極力玲王くんには近づかないようにしなくちゃ、って私が考えていても、双方の意思確認が取れていなくちゃそんなの意味が無い。だったらまず、玲王くんがどう考えているかをきちんと把握すべきだった。「きっと玲王くんだって、同じクラスになってしまった私の扱いに困っているに違いない」なんて決めつけずに。
でも私は、玲王くんが私と同じように、私のことを避けているんじゃないかな、って、そう思っていたのだ。
玲王くんに好かれている自信なんか、もうずっとなかったから。
まだ入学して間もないある日のことだった。授業が終わって、皆が各々席を立ち始めても、私は先生が授業の最後の方に板書した部分をノートに写していた。こういうのは今に始まったことじゃない。私は単純に要領の悪い人間だった。
「私たちトイレに行くけど、ちゃんはどうする?」
「大丈夫! これ写してる!」
声をかけてくれた夏帆ちゃんたちにそう答えて二人を見送ってから、改めてノートに目を落とす。白宝高校の授業のスピードは速すぎるし、もう大分ついていけないところがあるけれど、後で見やすくなるように自分なりに工夫してノートにまとめていく作業は結構楽しい。これを授業中にちゃんと終わらせられるんだったらもっと良いんだけどね。それでも休み時間の数分で何とかなるし、この作業自体は苦ではなかった。定規を使って、書いた文字の下に線を引いていく。これだったら、きっと後で見返してもすごく見やすい。
出来に満足しつつ、もうちょっとで終わるな、って顔を上げたときだった。誰かが手にした黒板消しが大きな弧を描いて、ぐわ、って、私のまだ写してなかった部分の文字を消し去ったのは。
「あ……ッ!」
書き写すのが遅い私が悪いのは、重々承知だ。だから本当だったら、声をあげるべきじゃなかった。だってどうしたって非難がましく聞こえちゃうから。
休み時間のざわめきに飲み込まれるくらいの声量だったけれど、タイミングとか諸々が悪い方に噛み合ってしまった結果だったのか、黒板を消していた日直さんの耳には届いてしまったらしい。私の声に反応したその人が、首を捻って振り返る。「あー悪い、誰かまだ写してた?」って。相手を確認する前に、そう口にしながら。
その人と目が合うのと、脳がその声の主を判別するのと、黒板の隅に書かれていたその日の日直の名前が目に入ったのはほとんど同時だった。だから、あ、と思ったのだ。ああ、どうしよう、って。
だって黒板消しを手に振り向いたのは、玲王くんだったんだから。
玲王くんのまあるい目が、私のことをじっと見た。その上の短い眉は、少しも傾く様子がない。さらさらの、柔らかい髪の毛が、開け放たれたドアからの風に微かに揺れていた。
「あ? ……なんだ、か」
玲王くんの呟いた声に、手からぽろりとシャーペンが落ちる。「ご」って、喉の奥から声が出たのは、もうほとんど反射だった。
「ごめんなさい……っ!」
一体何に対しての「ごめんなさい」だったのか、考えるまでもなく漏れてしまった謝罪の言葉に、耳が熱くなる。でも、本当にごめんなさい、って思ってしまったのだ。書くのが圧倒的に遅くてごめんなさい、日直の仕事を中断させてしまってごめんなさい、こんなのが玲王くんの婚約者でごめんなさい、玲王くんだってきっと私と関わりたくないだろうに、こんな形で接点を作ってしまってごめんなさい――。でも、そもそも心にしまっておくべきだった。これから先も私たちの関係を伏せるつもりでいるのなら。
でも、玲王くんは全く平然としていた。私から視線を逸らすと、何の逡巡もなく、あっという間に黒板を消してしまう。玲王くんは背が高いから、変に背伸びをしなくても上の方まで綺麗に消せるんだなあ、って、ぼんやり思った。目線を反らせずに、私は玲王くんのことを見ていた。一年に一度、テーブルの向こうで静かな相槌を打ちながら食事をしていた、玲王くんの目を、こんなときに思い出していた。
玲王くんはいつもどこか、つまらなそうだ。
背中に向けられる私の視線に、玲王くんは気がつかないんだろう。玲王くんは黒板を綺麗に消し終えると、一度自分の席に戻ってから、まだ固まっている私の元にやって来て、それから「ん」って一冊のノートを放って寄越した。無駄も、躊躇もない動きだった。だから、私は余計に身動ぎができなかったのだ。
「消しちゃって悪かったな。それ貸すから、写せよ」
何が起きたかを理解するのに数秒を要したけれど、でも、仕方が無いと思う。
私の机の上には、今の今まで受けていた授業の、玲王くんが使っていたノートがある。それと玲王くんとを交互に見比べて、それから「え」と声を漏らした。それから改めてノートの表紙に書かれた「御影玲王」の字を、穴が開きそうなくらいに見つめるけれど、それはずっと私の視界の中央に置かれたままだ。
「終わったらテキトーに返してくれりゃいいからさ」
「え、ええ?」
たったそれだけを言い残すと、玲王くんは「じゃ」って短く言って、廊下の方に向かってしまった。
どこからこのやりとりを見ていたのか、クラスの女の子(ダントツに可愛い子だ)が「え〜、いいなあ。私も今度玲王くんのノート借りたいな〜」と玲王くんの隣に並んで話しかけるのが視界の端にうつる。玲王くんがなんて答えたのかは、私の席からではもう聞こえない。
教室中の視線が、色んな温度でもって私と、私の前に置かれたノートに注がれていた。玲王くんってやさしいね〜、って、方々で女の子たちがため息を吐いている。「てかさ、今玲王くん、さんのことって呼んでた?」って誰かが言った気がするけど、「え、そう? 気のせいじゃない?」と否定してくれた人のおかげで、変に突っ込まれることもなかった。不幸中の幸いだったと思う。
でも、どうしよう。ノート、借りちゃった。
何だか途方に暮れてしまう。いいのかな、ってぐるぐる考える。玲王くんはさっき、私の名前を呼んだ。いつも玲王くんがそうしてくれていたみたいに、平然と。それがなんだか全然信じられなくて、苦しくなって、知らないうちに呼吸が止まってることに気がついた。玲王くん。わかんないよ、私、どんな顔してたらいいの?
深呼吸をしてから、指先でこわごわ玲王くんのノートを捲ってみたけれど、動悸に堪えられず、文字がいくつか見えただけで閉じてしまう。これが玲王くんの字、って思ったら、迂闊に見てはいけないもののように思えたのだ。
ノートだし、今日中に返さなくちゃいけないものだって分かってるけれど、それでもちょっと、今すぐにはこれを開く勇気がない。