婚約者がいるから。
告白を断るのに一番有効的と思えるその言葉をその時の俺が吐き出さなかったのは、勿論の事情を考慮したが故だ。
おかげで結構大変だった。「すぐ話は終わるから」って言って俺を教室から連れ出した割に、こっちの返事が色よくないことを察した三年の先輩は、せめて理由だけでもと食い下がる。こういうとき、印籠みたいに婚約者の存在を示せたらどんなに楽だろう。だけどそれは諸刃の剣になってを追い詰めるから、俺はいつもそれを懐にしまっている。その切っ先すらも、誰からも見えないように。
「……もしかして、もう恋人がいるのかな?」
空き教室で呟かれたその言葉に、なんて答えるべきか分からなかった。だっては婚約者であって、恋人じゃない。
「…………あー、いや」
「恋人じゃないなら、好きな子?」
俺達の距離感が他よりも若干近いことの言い訳として使えた「幼馴染み」はこういうときに何の機能も果たさないっていうのも致命的で、俺は返答に窮した。結局絞り出したのが、「――大事な子がいるんで」っていう、嘘なのか真実なのかも分からない、曖昧すぎる言葉だったけれど、それでもどうにか納得して解放してもらえたんだから、選択としては間違っていなかったんだと思う。
大事な子、って口にしたときに脳裏に浮かんでいたのは、だった。多分、その前からその存在がちらついていたからその延長で、っていうんで、深い意味はない。
は俺にとってだし、それ以上でも以下でもない。まあ、好きか嫌いかって言われたら、好きだよ。人間としてな。何か目標があるらしいあいつのことを俺は応援するし、そのために力がいるってんなら手伝う。でもそんなのでなくたって一緒だ(ダセェ奴でもつまんねぇ奴でもねえんなら、っていう前提はあるけどさ)。俺はよっぽど気にくわない奴じゃなきゃ、手を貸すことを厭わない。
でも、じゃあどっちか片方しか助けられないっていう状況になったとき、俺はここで初めて知り合った連中よりかは、の方を選ぶだろうなという確信も持っているのだ。
互いの親から与えられた関係性。価値を見出せない無数の塵芥の中に、金色の犬と一緒にぽつんと座っていた女の子。お前とルークが、あの頃の俺の中に唯一残った色だった。
お前が楽に生きられるんなら、でもやっぱ、それが一番いいと思うよ、俺は。
そんな殊勝なことを考えていたはずなのに、閉会式の後、片付けの最中にが三浦と喋ってんのを見たら、妙にもやっとした。
いやいや、だってそりゃ男と喋ることもあるだろう。いくら女子中出身で、男にはてんで慣れていないって言っても、入学してから早二か月。学級委員も務めている以上は、どうしても人から声をかけられることだって多くなる。いくらこれまでのが、俺以外の男とはほとんど口をきいていなかったって言ってもだ。
三浦はこの文化祭の間、ずっとカップケーキを焼き続けてくれた立役者だ。は調理に携わることのほとんどないまま、焼き上がったカップケーキを教室に運ぶっていう仕事に専念していたようだが、調理班を仕切っていた三浦との接点も多かったことは間違いない。ならば文化祭を終えた今、多少の話くらいはするだろう。あまりもんのカップケーキを三浦がにやるのだって、まあ、変ではないんだよな。
言い訳じみた理由は次々浮かぶのに、それでも、なーんか面白くねえな、って思う俺は、案外狭量だったのか。
教室の端、嬉しそうにカップケーキを受け取って、その後も何か会話を続けるの、僅かに持ち上がった顎を見ていた。
あの頃丸かったはずのそれは今、随分大人びた曲線を描いて、俺じゃない別の男に向けられている。
買ってきた紅茶を無防備に首筋に押し当てた瞬間、笑えるくらいでけー悲鳴をあげられたのは、ちょっとうけた。流石にちょっと、度が過ぎた気もしてるけどさ。教室にはもう他に誰もいなかったし、いいだろ、これくらい。
