私が名門と呼ばれる白宝高校に受かったのは、単純に、運が良かったからだ。
入試のことを思い出すと、今でも気絶しそうになる。本当に中学生が解ける問題なのか怪しい、複雑すぎる数字と記号の羅列たち。二択まで絞った選択肢を最後は勘に頼って答えるようなことが一度どころか何度かあって、鉛筆の先は震えっぱなしだった。もう、びっくりするくらい難しかったのだ。散々解いた過去問よりもずっと、ずっと。
周囲の中学生たちは椿山よりよっぽど名の知れた学校の制服を身に纏っていて、私の五倍は賢く見えた。というか、実際本当に賢かったんだと思う。私がまだ七割くらいしか解けていないっていうのに、隣の席の男の子(彼の制服は見たことがなかったから、もしかしたら地方の子だったのかもしれない)は鉛筆を置いて机に突っ伏していたから。隣の席からの圧と、教室中に響く鉛筆の「がりがり」って音に、私はもうほとんど息を止めていた。何ならお腹が痛かった。それでも時間ギリギリで、何とか答案は埋め切った。
試験が終わったときは、それでももうほとんど抜け殻だった。脳から全てを出し尽くして干からびたっていうのに、ちっとも解けた気がしなかったから。
「なんか、案外解けたな」
「数学、大分易化してたよね?」
なんていう会話を聞きながら、私は無言で真っ直ぐ家に帰って、それから泣いた。終わっちゃった、そう、終わり、色んな意味で。どうしよう、って、タマを抱きかかえた。いや、通う高校で自分の将来を悲観する必要なんか、ないのかもしれないけれど。どこでだって、頑張れば夢は叶うんだろうけど。でも、私はやっぱり白宝に行きたかった。あまりしつこくなで回すものだからタマにまで嫌がられて逃げられてしまって、益々落ち込んだ。
だから合格発表の日、そこに自分の番号があるって知ったときは、何かの間違いなんじゃないか、ってまず思ったのだ。手応えなんか全然なかったのに、どうして受かってるんだろう、これ、本当に私の番号なの? って。でも、何回見返しても、三桁の番号は一致していた。私はどういうわけか合格したらしかった。
多分、奇跡だ。奇跡が起きたんだ。あの日の私の勘が、珍しく冴えていて、迷っていた全ての二択を正しく選んだに違いない。普段は全然そんなことないくせに。
もしも成績を開示したら、私は最後のかろうじて引っかかった五人の中に混じっているんだろう。ううん、ひょっとしたら最下位かも。そう思うとちょっと悲しくなったけれど、合格は合格だ。私は春から、白宝の制服を着ることができる。
玲王くんはどうだったかな、なんて考える必要はなかった。私が受かったんだから、玲王くんが落ちているわけがない。実際、合格発表の日から数日が経って、母からおばさま伝いに玲王くんの合格を聞かされた。「そうなんだあ」って顔に出ないように口にしたけど、本当は、わあ、って叫びたかった。春から玲王くんと同じ白宝の生徒になるって事実を、私は噛みしめていたのだ。
まさか入学して早々、こんなに複雑な気持ちになるなんて思いもせず。
「ねえねえ、ご飯食べたらさ、玲王くんのところに行ってみない?」
こういうときの正解って、なんだろう。
入学式を終えて一週間が経った、昼の教室だった。開け放たれた窓からはそよそよと春らしい風が吹き込んでいて、ぬるい日差しが心地良い。二つの机に並んだ三つ分のお弁当は、どれも色鮮やかできれいだ。斜め後ろの席では早々にご飯を食べ終えた男子がスマホでゲームをしているらしい。微かなBGMと効果音が、皆の談笑に混じって消えていく。
そんな和やかな昼下がりだったから、私は玲王くんの名前が自分の目の前に落ちてきたことに、反応するのが遅れてしまったのだ。
私はお友達の顔をじっと見つめ返しながら、頭の中で、わ、っと計算をしている。急に出てきた「玲王くん」の名前に、数学の問題でも解くみたいに思考を巡らせている。
「…………玲王くん?」
「そう、玲王くん! 探しに行こうよ。さっき出て行っちゃったじゃない?」
さっきからしきりに玲王くんを見に行こうと誘ってくれているのは、リサちゃん。いつも髪がつやつやで、笑顔の可愛い女の子だ。それから「二人が行くならついていこうかな」ってお弁当を咀嚼しているのは夏帆ちゃん。目鼻立ちのはっきりとした、綺麗な子だ。
