玲王くんは、三年生の先輩に呼び出されてどこかへ行ってしまったらしい。
それを聞いてからの私は、今に至るまでの間、記憶に大きな穴をあけてしまったみたいだ。だって空になったトレイを抱えたまま、気がつけば家庭科室の前に居たんだから。
さっきまで教室にいたはずなのに、無意識に戻ってきていたことにびっくりしてしまう。ここに来るまで、人にぶつかったりしなかったかな。誰かに話しかけられていたら、ちゃんと対応できていたかな。何となく脳に残った映像は、でも、人の波を掻き分けて歩く私の目線だけだった。こんな風に真っ直ぐ、心ここにあらずな状態で四階から一階までを歩いてこれるって、何かそのための動作を設定されたロボットみたい。でも、だったらこの胸の内側いっぱいに広がったモヤモヤも、最初から感じなかったら良かった。
先輩かあ。
先輩に呼び出されて戻ってこないって、もう、考えられるの、一個しかないよね。
扉の前でぼんやり立ち尽くしていたとき、背後からにゅって腕が伸びて、思わず悲鳴をあげかける。首を持ち上げながら振り返れば、そこには三浦くんの姿があった。扉の内側にいるはずの人が背後にいるって、めちゃくちゃびっくりする。「み」三浦くん、って思わず漏らすけど、三浦くんは「お疲れ」って短く言うだけ言って、家庭科室の扉を開けた。さっきの戦場モードよりは幾分落ち着いたように見える家庭科室は、だけど扉が開くと、噎せ返るほどの甘い香りに包まれている。
「あ、三浦くんもさんも、おかえり〜」
オーブンから顔をあげて微笑んでくれるクラスメイトに「た、ただいま……っ」って答えて、それから私の背後にいる三浦くんにもう一度視線を戻した。さっきまでつけていたエプロンを外しているってことは、トイレにでも行ってきたのかな。勿論そんなこと確かめはしないけれど。「教室どうだった? まだやばそう?」オーブンの傍にいた子に尋ねられて、はっと顔をあげる。
「えっと……まだすごかったけど、ここからは一旦落ち着いてきそうだって。調理のペース、ちょっと下げて良いみたい」
「あ、ほんとに? やっぱお昼時とかだとご飯系に負けちゃう感じかなあ」
「うん、そうかも」
それと、玲王くんが教室にいないっていうのも、ちょっとはあると思う。
心の中で考えたことに、勝手に傷ついてしまう。「じゃあ、今のが焼き上がったら一旦終わりでいいか。午前組はあがりにしよう」って指示を出す三浦くんの声を聞きながら、こっそりため息を吐く。
詳しくは聞けなかったけど、呼び出されたって、女の先輩に、だよね。
トレイを抱えていた両手に、知らず知らずに力を入れてしまっていたらしい。ぎゅうと握りしめた爪の先が手の平に食い込んで、ちょっと、痛い。
私が昼食後に家庭科室に向かったのは、午後からの当番だった女の子が一人、体調不良で早退してしまったためだ。
夏帆ちゃんとリサちゃんは残念がってくれたけれど、お昼休憩を挟んで再び混雑し始めた教室を見ると午後からの調理班の子たちの負担が大きくなることは間違いなくて、それが分かっている以上、平気な顔で文化祭を楽しめる気がしなかった。お昼ご飯だけは中庭で一緒に食べて(三年生の作る焼きそばだった)、体育館のステージでのダンス部の発表を動画に収めておいてもらうっていう約束をして二人と別れた私は、家庭科室までの道のりを一人歩く。
梅雨を控えた六月の上旬の空は、薄い筋雲が空に引っ掻き傷を作るみたいに浮かんでいる。先週は夏みたいに暑かったのに、数日前に一度雨が降ったおかげで、今日はTシャツ一枚で日陰にいると、ちょっと肌寒いくらいだ。
中庭からどれだけ首を持ち上げても、四階の教室の中なんか見えるはずがないのに、私は空を見上げるふりをして、こっそり自分の教室を視界に収める。アーチ型の窓の向こうは光に反射して、ちっとも窺えない。それでも玲王くんは今、あの窓の向こうにいる。それは多分、間違いない。また誰か別の人に呼び出されたんじゃなければ。
