五月の、ある休日だった。
その日は朝から父さんの知人の個展(油絵だった)に同行させられていて、正直疲弊していた。芸術だの音楽だの、そういうのが嫌いなわけではないし、興味が全く持てないとまでも言わない。のとこのおじさんの器は、俺も好きだしな。ただ、作品一つ一つに込めた魂、みたいな話を会場の端から端に至るまで延々とされりゃあ、流石に疲れるものだ。倦厭を顔に出すことなく、全ての作品に対する思い入れを、時折相槌や質問を重ねながら聞いた俺は、よくやったと思う。
解放されたとき、もう昼はとうに過ぎていた。
「どこか寄られますか? 玲王坊ちゃま」
「いーいー。真っ直ぐ帰ってくれ。もー今日は疲れた」
ばぁやの運転するリムジンで身体を伸ばす。
会場をもう少し見てまわると言う父さんと、帰りまで一緒にならずに済んで良かった。なんつーか、やっぱり多少気は遣うしな。父さんの運転する車の助手席に座るよりは、慣れているばぁやの運転の方がよっぽど落ち着く。
欲しいものは何でも手に入れろ、そういう教育を俺に施した父さんは、俺に色んなものを見せてくれる。今日の個展だって、その一つだ。本物を見る眼を養え、ってことなんだろうけど。
だけど何を見たって、最近の俺は心が凪いだままだ。
車内に準備されていた飲み物を片手に、スモークガラスの窓の向こうをぼんやりと眺める。今日の個展会場は白宝高校の先にある美術館の一角だったから、移動するうち、目に映る街並みもいつもの、見慣れた風景に移り変わっていく。
白宝高校を横目に通り過ぎて暫くした頃視界に入るのは、閑静な住宅街だ。このあたりは門扉のしっかりした戸建てが多く、通りに植えられた木々も手入れが充分すぎるほど行き届いている。タワーマンションの最上階に住んでいる身としては、先月、そこここの庭で見られていた桜や木蓮の花なんかにも癒されたものだ。今はそれらの木々は、青々とした葉をつけている。
そういえば、の家があるのもこのあたりだったか。
頬杖をつきながら歩道を何の気なしに眺めていたときだ。
道路と歩道とを分ける植え込みの奥に、見知った後ろ姿を見つけたのは。
「ばぁや、ちょっとストップ」
ほとんど反射で口にする。
あの後ろ頭に、肩幅。制服は着ていないが、ああいう雰囲気のワンピースを着そうではある。スピードが落とされる車内からその後ろ姿に目線を送っていたら、不意にそいつが横を見た。
だ。
「ごめん、そこで降ろしてくんねぇ?」
今考えても、どうして自分がこんな行動を取ったのかは説明できない。だけどまぁ単純に、休日のお前に声をかけるのも面白そうだと思ったんだと思う。
俺って案外、ガキなのかもな。
「めちゃくちゃいい枝だねぇタマ」
五月の、とある日曜日。私はいつも通りタマとお散歩をしていた。
家の近くには元々用水路を埋め立てて作った歩道と公園の中間くらいの、大通りまで続く遊歩道があって、そこを行って戻ってくるのが定番のお散歩コースだ。先月の今頃は植えられた桜が丁度満開で、歩く度にちらちら花弁が舞って、タマの背中にいっぱいの花弁が落ちていた。今はそれも完全に散ってしまったけれど、入れ替わるみたいに咲いたツツジの鮮やかな赤が目に眩しい。
行きで丁度良い感じの枝を見つけたタマは、それを咥えて機嫌よく歩いている。尻尾をぴんと立てて、誇らしげに前を向いて歩く様は、堂々としていてかっこいい(女の子だけど)。「よかったねぇ」とリードを軽く持ち上げて言えば、タマは返事をするみたいにこちらを見上げた。あんまり吠えない子だけれど、その分その瞳は雄弁だ。
お散歩って、身体の健康にも良いけれど、精神にも良い。
白宝高校に入ってからの一ヶ月、私はまあまあ、というかそれなりに疲弊していた。自分の頭の出来に見合わない、超超進学校に入学してしまったツケがまわってきているのだ。特に理数の授業はもうほとんど理解できていなくて、毎日の課題や予習復習で精一杯。こんな調子で、もうすぐある中間テストをどう乗り越えたら良いのか、見当もつかない。
精神にも良い、なんて思ったばかりだけど、それはやっぱり、現実を思い出すまでの話に過ぎない。つまり、テストのことを考えてしまった私はもう負けなのだ。はぁ、とため息を吐く。白宝高校でお友達もたくさんできて、玲王くんとも一緒に学級委員ができて、来月に控えた文化祭だってすっごくすっごく楽しみなのに、これだけが上手くいかない。努力でどうにか補える分、他の全てのことで上手くいかないよりはよっぽどいいけれど、それでもやっぱり落ち込んでしまう。
帰ったら、勉強しなくちゃ。
