玲王くんに勉強を教わった。
それだけでも並木道に植えられた低木に自転車ごと突っ込んでしまいそうになるくらい嬉しかったのに、まだ先があった。なんと私は玲王くんに、連絡先まで教えてもらってしまったのだ。
「なんだかんだ結構付き合い長いのに、今やっと連絡先交換してんの、ウケんな」
スマホを操作しながらそう言った玲王くんの伏せられた目や、緩く弧を描いていた薄い唇、私のものよりも長い、関節のごつごつした指とか、窓から差し込んでいた光とか、吸い込むみたいに薄く発光した髪の一本一本を思い出すと、自転車を漕ぎながら、わあ、と叫びたくなる。全部自分の記憶から出て行かないように、脳の一部分にぎゅうぎゅうに押し込めてしまいたくなる。
連絡先だよ。
制服のポケットに収めたスマホが熱を持っているみたいだった。全然何も振動してないのに、通知音の幻聴が何度か聞こえるくらい、私はそこに意識を割いている。だって、連絡先。つまり、しようと思えばいつでも連絡できるってことだよ。電話だってできちゃうんだよ。いや、そんなに頻繁に連絡はできないし、しないけど、勿論。でも、それってすごいことだよ。画期的すぎるよ。文明の利器の恩恵を受けすぎているよ。
玲王くんと簡単にやりとりができる手段がここにあるって思うだけで、自分のスマホが急に、ものすごい価値を持ったものみたいに思えた。玲王くんは今更だよなって笑っていたけど、私にとって玲王くんは、そういう括りの外にいる人だったから。自分が玲王くんの婚約者である、っていうのが、薄い板でできた張りぼてみたいなものみたいに思えているせいだっていうのは、わかっているんだけど。
玲王くんは、でも、違ったのかな。
今やっと連絡先を交換したことがウケるって思えるくらい、私のこと、近くに感じてくれていたのかな。
ノートを買うのに立ち寄った本屋さんで、何だかそわそわしてしまって、本当は家についたらにしようと思っていたのに、スマホを見た。どのタイミングで送られてきていたのか、玲王くんから届いていた「おつかれ」にぱっと気持ちが明るくなって、我慢できず、「ありがとうございました!」っていう、汎用性の高い犬のスタンプを送ってしまった。既読はわりとすぐについたけれど、返事はちょっと待ってもこなかったから、ほっとしたような残念なような、不思議な気持ちになる。
返事まで求めるなんて良くない。贅沢すぎる。玲王くんに改めてお礼の気持ちを伝えられただけで充分だ。だって玲王くんのおかげで、全く理解不能だった問題が二つくらい、ぽろって零れるくらい、呆気なく明快に解けたんだもん。これ以上なんて欲張ったら、罰が当たってしまう。
セルフレジでノートのバーコードを読み取りながら、細く長く息を吐く。ポケットでスマホが振動した気がして、お財布よりも先にスマホを物凄い速さで見るけれど、普通に気のせいだった。虚無を感じ取ってしまうこの皮膚は一体なんなんだろう。普段はこんなことないのにな。
「夜、何時頃なら時間とれる?」
だけど、私がスマホを制服の上着にしまった直後にそんなメッセージが届いた。
それを私が知るのは、数時間後のことだ。
「…………ん!?」
学校から帰った直後にタマのお散歩、それから夕飯を食べて(ハンバーグだった)、片付けを手伝いながらお母さんと二人でちょっとテレビを観て、あの芸能人がどうだのやいのやいの喋った。お風呂にゆっくり入って部屋に戻ってきた時点で十時を過ぎていたんだけど、帰ってから机の上に放置したままだったスマホを確認したときに玲王くんからの返事が来ているのを見て、私はすっかり思考を停止させてしまうことになる。
夜、何時頃なら時間とれる?
