勉強を教えてくれる、ってことは、つまり「勉強会」ってことだろうか。
それってどこで? どうやって? 人数は? まさか二人っきり?
そんなことを悶々と考えていたせいだろう。ほとんど意識のないままに会議が終わってしまったのは。
皆が席を次々と立ち上がったときはどうしようかと思ったけれど、無意識ながらもメモだけは取っていたらしい。とりあえず何でも文章に残そうとする癖があって助かった。そうじゃなかったら、「数学が圧倒的にできない人間」に加えて、「大事な話もまともに聞けない女」のレッテルが貼られてしまうことは避けられなかっただろうから。
前々から言われていた通り、今日の議題は六月に行われる文化祭、白宝祭についてで、会議ではそれについての大まかな流れとか、禁止事項、学級委員の役割なんかが説明された(らしい)。微かに脳の端に引っかかる記憶を繋ぎ合わせていくうち、徐々にその輪郭が濃くなり始めて、ほっとする。確かにそんな話をしていたな、って。
周りの生徒たちが続々と会議室を出て行く中、確認のためにそのメモをじっと読み返していたら、視界の隅に誰かの指先が入った。「」って、その指が誰のものなのかを判別する前に声をかけられる。玲王くんの声だ。彼に名前を呼ばれると、私はいつも、息が止まりそうになる。
「もー終わってんぞ」
玲王くんは、私が席を立つのを待っていた。
今日の会議は前回のものと違って、学級委員は全員参加。どのクラスからも男女一名ずつが出席していて、だけど会議が終われば、彼らはてんでバラバラに会議室を出て行っていた。偶々一緒に学級委員になっただけで、普段さして関わりもない異性同士ならそれが普通なんだろう。いや、女子中出の私はそれが本当の意味での「普通」なのかどうかは分からないけれど、少なくとも白宝では、一般的って考えて良いはずだ。だけど玲王くんは、さっきみたいに、私を待ってくれている。それを目の当たりにして、改めて感動する。目の前で、星がチカチカ光るみたいに。
「ご、ごめんなさい……。今行きます」
隣に置いて歩いてくれるのは、玲王くんのパーソナルスペースが特別広いからであって、私だからじゃない。
自惚れているわけじゃないんだけど、私はそれがどうしても嬉しくて、むず痒い。
しかし「勉強を教えてくれる」っていうのを、私はどう受け取ったら良いんだろう。
教室まで戻る廊下の道中、私は資料を抱えながらうーんと俯く。視界に入る私と玲王くんのまだ真新しさの残る靴は、だけど全然、大きさが違う。そういうのにすら、私はドキドキしてしまう。
たったそれだけで意識してしまうのに、二人で勉強なんかしたら、状況によっては緊張のあまり死んじゃうんじゃないだろうか。
さっきは会議室がほとんど目の前で、他の生徒たちの気配もそれなりにあったから、「それってどういう感じで……!?」なんて風に、食い気味には聞けなかった。かと言って、今私から「さっきの話だけど……」って切り出すのも何だか勇気が要る。
「今日は結構長引いたなー」
徐ろに口にする玲王くんに「そうだね!」って反射で頷く私は気もそぞろで、本当は時間の感覚も曖昧だったのだけど。
勉強を教えてもらう、っていう状況を考えたときに過去の経験からまず思いつくのは、図書館とか自習室とか、そういう公共の場でのものだ。恋人同士だったら、お互いのおうちとかも候補に入るのかもしれないけれど、私たちはそういうんじゃない。……多分。そこに「まだ」ってつけていいのかどうかも分からないけど。
玲王くんが私のことを幼馴染み程度にしか考えていないっていうんだったら、まあ、ありえなくもないのかな? とは思わないわけでもない。おばさまもうちのお母さんも、私たちが二人で勉強会をする、っていうなら、喜んでそれぞれの家に招待してくれそうではある。私がただただ勉強どころじゃなくなるっていう、唯一にして最大の問題があるだけだ。