「……告白、されたのかな〜……」
独りごちるつもりなんてなかったのに、口からぽろりと言葉が出てしまったものだから、慌てた。口を押さえてそろりと視線を巡らせるけれど、周囲は相変わらず、文化祭を楽しむ生徒やお客さんでいっぱいだ。私の声を拾った人なんて、きっと誰もいない。
そっと胸を撫で下ろしながら、踵を返す。アーチ型の窓枠は、網膜に焼き付ける前に無理矢理脳から追い出してしまう。
玲王くんは私が午前の係のお仕事を終えて教室に戻ったときには、既にそこにいた。
さっきまで先輩に呼び出されて、先輩から「そういうお話」をされていたとは思えないくらいにからっとした、いつもの玲王くんだった。いつもみたいに笑って、いつもみたいに男の子の肩を叩いていたから、私はちょっとだけ、分からなくなった。本当に呼び出されていたのかなって。告白されたのかな、って。もしかしたら私の思い込みかもしれない。だって私は、玲王くんがその先輩とやらに呼び出されるところすら見ていないんだもの。そうしてぼんやり玲王くんを見ていたら、ぱっと顔を上げた玲王くんと目が合った。ひらって軽く手を振られて、私はどうしたら良いかわからなくて、小さく会釈をする。
こんなに普段通りの玲王くんなんだったら、やっぱり、告白されたとかじゃないんじゃない?
でも、女の子たちが「玲王くん、さっきの先輩さ、告白されたんでしょ? どうしたんだろうね」ってこそこそ話しているのを耳にして、どうにか持ちこたえていたはずの気持ちがふにゃって折れてしまった。
「すごい綺麗な先輩だったじゃん」
ああ、やっぱり玲王くんは先輩に告白されたんだ。しかもとびきり美人の。なかなか戻ってこなかったのは、二人で盛り上がったから……なのかもしれない、全然わかんない。どこからどこまでが事実で、思い込みで、妄想なのか、私には判別できないのだ。
玲王くん、なんてお返事をしたんだろう。場合によっては、婚約の解消を言い出されてもおかしくない。「なあ」って声をかけられて、「後で話があるんだけど」って言われたら、それはもう私への死刑宣告だ。そう思ったら、お腹がぎゅ、って痛んだ。焼きそばを無理矢理飲み込んだら、痛み自体はちょっとだけマシになったけど。
ただ、そんな戦々恐々とした気持ちで、夏帆ちゃんたちに一切の心配をかけず文化祭を楽しむっていうのは、とっても難しいことのように思えた。
私は考えていることが顔に出るらしいし、考え事をするとちっとも人の話が耳に入らなくなる。その上ため息も増えるしで、非常によくないのだ。だったらまだ、午前みたいにトレイを抱えて走り回っている方が良い。例えぼんやりした状態で往復することになろうと、それでも戦力には違いない。午後から玲王くんが教室にいることで、午前と同じくらいの忙しさになることが約束されているって言うなら、尚更だ。
家庭科室の前に立つのは、今日、一体何度目だろう。廊下にいても分かる甘い香りをめいっぱい吸い込んで、三浦くんたちの姿を思い浮かべながら引き戸を引く。
「大変だと思って、手伝いに来たよー」
恩を売りたいわけじゃ勿論なかったから、目が合った三浦くんに「別に無理しなくて良いのに」って言われたのは、ちょっとだけ堪えた。
でも結局、玲王くん効果が再発動したおかげで、カップケーキは午前以上に売れた。オーブンはフル稼動だったし、私もトレイを抱えて教室と家庭科室とを何往復もしたくらいだったから、居ても迷惑ってことはなかったと思う。
最後の材料を使い切ったとき、三浦くんに「さんがいてくれて普通に助かった」って言ってもらえたから、思わず「よかった」って声に出してしまった。二度の戦場を乗り越えた私たちの間には、この瞬間だけ、結束力に似た何かが生まれていたみたいだったけど、それもまた私の思い込みでしかないのかもしれないな。