の分、って言った俺に、はその目を瞬かせる。
「え、まって、これ、いくらだっけ……?」
「金なんかいらねっつの」
不思議そうな顔をするに、「俺のオゴリ。、今日頑張ってただろ」って言いながら隣の椅子を引けば、は困ったようにその眉尻を下げた。
早退した女子の代わりを自主的に引き受けたは、冗談抜きで一日中動いていたと思う。調理係とは言え、自身はほとんど教室と家庭科室とをカップケーキを抱えて走り回っていたんだから。俺が先輩に呼び出されている間だってきっとそうだ。がいなかったら、今日一日、もっと大変だったんだろうな。そういう感謝も込めて差し出したペットボトルを、は最後には「いいの?」って言いながら、おずおずと受け取った。
「いーって」
「ん、じゃあ、いただきます。ありがとう。これ、すごくすき」
「ん」
知ってるよ。お前、昔から好きじゃん。そう言いかけた言葉は、どうしてか、喉のあたりで引っかかった。
売上金を届けに生徒会室に行ったのは十五分くらい前のことだったと思うが、教室にはもう、と俺しかいなかった。文化祭の残り香なんかどこを探してもないのに、それでもなんだか、妙な気分になる。整然と並んだ机と椅子、アーチ窓の向こうから聞こえる微かな笑い声、さっきまでこの教室を飾り付けていた諸々は、今はもう、校舎の裏で業者に回収されるのを待っている。
終わったな。
そんなことを頭の端に浮かべながら、の傷一つ無い手がペットボトルのキャップを回すのを、視界の端で漫然と眺めていた。青い血管が透けて、筋が生きているみたいに動いた。短く切り揃えられた爪は、何も塗られていないのに、艶々とした桃色をしている。爪の形から、俺とは全然違う生き物だって、こんなときに考える。
さっき俺が結露のついたペットボトルを押し付けた首筋に、もう水滴はない。空を仰ぐように顎が持ち上げられて、喉が小さく音を立てる。「はあ……」ため息とも声ともつかない音を零したその唇が、最後には「おいしい〜」って動くのに、俺はどうしてか充足感を覚えてしまうのだ。
「そ。良かった」
短く言った言葉に、はなぜかはっと目を丸くする。それから急に何かを思い出したみたいに机の上のペンを取って、「あの、私まだこれ終わらないから、玲王くん、気にせず先に帰ってね」と机上の用紙を差して言った。今日の報告書だ。
提出期限は一週間後だけど、はこういうのを早く片付けたがる節がある。元々シングルタスクの人間なんだろうな。やらなきゃいけないことを一つ終わらせてしまわないと、気持ち悪くなるタイプ。俺から見たら、それは酷く不器用な生き方に見えた。
「ばぁか、帰んねえよ」
机に片肘をついて、の方に身体の正面を向ければ、はどうしてか、視線を泳がせる。
がやると引き受けてくれたけど、そもそもその報告書だって学級委員の、俺達二人の仕事だ。それを置いてさっさと帰るほど俺は薄情じゃない。
「ん、えっと、そっか」
じゃあ、頑張って書くね、そうもごもごと言いながら、は机に視線を落とした。それを良いことに、ペンケースの隣にある、ラップに包まれたカップケーキをまじまじと見つめる。若干形の悪いそれは、さっきが三浦からもらったもので間違いない。
散りばめられたチョコチップの数を数えるみたいに目を細める。今日、どうだった? そういうことは、聞こうと思えば簡単に聞けた。でも一体、俺はそれでにどんな返答を求めているんだろう。こいつはきっと俺の気持ちなんか知らず、「楽しかったよ!」って笑う。ひょっとしたら俺の目の届かないところで起きた珍事を報告してくれることもあるかもしれない。そこに三浦の名前が出ても、出なくても、俺はきっと「面白くねぇ」って思うんだ。何でかなんて、知らねーけど。
