生肉生魚の取り扱いは原則禁止。そう玲王くんが説明したとき、教室のあちこちから「流石にそれは取り扱わないでしょ」「生魚って、寿司とか出すってこと? それはなくない?」って笑い声があがったけれど、生クリームもダメ、って続いたときは、ちょっとだけどよめいた。



「えー、じゃあクレープってダメなんだ。知らなかった」

「模擬店って言ったらクレープってイメージあるのにねえ」



 ね、私もそう思った! って心の中で相槌を打つけれど、書記に任じられた私は話し合いに参加する余裕がない。遠くから確認するまでもなく左下に下がり続けている文頭とへろへろの文字に自分自身で泣きたくなりながらも、せめて見やすいようにとチョークに力を入れた。瞬間ギ、って嫌な音がして、鳥肌と一緒に、喉から小さく悲鳴が漏れた。チョークって、なんでこんなに扱いにくいんだろう。普段はもうちょっと、まともな字のはずなのに。
 それでもどうにか黒板に「×生肉・生魚・生クリーム(クレープ)」って書いたけれど、教壇に立つ玲王くんが「や、別に生クリームなしならクレープでもいんじゃね? ハムとか挟んであるやつあったよな? バターとかシナモンとか」って言ったから、慌ててクレープって書いた部分を消した。「あるある」って誰かが言うのを背中で聞く。でも、クリームなしのクレープって、個人的にはクレープ感が薄い気がする。実際に食べたことはないけれど、どうなんだろ、美味しいのかな。私はオーソドックスに、生クリームたっぷりのチョコバナナが好き。
 まだ中間テストの結果が尾を引く五月の下旬、ホームルームの時間を使って行われていたのは、六月にある文化祭の出し物についての話し合いだった。私たちのクラスは模擬店(兼喫茶店という名の休憩所)をやることで話が纏まって、今はその内容について話を詰めているところだ。食べ物を取り扱う以上、どうしたって色々制約や禁止事項はあるけれど、やっぱり模擬店って「高校生の文化祭」って感じがしてわくわくする。椿山じゃ、そういうの、全然なかったから。
 クレープ(お惣菜系?)、たこ焼き、焼きそば、じゃがバターにかき氷。次々にあがる案を、休む暇もなく書き続ける。季節的に合わなそうなもの(おでんとか)だったり、明らかに手間がかかりそうなもの、採算がとれなそうなものもポンポン意見としてあがったけれど、玲王くんはそういうの、一個一個、全部「いいじゃん」って笑って受け入れた。だから皆もアイデアを出しやすくて、空気はいつも丸くて、教室いっぱいに陽だまりが広がっているみたいに居心地がいい。なんとかなるって空気を、玲王くんはきちんと作ってくれる。私は玲王くんの放つ光を背中で感じながら、ただただ書記としての務めを果たすために慣れないチョークと黒板に悪戦苦闘していたのに、それだけで、棘もささくれもなくいられた。なんにも苦しくなかった。それは玲王くんが使う、魔法みたいなもののように思えた。








 学校から各学級に支給される予算や、手間、準備の煩雑さなどなどを考慮して、模擬店の出し物として最終的に選ばれたのは、カップケーキと紅茶だった。紅茶は市販のティーパックで良いし、カップケーキはお菓子作り初心者でも簡単に作れるんだって(うちのクラスで唯一料理部に入っている男の子が中心になって作ってくれるっていうから、それも安心要素だ)。
 だけどこれで正式に決定になるわけじゃない。クラスでの話し合いの結果は、申請書にまとめた上で生徒会に審査してもらわないといけなかった。「その提出用紙、私が書きます!」って申し出たら、玲王くんは「お、サンキュ」って逡巡なく渡してくれたので、私はそりゃあもう張り切っている。こんなんで、私に勉強を教えるために玲王くんの週末を犠牲にさせてしまったことのお礼になるわけじゃないって分かっているし、玲王くんの言う「貸し一つ」にも一切値しないのは明らかだけれど、自分にできることは率先して引き受けたかった。
 放課後、生徒会に提出する書類に「カップケーキと紅茶のお店」と書いていたら、手元に人の形の影が落ちて、思わず顔をあげる。



「それ、今日書いてく?」



 玲王くんだ。
 私はそれだけで、ひゅ、って息を吸ってしまう。挨拶も世間話も「よ」もなく、当たり前みたいに隣の椅子を引く玲王くんは、こちらに身体を向けながら、どっかり座った。「まあ締切りが今週中とは言え、早いほうが良いもんな」って言いながら。私はその距離感に、未だ慣れる気配もなく、どぎまぎしてしまう。