もう一回、盛大なため息を吐いたときだった。背後から何だか聞いたことのある笑い声がしたのは。
「何だソレ」
あれ、と思って振り向く。だって、この遊歩道は普段、私とタマ以外、おじいちゃんやおばあちゃんくらいしか利用しないから。
だけど完全に振り向く頃には、私はその声の主が玲王くんだって、気がついていた。好きな人の声くらい、私は判別できるのだ。ただ、その姿を実際に見るまでは信じられなかっただけで。
「めっちゃ良い枝咥えてんじゃん。おまえんちの犬?」
だけどまさか学校のない、勿論一年に一回の食事会でもない休日の真っ昼間に、玲王くんとばったり出くわすなんて、考えもしなかったから。
「おいで」ってしゃがみこんで手を広げた玲王くんに、枝を咥えたままのタマが懐っこく近づく。高そうなパンツの片膝を地面につけた玲王くんは、「面白ぇ〜。こいつ、枝ずっと咥えてるんだな」って、笑いながらタマの顎を撫でた。私にしてみせるくらいの大仰さで尻尾を振るタマは、初対面の玲王くんにも全然臆していないのに、リードを持ったままの私だけが、まだこの状況を理解できずにいる。
「玲王くん…………?」
うちの近所の遊歩道でタマとじゃれる玲王くん、って、夢でもあんまり見ない光景であることは間違いない。それでも、そこにいるのは間違いなく玲王くんだった。制服じゃないし、その背後に目線をやったところで、おじさまもおばさまもいないけれど。
なんでこんなところに玲王くんがいるんだろう。一生懸命考えたけれど、全然分からない。学校に行った帰りとか? 白宝高校からうちは自転車で十五分とかそれくらいだし、玲王くんの住んでいるあのタワーマンションへの通り道と言えば通り道ではある。でも制服を着ていないんじゃ、休日に用事があって学校に、っていうのはちょっと考えにくい気もする。全然思いつかなくて、「な、なんで玲王くんがこんなところにいるの?」って素直に尋ねたら、玲王くんは私の方に目線を寄越して、「いや、偶々通りかかった」って答えた。
「野暮用があって出かけてたんだけど、今その帰り。車ん中からっぽい後ろ姿見かけてさ。そういやこのへん、お前んちがあったなーって。それで降ろしてもらったんだ」
「ええ、じゃあ、本当に偶然なんだね」
「そーそー。まさか犬の散歩中だとは思わなかったけどな。車からじゃそこまで見えなかったし」
こいつ、犬種なに? 名前は? そんな風に質問されて、「ポメラニアンだよ。タマって呼んでる」って答える私に、玲王くんはぶは、って笑う。そうされると、ちょっとだけ緊張が解けた。学校ではもう充分素でお話できるけれど、こういうところだと、そうもいかないみたい。
「タマって猫かよ」
「や、タマは本名じゃないの」
「いや本名じゃないってなに。ミドルネームとかつけてるわけ? タマ=フランシス=みたいな?」
「ちがうちがう。タマって呼んでるだけで、本名は白玉なんだよ」
「白玉? ……まさか白いからじゃねえだろうな……」
「…………白いからだよ」
ぶ、って玲王くんが笑い声とも息ともつかない音を出す。いつの間にか足を広げてしゃがみこむような姿勢になっていた玲王くんは、その両膝に手を置いて、肩を震わせていた。
きれいに磨かれたその靴に、タマは鼻を寄せる。枝を咥えたままそうするものだから、玲王くんのパンツに枝が刺さっていた。玲王くんは、それでも全然気にしていないみたいで、タマの頭を包み込むみたいに撫でる。ごつごつした手の甲の、青白い血管が、陽の下に晒される。
そんなに笑うところかな……とちょっとだけ考え込んでしまうけど、ひとしきり笑った玲王くんは、何だかちょっと、吹っ切れたみたいに明るい顔をしていて、一瞬見惚れてしまった。私は玲王くんの、笑った顔が好きだった。
「お前のご主人、センスあるなー」
褒められてるのか貶されているのか、全然分からないけど。だけどその直後玲王くんが、ほとんど独り言みたいに呟いた言葉が、どうしようもなく私の胸を打ったなんて、きっと玲王くんは知らないんだろう。
「てかお前、犬、ずっと好きなんだな」
金色の毛が脳裏を掠める。あの頃の私たちよりもずっと大きかった友達を、玲王くんは今も覚えているんだろうか。聞きたかったけれど、不意打ちみたいに言われた言葉が刺さって抜けなくて、何かを口にすれば、いろんなものが決壊してしまう気がして、喋れなかった。返事をすることすらも。
玲王くんの、あの頃よりもずっと男の人のそれになった手をいつまでも眺めている。玲王くんのタマを撫でる手は、宝物に触れるみたいに、どこまでも優しい。