急にがこっちを向くとも限らないから、顔には出さないように気を付けていた。教室にはのペンが発する音と、時計の秒針を刻む音だけが落ちていて、他から切り離されたみたいに静かだ。の視線の先を追う。埋めなければならない項目は、あと二つ。
「あの……っ!」
が急に言葉を発したのは、そのときだった。
目線は用紙に落としたまま、けれど、ペン先は今は紙から少し浮いたところで震えている。多分、力強く握りしめすぎているせいだろう。ほとんど意を決したような声音だったから、正直驚いた。肘をつき、手の甲に乗せていた顔を思わず上げる。俯いたままのの顔は、妙に赤い。
「きょ、今日、玲王くん」
「うん」
「えっと……その」
「……なんだよ?」
「…………ッ!」
別に意地悪しているわけじゃない。の言わんとしていることがちっとも分からないのだ。だけど、その時向けられたの目を見て、一瞬息が止まる。
「玲王くん、先輩とお付き合いするんですか……!」
馬鹿みたいに潤んだ、泣き出す一歩手前みたいな目だった。
面食らって、「は?」って声が漏れそうになったが、どうにか堪える。先輩? って、まさか今日のあの人のことか? なんでがそんなこと知ってるんだ、って思ったが、俺が呼び出されたのを見ていた誰かから何か余計なことでも聞いたんだろう。
いや、でもなんでそれで「付き合う」って発想になるのか。普通に知らない人だったし、急に告白されてすぐに付き合い出すなんてこと、そうそう有り得ないだろ。ていうかお前、一応俺の婚約者だろうが。自分に自信がなさすぎるんじゃねえの? 言いたいことが頭の中に飽和して、すぐに言葉が出てこない。ほとんど涙の浮かびかけた目でじっと俺を見つめるは、だけど真剣そのものだ。――こっちが笑ってしまうくらいに。
「なに、やなの?」
それでつい、意地悪をしたくなってしまったのだ。
は俺の言葉に、益々泣きそうな顔をする。なんでそんな酷いこと聞くの、ってその目は雄弁に訴えるから、口角が上がってしまいそうになる。はなかなか返事をしようとしなかったけれど、黙っていても話が進まないと判断したんだろう。そういうところは、賢いやつだから。
が目線を落とす。耳まで赤くなった顔の下半分を両手で隠して、泣きそうに目を歪めて、水分の多い声で言う。
「いやだ…………」
瞬間、思わず声を抑えて笑ったら、の目がぱっと見開かれた。「なんで笑うの」って不服そうに尋ねられ、緩く首を振る。笑うとこじゃねえよな。分かってるんだけど、だめだ。
声を殺して笑いながら、「付き合わねえよ」って言ったら、は「えっ」って、本気で信じられないものでも見るような顔で俺を見た。
「断った」
お前がいるし、とは言わないけれど。
見開かれたの目に、徐々に感情が浮かびあがる。ちょっとの動揺と、喜び。は目線を逸らしながら、自分の髪を耳にかける。嬉しいときにお前がする昔からの癖だって知っているのは、俺だけだ。
「……そ、そうなんだ……ことわったんだぁ」
「何? オッケーすると思ったわけ?」
「うん」
「なんでだよ」
その頬が赤く染まる。「そっかぁ……」って、持っていたペンをぎゅうと握りながら、弄ぶように触るその指先は、さっきよりかは血の気が通って見えた。気が抜けたみたいに笑うは年よりも幾分か子供っぽくて、変に凝り固まっていた部分が解されるような気になる。
でも、つい数分前まで自分が抱えていた蟠りがはっきりと溶けたのは、直後、がぱっと顔をあげて、「そうだ! これ、三浦くんからもらったんだけど、玲王くんも一緒に食べる?」って、机の上にあったカップケーキを手にしたからだ。
「良かったら半分こにしよ」
が俺にそう笑ったとき、妙に胸のすく思いがしたけど、そんなことは誰にも言えねえな。