「次、―」
五月の半ばにあった数学Tのテストが返却されたとき、びっくりしすぎて「ぎょえ……」って小さく声が出た。
だって右上に書かれたそれは、返却前に先生が口にしていたクラスの平均点より二十点も低かったのだ。手渡される瞬間、先生に「もっとがんばれよー」って言われたのも、仕方ない。
こんなこと、中学まではなかった。誓ってなかった。元々そんなに理数は得意じゃなかったけれど、平均点より下ってことは一度もなかったのに。やばい、どうしよう、ってお腹が痛くなる。テストがこの手に戻った瞬間、「私はクラスの平均点をめちゃくちゃ下げた人間です」って書かれた看板を首から提げたような気持ちになってしまった。
「隣のクラスより平均点が二点低かったぞ」って先生が言うのを、居たたまれない思いで聞く。私がいなかったら隣のクラスと同じくらいだったんじゃないだろうか。この通り平均点より二十点も低い私は数字に弱く、そういう計算を瞬時にかつ的確にこなす能力に欠けているので、実際どうなのかは分からないけれど。
先生が問題の解説をしてくれるのを聞くとき、大抵の人は机に広げた自分のテストの点数が他の人から見えないように筆箱とかで隠したり、その部分を折り曲げたりする。私も多分に漏れずそうしたけれど、皆の答案よりもバツの多いそれの点数を隠したところで、あんまり意味が無かった。先生の解説も、途中からついていけなくなってしまう。
ああ、どうしよう。先生、思考の階段を三つくらい跨いで解説してませんか? でも周りの皆の表情を窺うに、疑問符を浮かべているような人はいなそうだ。ホントに? ホントにみんな、これが分かってる? でも分かっているから平均点が高いのだ。混乱しているうちに授業の終わるチャイムが鳴った。私も終わった気持ちになった。
「どうだった?」
「ビミョー、平均はいってるけど。お前は?」
「数学は得意なんだよね、俺」
「げ、ほぼ満点じゃん……」
なんて会話が飛び交う休み時間、私は震える手でテストを机の中にしまう。この既視感、これは受験の日のあれだ。あのときもまずい自覚はあったなりにそれでも奇跡は起きたけど、テストはただ私に「できなかった」という事実を与えるだけだ。「ちゃん、どうだった?」尋ねてくれるお友達に、へへ、と力なく笑って、「よくはない……」と素直に答える。よくはない、本当に。それどころか、もう、まずすぎるくらい。そう思うと胸からお腹のあたりが突き刺されたみたいに痛んだ。圧倒的絶望。少なくとも、一年生の最初のテストで感じていい絶望感ではなかった。
「何帰ろうとしてんだこら」
その日の放課後、失意のままに教室を出ようとした私のリュックの端っこを、玲王くんは掴んだ。
「おわっ!」
「忘れたのかよ。学級委員の集まりがあるって、朝連絡あったじゃん」
「がっ……きゅういいん」
そうだ。そうだった。
今日は放課後、文化祭についての話し合いをするって、朝に言われていたんだった。「あぶねー、お前その顔、絶対忘れてただろ」と眉根を寄せられて、「忘れてた……」と素直に答える。物覚えの悪さに呆れられてしまうかもしれない恐れは物凄くあったものの、嘘を吐ける器用な人間じゃあない。玲王くんはだけど、「やっぱな」って口にしただけで、ため息の一つも吐かなかった。
「ほら、行くぞ」
そう言って、教室の外を顎で示す。
背負っていたリュックサックを一度席に置きに戻る私を、玲王くんは教室の入り口で待っていてくれていた。前回の会議のときも玲王くんはそうしてくれたけれど、あれは私が第二会議室の場所を覚えていなかったせいだ。先月とは言え一度行った場所だし、別に一緒に行かなくてもいいのにな、と思ったけれど、嬉しいは、嬉しい。玲王くんの隣を歩ける権利を、学級委員っていう肩書きは与えてくれる。
玲王くんは相変わらず、あちこちから声をかけられていた。「隣の子、なに?」って言う声は、別のクラスの人だ。「今日、学級委員の集まり」って、玲王くんがその子たちに答えるみたいに言うのを隣で聞く。隣を歩ける、って言っても、そんなんで身を竦めてしまう私は、やっぱり胸を張って歩くにはいろんなものが欠けている。
