「あっ! おはよー、玲王!」

「おー、おはよー」



 一年生の自転車置き場に自分の自転車を停めて正門から歩いて来る生徒たちと改めて合流したとき、玲王くんの声がした。考えるよりも早く、ほとんど反射で顔を上げる。白宝高校の制服を着たたくさんの生徒たちの中、明るい笑顔で方々からの挨拶に答える玲王くんは、他の誰よりもいっとう輝いている。
 朝に教室の外で玲王くんを見かけるのは、初めてだ。
 入学してからもう何日か経っているけど、こんな風に玲王くんと登校時間が被ることはこれまで一度もなかった。今朝は一度も信号にひっかからなかったのが良かったのかもしれない。家を出るのも、今日はいつもより二分くらい早かったし。
 運の良さに自然と緩んでしまう口元を、鼻をこするふりをして隠す。一人で笑ってたら、ちょっとこわい。
 正門で車から降りてきたばかりのはずの玲王くんの両端は既に何人かの生徒で固められていて、でも周囲には、もっと多くの、私みたいに彼を遠巻きに見ている生徒の姿があった。そういう子たちからもあがる「おはよう、玲王くん」の声に、玲王くんは笑顔で「おはよー」って一つ一つ答えていくけれど、私はそういう彼女たちにすら混じれなかった。話しかけちゃいけない、っていう考えがあったせいじゃない(それはもう、良いのかな、って言う風に思っている)。ただただ緊張するから、まともに声が出る気がしないから、それで無理して「おはよう」って言ったとき、もし裏返りでもしたら、穴を掘って埋まりたくなるから。そういうことを考えているうち、タイミングを失ってしまったから、だ。
 四月も半ばになって、玲王くんは随分周囲に馴染んだと思う。いや、どちらかというと玲王くんが馴染んだんじゃなくて、私たち周りの人間が玲王くんの存在に慣れてきた、って言った方が、ずっと正しい。入学直後よりも玲王くんの周りには空間的な余裕ができて、そうなると私は玲王くんの表情とか声とかを、前よりもきちんと確かめることができる。
 斜め後ろを歩く玲王くんのことがどうしても気になって、ちらりと振り返った。その瞬間目が合ってしまって、心臓が大きく跳ねる。



「あ」



 皆の足音とか細やかな話し声に埋もれるくらいの声を、玲王くんは出した。それが真っ直ぐに届いて、目とか、喉の奥が痛くなる。光を取り込みすぎて、どうしようもなくなったみたいに。
 視線が絡み合ったまま、全く動けずにいる私に、玲王くんはふ、って笑った。



「よ」



 短い挨拶に、というよりも、こんな風に目が合って、笑いかけてもらったことにびっくりして、すぐには口が動かない。だけど、玲王くんの隣を歩いていた見知らぬ女の子(クラスの子は、もう顔は覚えたから、この子はきっと別のクラスだ)の目線がこちらに完全に向く前に「お、おはようっ」と言い切ってしまう。
 それで、リュックの肩紐をぎゅうと握りしめたまま、生徒玄関までの長い道を一人で駆けた。目がちかちかしたのは、朝の光が眩しいからだ。皆の制服が真っ白で、目に痛かったからだ。
 走るのに適さないローファーは、下駄箱の手前で一度脱げかける。そのままの勢いでもってそれを脱いで、自分の下駄箱を開けた。早く靴を履き替えて、さっさと教室に行かなくちゃ。ここで玲王くんに追い付かれたら、どんな顔をしたらいいかわからない。








 学級委員をくじで決めるって話になったときから、嫌な予感はしていた。
 自慢じゃないけれど、私は昔からくじ運っていうものが全くない。びっくりするくらいにない。席替えはくじだといつも先生の真ん前だし、班のリーダーも死ぬほどやった。じゃんけんだと勝率はそこそこだから、ただただ「くじ引き」っていうものに弱いんだと思う。なのに、入学早々にくじ引きだなんて。
 どうやら担任の寺内先生が学級委員の選出をするのをすっかり忘れていたらしい。それでどうしても今日中に決めなくちゃいけない、ってことで急遽先生の手により作られたくじは、男子と女子とで別々の箱に分けられた。この中から一枚ずつ引いて、何も書いてなかったらセーフ、二重丸が書かれていたらアウトの、王道タイプのくじ引きだ。男女各一人ずつが学級委員になる必要があって、そうなると私が引くべき箱からは一枚しか「それ」がないわけだから、可能性としてはそう高くはないはず。はずなんだけど。