椿山から白宝に進学した子は私しかいなかったけれど、名簿順で偶々席が近くなった二人はとっても話しやすくて、私は専ら彼女たちと行動を共にしていた。お互いのプロフィールは、初日とか二日目には大体話していて(出身中学、住んでいる場所、やってた部活動とか、そういうやつだ)それからは授業のこととか、部活に入るかどうかとか、そういう話題ばかりだったから、まさかリサちゃんが玲王くんを気にかけているなんて、思いもしなかった。
玲王くんは、モテる。
モテるっていうか、なんか、もうそういうのとは次元が全然違う。玲王くんが歩けばモーセの十戒みたいに道は開かれて、後ろには女子の列ができた。黄色い声の先に玲王くんは必ずいるから、探そうと思わなくてもどこにいるかはある程度目星がつく。成績優秀者として入学式に答辞を読むくらいには頭脳明晰、容姿なんか誰が見たって端麗だし、あらゆる運動部がこぞって勧誘するくらい、運動神経も抜群だ。そして何より、御影コーポレーションの御曹司。玲王くんは、もう、なんていうか、玲王くん様だった。入学早々にして白宝のアイドルと言っても過言ではないくらいに、圧倒的な人気を誇っていた。
そんな状態で、まず、間違っても自分が玲王くんの婚約者であることは口にしようとは思わない。
だって私は平々凡々、既に授業について行けなくなり始めている白宝の落ちこぼれ候補筆頭だ。顔だって、私なんかより可愛い子はいくらでもいる。もしも「これ」が婚約者であると知られたら、無遠慮な視線にそりゃあ居心地が悪くなるだろう。もしかしたら、玲王くんだって笑われちゃうかもしれない。「玲王くんなのに、あんな程度の女子が婚約者なんだ」って。
だから、私は学校では玲王くんと極力顔を合わせない――のは難しいから、目を合わせない、話をしない、って、二回目にこの制服に袖を通した日に決めた。幸か不幸か私と玲王くんは同じクラスになってしまったから、それがどこまで可能かは分からないけれど。だけど実際、玲王くんの方も初日に、人の目がないところで「よ、受かったんだな。おめでと」って声をかけてくれて以降、私に近づく素振りもなかったから、案外一年くらいだったら、適度な距離を保ちながら過ごせるんじゃないか、って思ってた。
でも、そんなことはないのだ。
「わ、私も行きたーい……!」
だってここで断ったら、ちょっと浮いちゃうかもしれない。
高校生活を円満に送るには、周りに合わせることだって必要だった。
白宝高校で玲王くんに近づくのは並大抵の根性では足りないらしい。
まだ四月、「御影玲王」が同じ校舎にいるということへの目新しさが付加価値となっているせいもあるんだろう。玲王くんがバスケをしているらしいとの噂を聞いて体育館までやってきたけれど、その入り口は尋常じゃないくらいにごった返していて、もうほとんどお祭りみたいだった。お陰でリサちゃんが「うわあ、こんなん無理じゃない?」って早々に諦めてくれたから、私としては助かったんだけど。
あまりの人の多さに体育館を覗くとかそういうこともできないものだから、玲王くんの姿は全然見えなくて、玲王くんの笑い声が、ボールの跳ねる音とか靴裏が擦れる音に混じって、かろうじて聞こえたかもしれないな、ってくらいだった。こんな風に視覚からの情報が遮断された状態で、あの声が玲王くんのものだって分かる人、どれくらいいるんだろ。そう思ったら、ちょっとだけむずむずした。自意識が変な形に膨張しそうで、嫌だった。玲王くんが得点を決める度に、きゃあ、って声があがっていた。玲王くん、すごーい、って。諦めた私たちが体育館から遠ざかっても歓声は聞こえるものだから、玲王くんがぽんぽんバスケのネットを揺らしてることは、簡単に想像がついた。
玲王くんは、こんな状況の中、一体どんな気持ちでいるんだろう。
私が知らなかっただけで、中学のときもこんな感じだったのかな? これが玲王くんの通常運転で、当たり前なのかな? お食事会のときに玲王くんが見せた疲れた目がふと脳裏を過ぎって、そのまま私の中に、霧散するみたいに消えて行く。私、婚約者なのに、今の玲王くんのこと、全然知らないや。
ちょっとだけ、玲王くんとお話がしたいな、って思った。小さい頃みたいに。人の目に遠慮することなく。折角同じ高校に通うことになったのに、まともに話せないどころか、近づいただけで玲王くんの迷惑になっちゃうかもしれないなんて、窮屈だ。自分で近づかない、って決めた以上、そんなの我儘でしかないんだけど。