玲王くん、先輩からの告白、断ったんだ。
その事実はびっくりするくらいに私の気持ちを軽くした。ついさっきまで、「もしかしたら婚約の解消を言い出されるかも」ってもやもや考えて落ち込んでいたのが嘘みたいだ。でも、それも仕方ない。私は玲王くんからお別れを切り出されるのが、本当に怖かったのだ。想像しただけで心臓がばくばく音を立てて、泣きたくなってしまっていたくらいには。
浮かれすぎて、つい一緒に食べないかって提案してしまったカップケーキは、報告書を書き終えた後で半分こにして食べた。一日中教室で販売に回っていた玲王くんも、私とおんなじでカップケーキを食べそびれてしまっていたらしい。「実は食ってなかったんだわ。サンキュ」って微笑まれて、益々嬉しくなってしまう。三浦くんありがとう、って、心の中で何度もお礼を言った。うちのクラスが模擬店のトップになれたのだって三浦くんの存在があってこそだったわけだし、彼にはもう足を向けて眠れない。
しかも、カップケーキは格別だった。ごろごろのチョコチップは存在感があって、けれど甘すぎず、しっとりした生地は口の中でほろっと溶けて、もう、すっごく美味しかったのだ。
「おいしい〜……!」
「ん、うまい。マジで売れそう」
「ね、後で三浦くんにお礼言わなくちゃね」
そう口にすれば、玲王くんは「三浦の連絡先知ってんのかよ?」って目を細めて尋ねるから、そういえば知らない、って、首を振る。私の反応に小さく笑う玲王くんの笑顔がどうにもくすぐったくて、つい目線を落とす。
だけど、勿体なくて、こっそり視線を上げた。玲王くんは私よりも一口が大きくて、あっという間にカップケーキを食べてしまう。あんなにぱくぱく食べるのに、ぼろぼろ零れないのって、どうしてだろう。私はさっきから物凄く慎重に一口一口を齧っているっていうのに。そんな風に見ていたら、目が合ってしまって、参った。玲王くんが「なんだよ」って笑うのに、私はもう、声も出せない。
やっぱり好きだなあ。
カップケーキを飲み込んで、それから玲王くんがくれた紅茶を、一口だけ口にした。無糖のストレートティーは微かに舌に渋みが残ったけれど、今は全然、気にならなかった。
打ち上げは文化祭の翌日、学校近くのレストランで行われることになっていた。
集合時間は、午前十一時半。打ち上げって言っても皆で集まってお昼ご飯を食べるだけなんだけど、休日だし、制服で良いわけは勿論ない。そうなると、どうしても、どうしても服装に悩んでしまう。
文化祭が終わって、いつもの白宝に戻った静かな校庭で玲王くんと別れるとき、「じゃ、また明日打ち上げでな」って言われて、じわじわ、浸した紙片に水が染みこむくらいの速度でもって、「あれ」と思ったのだ。明日、そういえば私服で集まるんだった、って。気がついてからはもう私の頭の中はそれだけに支配されてしまう。服、どうしよう、って。自転車をめいっぱい、そりゃあもう本気で漕いで家に帰ってから、私は一人(正確にはタマもいるので、一人と一匹)、クローゼットから引っ張り出してきた洋服を並べてうんうん唸っている。
分かっている、これってすっごく馬鹿馬鹿しいって。だって明日はクラス全員が集まってご飯を食べるだけだ。玲王くんと一対一ってわけじゃないし、勿論デートでもなんでもない。気合を入れすぎるのはおかしいし、クラスメイトたちに張り切ってるって思われるのも本意じゃない(いや、こんな風に悩んでいる時点で「張り切っている」のかもしれないけれど)。でも、かといって適当な服でなんて、行けるわけがないのだ。
「どうしよう……」
御影家との一年に一回の食事会は、毎年洋服を新調して、会場に相応しい格好をしていった。でも、明日はレストランで(それも、人数やらの事情を考慮してファミレスだ)、文化祭の打ち上げっていう名目なのだ。ドレスコードも何もない。
私服自体、五月に一回、タマの散歩中にばったり出くわしたときにお互い見ているから、そんなに悩むものでもないのかもしれないけれど、でも、偶然見られる私服と、見られることが確定している私服とじゃ、やっぱり違う。後者はどうしたって心構えが必要なのだ。清潔感があって、TPOに合っていて、何より私に似合う服。玲王くんに可愛いってちょっとでも思ってもらえる、そんな服。
なんだろう。何がいいんだろう。鏡の前でとっかえひっかえするけれど、お買い物に行くときだったら「これでいいや」って思える格好も、急におかしく見えてしまう。そもそもセンスに自信がないのだ。
夏帆ちゃんたちに、どんな服で行くか聞いてみようかなってちょっと思ったけど、それすらも気が引けた。この前三人で映画に行ったとき、二人ともすっごくオシャレだったってことを思い出したら、服装なんかで悩んでいるのは私だけだろうって思ってしまったのだ。
ベッドに並べたブラウスやらスカート、ワンピースのいいところを全部ぎゅってひとまとめにして、最高の洋服ができあがったらいいのに。ベッドサイドに膝をつき、身体をベッドに預けながら祈るように目を閉じるけれど、数秒後目を開けたって、私の足にタマの尻尾が振れたくらいで、他に変化はなかった。
こんなんで悩んで、もしデートとかそういうのが、これから先万が一、億が一あったら、私、どうするんだろう。
