「普段どれくらい勉強してんの?」



 放課後の教室は無人で、私たちが戻ってきたときには灯りも消えていた。
 電気のスイッチを入れた玲王くんは私にそう尋ねると、自分の席ではなく私の隣の椅子を引く。あ、この席で勉強するんだ。蛍光灯は、私の心臓と同じくらいの速さでちかちかと瞬いて、橙の陽が差し込み始めた教室を明るくした。いつもは仲の良いお友達が座るその席に、玲王くんがいる。そう思うと緊張で、身が固くなってしまいそうだった。



「えっと……普段は英語の予習とかがメインになっちゃって、数学はちょこっとだけ復習して、あとは課題くらいしかしてない……です……」

「は? 予習なんかすぐ終わるじゃん。てか、苦手意識あるならそれ重点的にやれよ」

「仰る通りで……」



 そうしたいのはやまやまなんだけど、でも、一人で数学と向き合うのって、恐ろしいのだ。勉強しても目に見える成果がないどころか、問題の意味が分からなくて深みにはまる。解説を見てもどうしてそうなるのかが分からなくて、段々気持ち悪くなってくる。大体、問題文からしてとっつきにくい。任意のxについてって、なに? 冒頭四文字で「なに?」となるんだから、その後に続く文章の理解なんてできるはずもなかった。時間だけが過ぎていって、気がついたときには何の進捗も得られないまま一時間。そういうことをもにゃもにゃと口にすると、玲王くんは眉根を寄せ、「現代文はできんの」って、低く尋ねる。急に降ってきた別の教科に関する話に、ちょっと思考を働かせた。「現代文」繰り返す私に、玲王くんは微かに首を傾げる仕草をする。



「あー。じゃあ四月にあった外部のテスト、あれはどうだった?」

「この前結果が戻って来たやつ? あれは……あれも数学がだめで、国語と英語はそれなりにはできてた……」



 偏差値はこれくらい、って指で示した数字を見て、玲王くんが緩く頷く。



「悪くねえじゃん。じゃあそもそもの読解力がないわけじゃないんだな」



 なるほど、それで現代文の話になったらしい。納得して、小さく頷く。
 しかし数学の偏差値は聞かれなくてよかった。それらより二十強も低かったと知られたら、また「は?」って言われたと思うから。
 閉めた窓の向こうで、部活中らしい女の子たちの笑い声がする。玲王くんのさらさらの髪は、光を受けて少し色素が薄く見えた。こちらに身体を半分向けた状態で椅子に座る玲王くんが隣にいるって、何だか全然現実味がない。私たちだけが皆のいる日常から切り取られたみたいで、変な気分になる。
 平日、金曜日、午後五時を過ぎたところ。日の長い五月は、まだ窓の外も明るい。玲王くんはお迎えのばぁやさんに連絡をして、学校の外に車をつけてもらうのを、一時間くらい後にしてもらうように伝えた、って言っていた。私のために申し訳ないという気持ちが半分と、嬉しいな、ありがたいな、っていう気持ちが、半分ずつあって、どうにもそわそわする。「数学とか、結局言い回しに慣れるしかねえからなー……」独りごちるような声は、低く、じんわりと私の中に落ちていく。



「授業スピードもまあまあ速ぇし、死ぬ気で復習するのがベストなんじゃねえの。それこそ課題だけじゃなくて普段からがっつり問題集やるとか」

「がっつりかぁ……。わかってるんだけど、なかなか……」

「てか、多分そもそもの勉強時間が足りてねえよ。家で何してんの?」

「え〜……何してるんだろ……? 学校から帰ったらタマの散歩に行って……夜は課題をして、お母さんのお手伝い……あとはタマと遊んでる……?」

「…………」



 目を細められて、思わずびくりと肩を揺らす。「……タマを構いたくなるのはわかるけどな」玲王くんの口から「タマ」って言葉が出るのが何だか不思議で、ちょっと胸の内側がくすぐったく思えたけれど、それを今ここで口にしようものなら今度こそ睨まれそうだったから、飲み込んだ。