教室から体育館と生徒玄関に続く階段を通り過ぎると、生徒の数はめっきり減る。それまでひっきりなしに呼ばれていた「玲王」の声もなくなった頃、私は私と玲王くんの間に沈黙が落ちるのが嫌で、思いきって声をかけようとした。あの、って。でも、話題といったら、なんだろう? 玲王くんとは五月の頭、タマの散歩中に話をして以来、挨拶くらいしか交わしていない。共通の話題なんか思いつくはずもなくて、そうなってくると必然、文化祭の話くらいしかない気がした。前もそんな話をしたことには、一度目を瞑ろう。そう思って「楽しみだね、文化祭」って言いかけたそのときだった。「」って、はっきりと名前を呼ばれたのは。思わず顔をあげる。玲王くんの双眸と、目が合う。
「お前、数学のテスト、やばかったのか?」
玲王くんの私を見る瞳は、真っ直ぐで、きれいだ。
一瞬ここがどこなのかを忘れてしまいそうになるくらい。
「すっ……!?」
「数学」
だけど悲しいことに、見惚れてばかりもいられないのだ。
玲王くんの言葉を反芻させる。数学。テスト。思い出されるのは、あの赤く書かれた二桁の数字だ。それをやばかったのか、って、玲王くんは聞いている。
「ど、どうしてそれを……」
「いや、返却されるとき、先生に頑張れよって言われてたのだけだったし」
「うそっ!」
どうにか誤魔化そうと思ったのに、そんなことを言われてはもう取り繕えるわけもない。というか、びっくりした。衝撃だった。確かに平均を二十点ほど下回ってはいたけれど、なんだかんだ、似たような点数の人は探せばもう一人か二人はいるだろうと思っていた節もあったから。それなのに、先生に苦言の滲んだ激励(あるいは激励に見せかけた苦言)を受けたのが私だけ。つまり、本当の本当に最底辺ということになる。
「私だけ……私だけ……そ、そんな……」
「何点だったんだよ」
「……玲王くんに言えない点」
「はぁ」
ため息と相槌の、丁度間くらいの声だった。目を細められて、玲王くんに見下ろされる。それになんだか言いようのない凄味を感じてしまって、「ま、満点の半分くらいです……」と蚊の鳴くような声で呟けば、玲王くんの顔は「はぁ?」って歪んだ。今度はため息でも相槌でもその中間でもない、純粋な圧だ。恐る恐る玲王くんの目を見る。信じられないものを見るような顔を、玲王くんはしていた。
「マジ? 半分? ……あのテストでどうやったらそうなるんだよ」
「わ、わかんないよ、問題がわかんないんだよ。何がわからないかもわからなかった、解説にすらついていけなかった……」
「お前、一発目の定期考査でそれはやばいだろ……。他の教科は? 英語とかはいけんの? ……まさか全部やばいわけ?」
「文系科目は大丈夫、理系がちょっと苦手なだけ……だから……その、化学とかも……似たような感じで……」
「……あのなあ、それはちょっとってレベルじゃねえだろ。今からついていけなくてどーすんだよ」
もう言い返す言葉もない。
いや、勿論私もまずいとは思っていた。だって毎日勉強して、予習も復習も頑張って、それで「これ」なのだ。英語や古文みたいにとりわけ予習に時間を割かなくちゃいけない科目もあるから、数学が疎かになる日もそりゃああったけど。だけど私なりに努力をして、テスト勉強だってできる範囲で頑張った。日課のタマとのお散歩も、ちょっと急かして普段より早めに切り上げていたくらいには。なのに結果が平均点を大きく下回るなんて、もう才能っていうか、センスがなさすぎる。タマにも申し訳ない。毎日の楽しみを削らせて、なんてだめな人間なんだろう。
数学なんか、一番がんばらなくちゃいけないのに。
自覚したら悲しくなってしまって、思わず胸を押さえた。
「ど、どうにかしなくちゃとは思ってるんだけど……」
「一応そう思ってはいるんだな」
「思ってるよ、流石にまずいって分かってる……。でも数学、難しい……」
次は赤点とも限らないし、そんなことを繰り返してたら進級だって怪しくなる。そうなると玲王くんの婚約者に相応しいとか相応しくないとかそういう問題ですらない。手を打たないと。めちゃくちゃ努力しないと。来月に控えた文化祭も、勉強がまずいっていう不安と心配を抱えたままじゃきっと楽しめない。
「数学、ねえ……」
そこの角を曲がれば会議室はもう目の前。そんなときに玲王くんは口にした。本当に、不意に思いついたことを言葉にしただけみたいな気軽さで。
「じゃあ、俺が教えてやるよ」
これが私じゃなくても、だから、多分玲王くんはおんなじことを言ったんだろう。多分。