「…………」



 先生の手の中にある箱を見た瞬間、妙な感じがした。なんか、じっとり湿った気配が箱の底から漂っているみたい。これは多分、引いてしまう、っていうのが、何の変哲も無い、多分バームクーヘンか何かが入っていたらしい箱からじわじわ滲み出ていた。
 いやいや、そういうことを考えるから良くないんだ。慌てて首を振る。病は気から、くじ引きも気から。小学校ならまだしも、この白宝高校の学級委員なんて、私じゃあ力不足だ。だってもう授業についていけないくらいだし。馬鹿の学級委員とかどうなんだろう。そう思ってしまう以上、私が選ぶのは一つだ。白宝に合格できた豪運でもって、私は白紙の紙を引き寄せる。
 女子は教室の前の方、男子は後ろの方に集まって、各々くじを引くことになった。残り物には福があるっていうけど、それを実戦して本当に福を引き当てた試しは少なくとも私にはない。クラスの中でも目立つ数人の女子たちが率先してくじを引いたのに続いて、続々と箱に手を伸ばす女の子たちに紛れるように私もそのうち一枚を取った。なるべく息を潜めて、気配を消して。そうすれば当たりのくじに見つからないんじゃないかって、そう思ったから。
 寺内先生の手によって几帳面に折りたたまれた紙を開いて、真ん中にある二重丸を視界に入れた瞬間、「わああ」って大きめの声をあげてしまったけれど。








 かくして女子は全員が引き終わる前にくじ引きを終えることになり、私は先生に促されるがまま、黒板の真ん中に書かれた学級委員という文字の脇に、、とチョークで記した。ところで黒板に文字を書くのって、どうしてこう難しいんだろう。筆圧も先生の書いたものにくらべたら薄いし、文字のサイズも均等にならないから、遠くから見たらものすごくへろへろなになっているだろう。うーん、と思ったけど、書き直すのもおかしいから、仕方なくそのままにしておいた。
 白宝高校の学級委員は前期と後期で分けられるから、これから九月の間まではクラスをまとめる役を任せられてしまったことになる。他の女子生徒はもう皆自分の席に戻っていたけれど、私は男子の学級委員が決まるまでそこにいなければならなかった。最後に一言挨拶をしなくちゃいけないんだって。頑張ります、よろしくおねがいします。でいいかなあ。学級委員なんて、本当に物凄く荷が重いんだけど、でも私は皆と違って部活もやってないし、やっぱり放課後に集まることもあるっていうなら、私が引き受けて然るべきだったのかもしれない。二重丸を見た時は心臓が縮んだように思ったし、ちょっと数日はあの瞬間のショックを色濃く覚えていそうだけど、引いてしまった以上は仕方ない。頑張らなくちゃ。
 そんなことをチョークを持って黒板を見つめたまま考えていたから、私はすっかり、男子の学級委員については思いを巡らせるのを忘れていた。入学してまだ一ヶ月も経っていないわけだから、そもそも男子とは全然関わっていないし、顔と名前がちゃんとは一致していない。何なら玲王くん意外の男の子とは、話したことだってないのだ。前の席の男の子に、プリントの受け渡しをしてもらうときに会釈をするくらいで。だから、根底に「誰でも良いや」っていう思いがあったんだと思う。そりゃあ勿論、できたらリーダーシップを取ってくれる人だと有り難いけれど、そういうのって実際に色々関わっていかないとわからないから。
 だけどそのとき、ざわ、って空気が震える音がした。何だろう、って私の背後、教室の中を確認しようとした瞬間、私の視界に影が落ちて、ライトグレーのパンツの裾が目に入る。私の傍にあったチョークを持つ手があった。あ、男子の方も決まったんだ。そう思った瞬間だ。「よ」って、朝も聞いた声が鼓膜を揺らしたのは。
 首を持ち上げて、ようやく目が合う。だけど彼はそのまま、すぐに黒板に目を移した。左手をポケットに入れたまま、私の書いたの隣に、先生が書くみたいに、力強くきれいな文字で、その名前を書く。
 学級委員。。御影玲王。



「よろしく」



 悪戯っぽく笑った玲王くんの目は、楽しげに細められていたけれど、私はびっくりしすぎて教壇から足を踏み外した。


PREV BACK NEXT