玲王くんが一人になるタイミングを見計って声をかけるのは困難だった。
 だって玲王くんは人気者で、休み時間は男女問わず、必ず誰かと一緒に居るのだ。そんなところに私がのこのこ近づいて、「さっきはどうもありがとう」って借りたノートを返すのって、ちょっとハードルが高すぎる。例えそれが、玲王くんの言う「テキトーに返して」の「テキトー」にぴったり当てはまるものだったとしても。
 いっそメモを添えて、玲王くんの机の上に置いておくっていうのはどうだろう? そう思いついたけれど、私も玲王くんも同じ教室にいるのにそれはそれで礼儀がなってないっていうか、感じが悪い気がする。いや、まどろっこしいことしてないで普通に返せばいいじゃん、って思われそう。持ち前のマイナス思考に潰されそうになって、慌てて首を振る。
 こんな風に悩まなくても、周りに人がいようがなんだろうが、玲王くんに声をかければいいだけの話だ。私が玲王くんからノートを借りているところなんて、もうクラスの大抵の人が目撃しているんだし。いちいちどうしようどうしようって考える方が変、自意識過剰だ。恥ずかしがることなんてない。
 ないんだけど。



「………………」



 それで行動できるような人間だったらもうとっくにこのノートは玲王くんの元に戻っているわけで。



(……どうしよう)



 授業を受けながら、机の中の玲王くんのノートをこっそり撫でる。
 玲王くんの書いたノートは、びっくりするくらい綺麗だった。頭が良い人のノートって、なんでこう誰がどう見ても完璧にまとまっているんだろう。何だか触れているのすらも申し訳なくて、写すときも、息を止めて手早くシャーペンを動かした。おかげで私の書いた字はへろへろだ。せめて字だけでも賢く見えたら良かった。
 授業中、ちらりと玲王くんの座る前方の席を見た。斜め後ろから見た玲王くんは姿勢が良くて、睫毛の一本一本が差し込む光を受けて、きらきら光っていた。玲王くんはきれいだ。ずっとずっときれいだ。もうずっと昔、まだ私たちが、ルークと一緒に遊んでいた頃から。








 さっさとお礼を言ってノートを返すべきだったのに、もたもたしているうちに放課後になってしまった。
 私と同じで部活動に所属していない玲王くんは、授業が終われば真っ直ぐに生徒玄関に向かう。勿論登下校に自転車なんか使わないし、公共の乗り物も利用しない。正門前に横付けされたリムジンに、彼は颯爽と乗り込んで、あの誰もが知っているタワーマンションに帰るのだ。私に残された時間があまりないっていうのは、明白だった。
 勉強に使うものなんだから、流石に日を跨いで返すってなると良くないし、今を逃せばチャンスはもうない。帰り支度をする玲王くんを視界の真ん中に置いて、こっそり深呼吸をする。玲王くんの隣の席の女の子が、「玲王くん、また明日ね!」って手を振って部活に向かうそのタイミングでもって、私は一歩を踏み出そうとする。気合を入れなくちゃ、私の両足はずっと床に張り付いたままだった。



「玲王、じゃあな」

「おー、また明日」



 玲王くんの後ろの席の男子が、玲王くんの肩にぽんと手を置いてから教室を出て行く。玲王くんの伸びやかな声は、どこにいたってよく響く。
 生徒それぞれ行動パターンが違う上、部活だ、バスだ電車だ、っていう風に時間の制約がある放課後は、私が玲王くんに声をかけるには一番都合が良かったのかもしれない。だけど、ノートを持っていた指先の震えのおかげで、同時に理解してしまった。私がノートを返すって、それだけでこんなにも緊張していたのは、うじうじしていたのは、皆の注目を集めてしまうからじゃない。ただ単純に、玲王くんに話しかけることが怖かったんだ、って。
 玲王くんが斜めがけのバッグを左肩にかけるその瞬間に、思いきって声を張り上げた。「あ、あの、玲王くん!」って。今しかないって思ったら、存外躊躇なく名前を呼べるものらしい。



「ん?」



 そう漏らした玲王くんが振り向いたのは、気配でわかった。表情が分からなかったのは、顔の高さまでノートを掲げた上、緊張のあまり、俯いていたからだ。
 どうしよう、どきどきして、胸とか耳とか頬とか、いろんなところが兎に角痛い。弾けて飛びそうなくらい。



「ええと、ノート、助かりました……ッ! 貸してくれてありがとう……!」



 言えた。そのときの解放感といったら、ない。
 まだ何人かの生徒が残っている教室に、色んな音が響いていた。誰かの「おいおい、お前スマホ忘れてるって!」っていう声とか、ぎぃ、って、椅子を引く音。微かなゲームのBGM。窓の開閉音。「うん、今終わったあ」ってスマホに向かって話す、誰かの声。廊下を男子生徒が走って行く。遠くで甲高い笑い声がする。「やばい遅れる!」部活に急ぐ、女子の声。誰かがこちらを注視している気配なんか、微塵もなかった。ただただ私の鼓動だけが響いていた。
 御影玲王くん。十五才。私の婚約者。



「ああ」



 私の好きな人。



「そっか。そういや貸してたな」



 私の手から、ノートが引き抜かれる。そうされた瞬間、いろんなものが軽くなったみたいに、肩から力が抜ける。
 恐る恐る顔を上げたら、玲王くんは私を真っ直ぐ見つめていた。何の臆面もなく。誰かに遠慮することもなく。



「俺が消しちゃったとこ、ちゃんと写せたか?」



 そう言って、そっと首を傾げる。悪戯っぽく、その目が細められる。それに、こんなにも殴られたように思うのだ。玲王くん、って。
 だってこんな風に笑いかけてもらえることなんて、もうないと思ってたから。
 声がなかなか出てこなかった。だから代わりに、何度か首肯した。写せた、ばっちり、完璧、って、もっと簡単に口にできたらいいのに。玲王くんが鞄にノートをしまう。骨張った手の甲の筋が視界に入って、息ができなくなる。「ならよかった」玲王くんの伏せた睫毛の先に、光の粒子が落ちていく。
 ノートをちゃんと返せた以上、それじゃあ、また明日、って、私は言うつもりでいた。玲王くんに挨拶をしていったクラスメイトたちみたいに。だから、全然想定していなかったのだ。玲王くんが私に、「そういやお前って、部活してないんだっけ?」って尋ねてくるなんてこと。



「え」



 思わず玲王くんの顔をまじまじと見つめる私を、玲王くんもまた薄い笑みを携えたまま見返している。
 十数年来の婚約者なのに、私は玲王くんの考えていることが、今でもちっとも分からない。


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