返信を待たされていたからといって、別に取って食うようなことをするつもりはなかったのに、スマホの向こうでは酷く申し訳なさそうな声を出していた。
俺が家に帰る車の中からメッセージを送ってから、大体五時間近くは経っていただろうか。既読もつかねーな、とは思ってたが、から返事がないことなんか特に気にしてなかったし、そもそも明日は土日だ。「勉強会」は、まあ休みのどこかでできりゃあそれで良いかくらいに考えていたから、そこまで所在なさげにされることもない。は変に真面目なところがある。
「もう、全然スマホ見てなくてごめんなさい……めちゃくちゃ普通に生活してた……」
普通に生活するってなんだよ。笑いそうになって、思わず息を止める。
なんかこいつって、結構な頻度で面白いこと言うんだよな。意味は通じるし、話の腰を折るのも悪いから、いちいちツッコミはしねえけど。少し背を伸ばせば、座っていた椅子がぎし、と音を立てた。ちょっと集中していたせいで、首が凝っているのがわかる。
「いや、別にいーよ。俺も飯食ったり風呂入ったりしてたし」
言いながら、さっきまでやっていた問題集を閉じて机の上を軽く整理した。代わりに広げたのは、今日返されたばっかの数学のテストだ。――が五十点を叩き出した、例のあれである。
流石は白宝高校というべきか、何問かは平気で難問を放り込んできてたけど、普通に勉強してりゃあ解ける問題の方が多かったし、平均七十点強ってのもまあそんなもんだよなとは思う。ていうか、白宝にいるならそれくらいは到達しとかなきゃいけない。入学早々半分しか取れてないってのは、結構まずい状況だ。
空いたスペースにスマホを置いて、音声をスピーカーに切り替えた瞬間、「ん、そっか……じゃあ、不幸中の幸い……なのかな? それでもちょっと申し訳なさがあるけど……」というの細い声が響いた。
の声は、普通の女子、って感じで、俺の部屋に落ちるにはどうにも馴染まない。考えるよりも先に、音量を一つ下げた。母さんはさっき紅茶を置きにきたばかりだから当分部屋には来ないだろうけど、もしもと話してるってバレたら、色々聞かれて、面倒臭そうだったから。別に、勉強を教えてやるってだけでやましいことなんかしてないんだけどな。「あら、電話のお相手、ちゃんなの?」って声を弾ませる母さんの姿が、簡単に目に浮かぶ。
スマホに浮かぶ現在時刻を見れば、あと十分で十一時になろうかというところだった。が普段何時に寝るのかは知らねえけど、何問かは見てやれるだろう。「んで、数学、表の右上からだっけ?」って尋ねる俺に、しかしは歯切れが悪い。
「あ、あのそれなんですが……本当にいいの?」
「あ? 何が」
「いや、その、玲王くんの時間をもらってしまって、申し訳ないなって思っちゃって……」
「ああ」
俺の放課後を使っておきながら、何を今更。
そう思ったけど、言葉にはしない。
そりゃ時間は有限だ。俺だって、本当にどうだって良いことには時間なんか割かない。でも、が同じ教室で困ってるのとか、やなんだよな、なんか。折角椿山から外部受験して白宝に入ったが、何も考えてないわけじゃないってことだって、俺はわかるし。まあ、だから気にかけてるのかって言われると、別にそういうわけじゃない、っていうのは否定しない。俺はまあまあ面倒見が良い性格だと思うし、普通に隣の席の奴が困ってても、そんでそれが男でも女でも、声はかけただろう。
「私、自分で言うのもなんだけど、結構手がかかると思うから……多分これも、今日中には終わらないし……」
電話じゃの顔なんか見えるわけがない。だけど、多分眉毛を八の字にして、困ったみたいな顔してるんだろうな、とは思った。俺の記憶に残る昔のはどっちかっていうと天真爛漫な子供だったけど、人に謝るときなんかはやっぱ、泣きそうな顔で目一杯眉尻を下げていたから。
あの顔、俺はあんま好きじゃなかった。だから、今がああいう顔してるんなら、それはやっぱ、俺の本意ではない。
いーよ別に。そう言いかけて、一度言葉を飲み込む。
「あーわかった。んじゃ、貸し一個、ってことで」
「えっ、貸しっ?」
そう言われるとは思ってもみなかったんだろう。上擦った声で叫ぶから、若干音が割れた。
「そう、貸し。今回は俺が直々に教えてやるから、この貸し、いつか返せよ?」
「え、で、でも、私に返せるかな……?」
「はは、いけるいける」
「…………利子は」
「あるかよ。別に返すのなんか、何年後になってもいーし」
本気で貸しを作ろうと思ったわけじゃない。そもそも本人にできて俺ができないことなんか、そうそうないんだから。
だけどは、すぐには返事をしなかった。代わりに何か、俺には分からない感情がそこに内包してしまっているのを誤魔化すような、小さな咳払いをした。思わずスマホの液晶に視線を落とす。さっき始めたばっかだと思っていた通話だったけど、そこに表示された通話時間は、降り積もるみたいに折り重なっていく。
「わ、わかった」
柔らかい声がそこから響いたのは、ちょっと不自然なくらいの間があった後だった。
「……じゃあ、玲王くんが困るようなことがあったら、なんでもします」
なんでもします、って、そう簡単に口にしていいことでもないけどな。
「――ん。頼むわ」
笑いながら俺がそう口にし終えたそのタイミングで、もしかしたらの方もスピーカーにしたのかもしれない。こと、と無機質な音がした後、「よいしょ」って何かに手を伸ばしたらしいの声が、今までよりも少し遠くに聞こえた。プリント類の擦れる音がする。筆箱を漁ってシャーペンを取り出したのも、カチカチ、って芯を出したのも、耳は拾う。「玲王くん、じゃあ、その、大問の三から良いでしょうか……」ここにはいないのに、隣にいるみたいだなって、そんなことを思う。
ああ、なんか、おもしれえな。
だって二か月前まで俺達、ちょっと遠い親戚みたいなもんだったのに。
「おー、任せろ」
あんな風におじさんとおばさんの間に行儀良く座っていたが今もこんなに手がかかる女だったなんて、二か月前までの俺は思ってなかった。
悪い意味で言ってるんじゃねえけどな。
果たしてテストの解き直しが終わったのは、その翌日、土曜の夕方だった(勿論一度解散してる。深夜の一時をまわったあたりから、が船を漕ぎ始めたのだ)。は俺にめちゃくちゃお礼を言ってきたが、でも、数学って解き直したら終わり、ってわけじゃないんだよな。残念ながら。
スマホの向こうで問題集を広げさせて、類似問題を端から伝える。これを月曜までに三回ずつ解いてこい、って命令したら、は「ひっ……」と声にならない声で悲鳴をあげた。これで終わりにするつもりは端からなかったけど、こいつはやっぱ、定期的に声をかけないとダメかもしれない。