「う、うん。今日書いて、早めに出したいなって思って……」

「ふーん。じゃあ、がそれ終わらすの、待ってるわ」

「へっ!? なんで!?」

「いや、だってお前、どうせ出す前に俺に確認してくれって言うじゃん」



 それとも、言わないわけ? って、意地悪そうに目を細めて続ける玲王くんに、私は「い、言うなぁ……」って肩身が狭くなるような思いに駆られる。確かに、最終的に提出する前に、玲王くんにチェックはしてもらうつもりだった。でも今日の放課後に書いてしまった後、日を改めてから玲王くんに見てもらおうと考えていたのだ。玲王くんが一緒に残る必要って、あんまりない。
 もごもごと口の中で言葉を探す私に、玲王くんは「なんだよその顔」って笑うけれど、それだけで変に突っ込みはしなかったから、私も飲み込んでしまう。
 玲王くんは帰り支度を済ませた鞄から本を一冊取り出した。



「なんか困ったら呼んで」



 そう口にするや否や、玲王くんは片肘をついて、開いた本に目を落とす。書いているところを隣から覗き込まれては、緊張して碌な文章も浮かばないのは自明の理だったから、これにはちょっと安心した。それに「玲王くんまで残る必要はない」って思っていたけれど、やっぱり一人で申請書に向き合うよりも、玲王くん本人が隣にいてくれる方が、心強い。
 玲王くんの存在を右隣に感じながら申請書と向き合っていたら、思っていたよりも早めに詰まってしまって、困った。ちょっと申し訳なく思いながらも「あの、ここって……」って玲王くんに声をかけたら、玲王くんはすぐに、適切な指示を出してくれる。玲王くんは、どんなに馬鹿みたいな質問でも、真剣に向き合ってくれる。そういうところが、皆に好かれる理由の一つなんだろう。お礼を言ったら、玲王くんは薄く笑って「どーいたしまして」って言うから、むず痒くなった。色んな感情でいっぱいになって、間違って、玲王くんの前に並べてしまいそうになって、慌てて咳払いした。
 勉強を教えてくれたのもそうだけど、玲王くんって物凄く面倒見が良い。数学の勉強についてだって、テストの見直しが終わった後も、問題集から問題を見繕ってくれた。それで、実際に取り組んだかどうか、詰まってはいないかとか、丁寧にアフターケアをしてくれる。同い年なのに、家庭教師の先生みたいだ。
 まだあれから数日しか経っていないけれど、私は数学の授業が前ほど苦ではなくなり始めていた。任意のxについて、って言われても、以前みたいに頭が痛くならないし(むしろ「来たな!」って思う)、吐き気もしない。ついていけないのは変わらないけれど、先生の言葉が全部呪文に聞こえる現象は、随分落ち着いた。問題をこなす、っていうのは本当に大事なんだなあって、しみじみ思う。玲王くんのアドバイスは、びっくりするくらい的確だ。
 勉強のことにしろ、学級委員の仕事にしろ、玲王くんの存在がなければ、どれだけ困難な学校生活になっていただろう。少なくとも、数学の成績をじりじりと下げ続け、学級委員の仕事だってきっと全然上手くできなかっただろうことは想像に難くない。そう思うと、好き、って気持ち以上に、物凄くありがたく思えてしまう。その「ありがたいなあ」って気持ちは、それでも最終的に、「好きだなあ」って気持ちに帰結するから、私はさっき抱いたむず痒さを、また胸に落としてしまう。それは細い棘があって、私の皮膚に引っ掻き傷を作る。
 書きかけの用紙から目を上げて、本に目線を落とす玲王くんを見つめた。くっきりとした二重瞼の瞳を縁取る長い睫毛、整った鼻梁、薄い唇に、さらさらの髪。私の視線に気がついた玲王くんがこちらを見るその瞬間に、「玲王くん」って言ったら、玲王くんは「ん?」って、微かに掠れた声で答えた。



「…………いつもありがとう。すごく助かってます」



 大好き、っていうのは、心の中にだけ留めて、口にはしない。これから先も、多分、言えない。
 玲王くんは、開いた本をそのままに、その短い眉を少し下げた。「なんだよ、急に」ってちょっと困ったように笑う玲王くんは、私の記憶に色濃く残る玲王くんより、ずっと大人びている。


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