の歌声も、足元の、ちょっと変色したカーペットも、持っていたグラスも、その瞬間、全部全部、自分から切り離されたみたいだった。私の意識は一瞬手の届かない遥か遠くに離れてしまって、その間、ぐるぐると渦を巻くみたいに、或いは、薄いつるつるの紙が折り重なるみたいな感覚で、思考する。なんで知っているんだろう? 私は誰かにそんなことを話した記憶はないし、玲王くんとの距離感だって、「学級委員」として適切なものだったように思う。そりゃあ勉強を教えてもらったっていうのは行き過ぎかもしれないけれど、誰かに見られたことなんて、一回もなかったわけだし。
玲王くんの幼馴染み、って、知られるはずがない。
「な、なんで」
でも、尋ねながらちらついたのは、「どうして幼馴染みって事実だけが広まっているんだろう」っていうことだ。私は玲王くんの幼馴染みだけど、婚約者だ。それは間違いない事実で、だったら、後者が伝わったっておかしくなかったのに。
なんで、と理由を尋ねはしたけれど、私はこの時には、それが他でもない玲王くんの口から漏れたものなんだろうと察していた。だって、それ以外にないのだ。「婚約者」ではなく「幼馴染み」の方を、玲王くんがあえて使ったんだろうってことも、私は分かってしまっていた。
「前日準備のときに玲王から聞いたんだよ、ほら、玲王ってさんのことだけは下の名前で呼ぶじゃん。なんでだろって思ってさ」
だったらそれは、玲王くんにとって私は、婚約者よりも幼馴染みの側面が強い、ってことの証左になってしまうのかもしれない。それは、思っていたよりも深く私のお腹に突き刺さった。息ができないくらいの痛みを、それは私に与えてしまった。
一度目をぎゅうと閉じただけで平生を取り戻せたことを、けれど私は褒めてあげたい。
夏帆ちゃんもリサちゃんも、びっくりしていたけれど、私が黙っていたことを責めたりはしなかった。夏帆ちゃんなんか、「そういえば私も三浦くんと幼稚園からずっと一緒だ、これも幼馴染みになる?」って笑っていたくらいで(それはそれで、ちょっとびっくりした)。
「いやでも玲王くんと幼馴染みってすごい」
「親が知り合いだったって?」
「うわ、羨ましい〜。前世でどれだけ徳つんだらそうなるの?」
ドリンクバーのコーナーで飲み物を入れながら、皆の言葉に曖昧に笑う。そう、実は幼馴染みで、でも小学校の低学年くらいからは、頻繁には会わなくなったよ。うん、お父さん同士が大学のお友達みたい。最近はあんまり会ってなかったから、学校でどんな風に接したらいいか、全然わかんなくて。学級委員になったおかげで、まともに会話できるようになったようなものなんだ。自分と玲王くんの間に落ちるそれらを切って並べながら、私は一方で、自分がすり減っていくような気持ちになっていた。
私は幼馴染み。
玲王くんがそう言ったんなら、やっぱり婚約者だなんて思ってちゃいけないのかもしれない。
スマホの振動音で目を覚ます。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。だけど視界の隅に映った空は薄明で、私がベッドに倒れ込んでからさして時間が経っていないらしいことは明らかだった。枕の傍に置いておいたはずのスマホを手探りで探し当て、引き寄せる。電話。ほとんど朦朧とした頭で、相手が誰かをきちんと確認しないまま「、です」と口にした。「?」スマホを持つのが億劫で、スピーカーに切り替えた、その瞬間に響いた声は、だけど間違いなく玲王くんのものだったから、頬を引っぱたかれたみたいに目が覚めた。
「は、エッ? 玲王くん?」
「なに、寝てた?」
「寝て……ッないッ」
「いや、ちょっと寝てただろ」
咄嗟に吐いた嘘も虚しく、笑われてしまう。覚醒した頭が、五感を徐々に取り戻す。向かいのおうちに住む家族が、お出かけから帰ってきたのだろうか。車のドアを閉める音と一緒に、お子さんの甲高い笑い声が外から聞こえた。起き上がってベッドの上に正座をし、スピーカーをオフにしてから、スマホを耳に当て直す。私は玲王くんとお話をするとき、こうして姿勢を正さないと、どうにも落ち着かない。
「その感じだと、もう家着いたかー?」
「う、うん! おうちです! 玲王くんは……」
「今着いたとこ。今日はお疲れ。結構盛り上がったな。……も楽しめたか?」
「……ん、勿論。楽しかった、すごく」
「そ。なら良かった」
疲れたけれど、色々考え込んでしまうこともあったけれど、楽しかったのは嘘じゃない。
玲王くんが目の前にいるわけじゃないのに、変に緊張する。口がからからに渇いて、前髪の乱れなんかも直してしまって。ベッドのシーツにできた皺を、指の先でなぞる。
「急遽カラオケとか行っちまったけど、正解だったな」
「ね! 楽しかった! 玲王くん、すごい上手だったね。皆聞き惚れてたよ」
「や、フツーだろ俺は。……それより俺、の歌は初めて聞いたわ」
「やー……っ! それは忘れてもらえたら……! 歌、苦手なんだよ……」
「歌詞、噛んでたもんな」
「……玲王くんはなんでそういうとこに気付いちゃうの……?」
「はは。なんでだろうな」
スマホの向こうで、玲王くんがベッドに座ったのか、微かな物音がした。あの、御影コーポレーションが所有する超高層マンションの最上階、思い出そうと思えば、それは私の脳に曖昧な像となって蘇る。最後にお邪魔してから、もう何年が経つだろう。
そんなことが脳を掠める傍らで、私は、どうして玲王くんが電話をかけてきたのか、分からずにいた。何か用事があるんだろうか。このとりとめのない雑談の流れで、何かを切り出されるんだろうか。でも、いくら待っても玲王くんは毒にも薬にもならない会話を続けるばかりだったから、会話が途切れたタイミングで、私はとうとう、「何かあった?」って尋ねてしまう。
「……それはこっちの台詞だっつの」って言葉が返ってくるなんて、想像もしていなかった。
「帰り際元気なさそうだったから、打ち上げでなんかあったのかと思ってさ」
それで、玲王くんに思いの丈を打ち明けられたら、どれだけ楽だろう。
でも、もし私が今自分が考えていることを口にしたら、きっと私は玲王くんを困らせてしまう。私たちって、幼馴染みなだけ? なんて。私は玲王くんを困らせたいわけじゃない。婚約者であることを周囲に認知されたいわけでもない。玲王くんが、これからも白宝高校で一緒に過ごす私が困ることのないようにそう発言したんだろうってことだって、本当のことを言えば分かっている。でも、本当は玲王くんがどう考えているかなんて、知りようがない。玲王くんの心の内側は、玲王くんにしか分からないのだ。
これで玲王くんの気持ちを確かめようなんて、そんなのズルだ。
「?」
スマホの向こうで、玲王くんが私を呼んだ。心配してもらえることが嬉しくて、なのに、それと同じくらい苦しい。
「大丈夫、元気だよ! ……ちょっと疲れちゃっただけ」
心配してくれて、ありがとう。そう続けたら、玲王くんは、不自然になるかならないかの間隔を開けて、「――ならいいけどさ」って口にした。
私たちは繊細なかたちで生まれてしまったから、何か一つでも間違えたら、きっとそのまま全部が壊れてなくなってしまうんだろう。私は今でもそう思っている。