「まあいいや。で、出せよテスト。とりあえず今日は間違えた問題解き直すし、それで対策考えるから」



 言葉を飲み込んだ直後だったせいか、うえっ、と潰れた蛙みたいな声が出て、思わず口を押さえる。



「玲王くん、私のテスト見るの!?」

「見ないで教えられるかよ。早く出せ」

「い、いや……っ! 待って、心の準備が」

「嫌じゃねえっつの。俺に鞄漁られたくなきゃ出せって」

「わ〜! それはだめ! リュック、やばいの入ってるかもしれないから! いつぞやの飴とか……!」

「いや本当に漁るかよ。が出せばそれで終わるわ」



 玲王くんがはぁ、って盛大なため息を吐いたのは、その時だ。「お前、こんなんだっけ?」って続けられて、一瞬びっくりしてしまう。だけど、一度落とした目線をあげた玲王くんの顔は、怒っているわけでも苛立っているわけでも、困惑しているわけでもなかった。玲王くんは微かに眉尻を下げてはいたけれど、それでも、笑っていたのだ。



「いつぞやの飴、って」



 ふ、って玲王くんが短く息を漏らす。堪えていたのに、どうしようもなくなった、みたいに、玲王くんは声を殺して笑った。「あーやべ、おもしろ」って。玲王くんがくつくつと笑うのに、私はなんだか、胸を打たれたように思ってしまう。
 お父さん同士が友達で、生まれる前から紐で結ばれていた私たちは、今、その紐の端っこ同士を手で握って、それを持て余している。たゆんだ中間地点は大きな箱に入れられて、その中身がどうなっているのかについて、私の位置からは探れない。いつでも断ち切れるように持たされた鋏を私はもう遠くに放り投げているけれど、玲王くんの方はどうなんだろう。それが分からないから、私は怖かったのだ。
 玲王くんに、どうしても嫌われたくなくて。
 だけど怯える必要なんか、なかったのかもしれない。本当は。



「…………こんなんだったか、元々」



 何を思いだして、何と比べているのか、私には全然見当もつかないけれど。それでも玲王くんの目には、私に対する情のようなものが滲んでいたように思えたから。
 細められた瞳を縁取る長い睫毛を、私は何も言えずに見ていた。この感情をどう処理したらいいのかわからなくて、ただただ、無理矢理お腹の底に押し込んでしまう。そうじゃなきゃ、いつまでも玲王くんの笑った顔とか、玲王くんが口にした言葉を噛みしめて、大事に両手で抱え込んだまま動けなくなってしまいそうだった。
 やがて私が清水の舞台から飛び降りる気持ちで取り出した答案用紙を受け取った玲王くんの表情に、別の意味で動けなくなってしまったけれど。








 五月の平日、金曜日、十八時を少し過ぎた頃。
 ばぁやの運転する車の中で、ぶぶ、とスマホが振動した。さっき俺が送った「おつかれ」ってスタンプに、が返事を寄越したのだ。
 今頃はまだ自転車で帰宅中だろう。このタイミングで返事を送ってくるってことは、信号にでもひっかかったのか――と思ったけれど、そういえば帰りにノートを買いに行くと言っていたから、単純に店の中からか。だとしても、慌てて返事をすることなんかないのにな。想像して、ちょっと笑う。
 元々クラス全体でグループを作っていたから、そこを経由して、に個人的に連絡すること自体はいつだってできた(実際、そういう手段でもって俺に個別で連絡をしてくるクラスメイトは、男子にしろ女子にしろ、それなりの数いたのだ)。解説と解き直しを数問終えた時点で結構良い時間になってしまっていたのに気がついて、「とりあえずここまでにするか。残りもこの週末でやっといた方が良いだろうし、今日の夜連絡するけど、いいよな?」と尋ねた俺に、は本当にびっくりした顔で、「私、玲王くんの連絡先知らないよ?」と言っていたけれど。
 クラスのグループのところから探して、個人に連絡できるだろ、と説明するのも面倒で、そのまま「あー、そうだっけ?」って適当に話を合わせ、対面で連絡先を交換した。一応は婚約者、って括りなのに、同じ学校の、同じクラスにならなければこんなやりとりもしなかったって思うと、俺達ってやっぱ、変な関係だよな、と思う。変っつーか、歪っつーか。
 でも、連絡先を交換し終えたが、くすぐったそうに笑ってたのはなんか、良かったな。
 ……数学のセンスは、壊滅的になかったけど。
 通知からアプリを開いて、新着メッセージに飛ぶ。とフルネームで登録されたそこに、「ありがとうございました!」とお辞儀をする黄色の犬のスタンプが浮かんでいるのを見て、何だかむず痒くなってしまった。あいつが昔飼っていためちゃくちゃでかい犬にどことなく似ている気がしたけれど、ルーク? って聞いたとき、どんな反応をするのか全然想像がつかないから、やめた。


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