そんなメッセージが液晶の真ん中に、所在なく浮かんでいたのだ。
一瞬玲王くんじゃない別の人かな? って思ったけれど、どう見たって上部に表示された名前は「御影玲王」だったし、それを証明するみたいに私の送った犬のスタンプがそのメッセージの上でぺこぺこお辞儀をしていた。玲王くんだ。玲王くんから私に宛てたメッセージで、間違いなかった。
「夜……。時間……?」
私が本屋さんを出るかどうかくらいのタイミングで送られて来ていたらしいそのメッセージの後に、返事を急かすようなものはない。なんだろう。スマホを眺めながら思案して、それできっかり五秒くらい経ってから思い出した。びっくりしすぎて、息がほとんど止まる寸前だった。思わず跳ねてしまった膝が机の裏にぶつかって、酷い音を立てる。そうだ、そうだ忘れていた、きれいに記憶から零れ落ちていた。
「今日の夜連絡するけど、いいよな?」
連絡先を交換するとき、そう玲王くんが言っていたのだ。
残りの問題もこの週末にはやっておいた方がいいから、って。
そもそも玲王くんは、まだ全然終わっていないテストの解き直しに付き合ってくれるつもりで自分の連絡先を教えてくれたのだ。多分、メッセージのやりとりっていう手段でもって勉強を教えようと考えて。それを理解した瞬間、血の気が一気に引く。頭で考えるよりも先に、スマホを両手で掴んだ。物凄い速さで「ごめんなさい!」と文字を打つ。何回か打ち間違えて、慌てながら消す。
「ごめんなさい!」
「今みました」
「遅いかもしれませんが、今ものすごく時間あります。なんでもできます。だけど玲王くんの都合が悪かったら無視してくれて大丈夫です」
「返事が遅くなってしまい本当にごめんなさい」
それらを立て続けに送信した後、机の真ん中にスマホを置いて、祈るようにその前で指を組んだ。
ああ、ほんとに、最低、私。連絡先を教えてもらえたことで浮かれて、嬉しくて、陽が落ちて薄暗くなった中、タマとちょっと長めにお散歩した。いつもと温度やにおいの違うお散歩ルートが新鮮で、うきうきした。ご飯も美味しくなっちゃっておかわりまでして、ご機嫌でテレビを観て、俳優さんの名前を思い出せなくてお母さんと頭を捻っていた。さらにお風呂にのんびり浸かった上に週に二回までって注意書きのあるヘアパックまで悠長にしていたのだ。せめてテレビなんか観ないであのとき勉強してさえいれば、今日のことをきちんと思い出して、勉強するって話をしていたなとか、連絡が来ているかも、ってことに思い至ったかもしれなかったのに。
組んだ指の隙間から目を細めてスマホの画面を見るけれど、さっきみたいにすぐは既読がつかない。お腹の差し込みが、きゅう、と痛くなる。そのまま息さえも止めそうになった瞬間、がりがり、って音が耳に届いて、「はいはいはい!」ってドアにすっ飛んでいった。がりがり、っていうその音が、リビングにいたタマが私を追いかけて部屋に来るとき、このドア開けて、ってお願いするみたいに前足で引っ掻く音だっていうのが、身体に染みこんでいるのだ。
タマが部屋に入ってきたのを見届けて、それからきちんとドアを閉める。部屋の中で身体を落ち着かせるためのポジションを探すタマのことを視界の真ん中に入れながらも、私の思考の大部分は玲王くんのことで占められている。どうしよう。どうしよう。ぐるぐると考えながら改めて椅子に座ったのと、開きっぱなしだったその画面に既読の文字がついていると気がついたのと、それがぱっと切り替わって着信を報せたのは、ほんの何秒かの間の出来事だった。
電話だ。
「えっ」
上擦った声が漏れる。
だってそこに、御影玲王、って文字が浮かんでいたから。
二回分のメロディが流れ終わるまで、私は通話のマークをタップすることができずにいた。玲王くんだ、って、視覚情報としては認識できているのに、それ以上先に思考が進まない。もしも指先が偶々そこに触れなければ、私はもう少しだけ、スマホを握りしめたまま固まっていたかも分からなかった。
「も、もしもし。です……っ」
どうにか耳に当てて、そう口にする。
自分でもわかるくらいに、声が震えてしまっていた。そのせいなのかはわからない。だけど、「おー」って、耳のあたりに響く玲王くんの声は、ちょっとだけ、何かを堪えるみたいに笑っているようだった。