一旦その問題から目を背けるとするならば、実際、人の目につく場所よりはそっちの方がよっぽどありではあった。私がこうして玲王くんの隣を歩けるのは、「私たち二人は学級委員なので」という大義名分があるからだ。だけど、例えば学校の図書室とか自習室、それこそ休みの日にどこかで二人きりでいるところを誰かに見られでもしたら、ちょっと言い訳ができない。「なんであんな子が?」と冷たい目で見られるのを想像して、ぞわ、とした。私が、誰が見ても美人でしかも頭脳明晰、どこを見ても穴のない心優しい完璧超人だったら、どこでだって堂々と玲王くんの隣にいられたかもしれなかったのに。いや、でも完璧超人だったら勉強を教えてもらう必要はそもそもないな。色んなものが、なるべくしてこうなっている。
「おーい」
その時不意に目の前で手をひらひらされて、思わずびくりと身体が揺れた。意識を現実に引き戻せば、玲王くんに顔を覗き込まれている。至近距離、っていうほどではないけれど、ただ隣を歩いているときに見上げる横顔よりは近いそれに、本当は悲鳴をあげる寸前だった。
「は、はい!?」
それでもどうにか取り繕う。玲王くんはちょっと胡乱げに目を細めた。分けられた前髪の下で、短く整えられた眉が微かに八の字になっている。
「いや、お前この後用事あんのかって話してんだけど」
「へっ? 用事?」
なんで? と考える。もしかして、今の会議で何か私たちの間で早急に決めなくてはならない事がある、って話でもあったのだろうか。一瞬で記憶を遡るけれど、私がほとんど無意識に残したメモにそんなことはなかった、気がする。だけど心ここにあらずの状態で書き残したあれは信頼に足るものじゃあないわけで、ならば何かを聞き逃したということなのだろうか。心当たりがありすぎて、「ど、どうして……?」と震える声で尋ねる。何か、早急にやらなければならないことってありましたっけ、って。だけど玲王くんは、本当に何を言っているのかわからない、って顔で「どうしても何も」って言った。本当に呆れたような声だった。
「さっき数学教えてやるっつったろ。こーいうのは記憶が新しいうちにやった方が良いんだよ。見てやるから、何もないならこのまま残れ」
ひょ、と喉の奥で声になり損ねた息が漏れたのも、仕方ない。
だってそんなパターンは、考えてなかったから。
「す、数学? ……今日? このあと?」
「そーだよ」
「…………教室で?」
「他にどこがあんだよ」
「…………!」
誰かに見られたら――。
そういう考えは、淵に引っかかるみたいに残っている。だけど、首を振ることなんてできただろうか。私の頭は、だってもう、自分に都合の良い理由ばかりを探しているのだ。学級委員の集まりがあった今日だったら、例え誰かの目に入ったところで変に思われにくいだろうし、そもそももう、教室に残っている生徒だっていないかもしれない。会議が長引いたなら尚更、皆もう、部活に行ったり、学校を出ているはずだ。万が一誰かにその状況を見られて事情を聞かれても、私の馬鹿さが露呈して、面倒見の良い玲王くんが勉強を教えてくれているだけっていう事実を伝えれば、それで終わりじゃないだろうか。だって実際、私には平均点より二十点も低い答案用紙があるのだ。
じゃあもう、問題なんかどこにもない。
廊下の奥、体育館のある方角から、甲高い笛の音が響いている。バッシュの音に紛れて、誰かの笑う声がする。渡り廊下のここから窓の外を見上げれば、三階の図書室にいる生徒の姿が見える。傾き始めた日差しが窓から差し込んで、ひんやりとしたリノリウムの床に落ちていて、そういうところだけを切り抜けば私の通っていた椿山学園と大差はないのに、玲王くんがいるだけで、私の目にはもう、ほとんどすべてが、色濃く鮮やかに映るのだ。眩むほどに。
やります、と呟く。玲王くんが私を、じっと見つめている。
「……ふつつか者ですが、よろしくお願いします……!」
玲王くんに勉強を教えてもらえるなんて、すっごくすっごく、嬉しい。
まずは勿論、数学を理解するっていうのが大前提なんだけど。
お辞儀をする私に、玲王くんが息だけで笑ったのが分かった。「ん」って、玲王くんは短く答える。それだけで胸の内側に熱が籠もるなんてこと、玲王くんはきっと知らないんだろうな。