玲王くんの隣に並ぶんなら、勉強もそうだけど、自分の見た目にも気を配らなくちゃいけないなあって考えて、その前途多難さに、ちょっとだけ打ちのめされてしまった。
でもそんなの、想像するだけ意味の無い話かもしれない。今回は先輩からの告白を断ったって玲王くんは言っていたけど、今後はどうなるかわからないんだもの。そういうことを持ち前の後ろ向きさで考えてしまい、また一人で落ち込んでしまう私は、まずそういうところからどうにかした方が良いのかもしれなかった。
「あ、ちゃん、おはよー」
「おはよーっ……!」
少し早めに着くように家を出たけれど、予約していたファミレスの前には、もうクラスメイトたちの姿がちらほらとあった。男子と女子とで一つずつ作られていた輪っかの女子側に飛び込んで、会話に混ざる。もう文化祭は終わってしまったとは言え、こうして打ち上げとして集まってみると、まだ余韻がそこここに落ちているみたいに思えるから不思議だった。
「晴れて良かったね〜」
「ね〜! 暑いくらい」
六月ももうすぐ半ばに入ろうという時期だけど、どうにもむしむしして暑苦しい。昨夜のうちに決めておいたワンピースは首元までボタンがあって、結局出かけに脱いでしまった。それでいつもタマの散歩に行くときのような、オーバーサイズのTシャツにショートパンツっていうカジュアルな格好になってしまったんだけど、他の皆も似たような雰囲気だったからほっとした。
涼しいし、機能的かつ没個性。皆で集まるんだったら、こういうのが一番良い、多分。
お腹空いたねえって喋っていたら、視界の端っこに丁度やってきたらしい三浦くんの姿が映った。多分、そのまま男子たちの輪に入るんだろう。ほとんど考えるよりも先に、「三浦くん!」って声をかける。白いシャツに黒いパンツっていう、遠目からじゃほとんど制服と変わらない私服を纏った三浦くんが、私を見下ろす。
「カップケーキ、美味しかった! ありがとう!」
おはよう、って、先に言うべきだったかな。
三浦くんはだけど、表情筋をほとんど動かさないまま「ん」とだけ言った。文化祭を経てちょっとは仲良くなれたかなって思ったけど、特別そういうこともないみたいだった。
集合場所のファミレス前についた時には、もうほとんど皆集まっていた。もう少し早く着くつもりだったが、道が少し混んでいたのだ。だけどまあ、時間としては丁度ぴったりだ。まだ参加者は全員来ていないみたいだが、これ以上店の前で広がっていても迷惑だし、一旦店内に入るか、と声をかけようとしたとき、丁度視界に三浦と話しているの姿が目に入った。
ありがとう、って聞こえたから、まあ十中八九昨日の礼でも言っているんだろう。連絡先は知らない、って言ってたから、ここで直接礼を言うのもおかしな話じゃない。分かっているのにどうにも面白くないのは、やっぱり俺が狭量であるせいで間違いない。
「あっ! 玲王だ〜! おはよ〜!」
女子に声をかけられたついでに、「中、入っとくぞ〜」って全員に聞こえるように言えば、も俺の方を振り向いた。ぱって見開かれた目は、俺への好意に満ちている。それだけで、さっき芽生えたもやもやは、多少消えてなくなるのだ。……変だよな。
「おはよ、玲王くん」
列を成して店内に入っていくクラスメイトたちの最後尾についたの隣を歩けるように全員を見送った俺に、自身は気付いているんだろうか。「よ」って返して、でも、瞬間言葉に詰まった。なんか今日、足、出過ぎじゃね? って、気がついちまって。
オーバーサイズのTシャツに、ショートパンツ。何の変哲も無いっていうか、その辺を歩けばいくらでも目に入るような女子の格好だ。実際、ちょっと視線を巡らせただけでも、似たような格好をした女子はちらほらいる。
変じゃない。似合っていないわけでもない。ただはいつも、良家の御令嬢みたいなワンピースや膝の隠れるスカートを穿いていたから、そのギャップにびびったのだ。先月タマの散歩中に出くわしたときだって、楚々とした格好をしていたし。さっき三浦と喋っているのを見た時と同種の苛立ちが微かに皮膚を撫でたのは、でも、やっぱ「足出し過ぎ」ってとこなんだろうな。わかってるよ、おかしいのは俺。婚約者とは言え、それだけなんだから、文句言う資格なんかねえし、言う気もねえ。
入店を報せる電子音が妙に耳に付く。じっとその姿を見下ろされていることに、も不思議に思ったのだろう。眉を八の字にして、自分の服装に視線を落とす。ちょっとした沈黙の後、「…………あの」とが口を開かなければ、俺は自分の感情の落としどころを、きっと見つけられずにいたはずだった。
「…………もしかして私の格好、ダサいでしょうか……?」
そんな風に尋ねられて、笑わないわけがない。ぶは、って息を吐けば、はけれど、困惑した目で俺を見上げている。ダサくねーよ、ってすぐに言うのも面白くなかったから、わざとちょっと言葉を濁してやったら、はその顔をみるみる青くさせる。本当に、何でも顔に出て、面白えやつ。昔から、全然かわんねえの。
「嘘嘘。いいと思うぜ」
だから、言うつもりのなかった言葉まで口にしてしまった。「可愛いと思うけど」って。
の顔色が、分かりやすく変わる。青から通常、そこから赤に。でも、個人的にはあんま、足とか出してほしくねえな。それだけはどうにか飲み込んで、喉の奥で笑った。