私と玲王くんとの間に落ちたものを正確に語るには、それなりに長い説明と根気、そして聞く側の善良さが必要になってくる。
例えば私の父が御影のおじさまに、無償の信頼と敬意を寄せられていること。父の作品作りを、おじさまがスポンサーとなって援助してくださっていること。学生時代の、二人の(傍から見たら少し不思議な)関係性。そういう話を聞かされたときって、人間、どうしても後ろ暗いところとか、日陰になっている部分のじめっとしたところを探したくなるものだと思うから。
社会的な成功を収めた御影のおじさまは、光だ。
だから、この場合「日陰になっている部分のじめっとしたところ」を持っていると考えられるのは、御影コーポレーションの下、本来ならば得られるはずのなかった知名度、及びそれに伴う評価を得ている陶芸家の、私の父である。
御影のおじさまが広げた葉の下で、彼が得た養分を分けてもらうだけの男――父がそう影で称されているのを、私たちは知っている。
だけど同時に、そこにはやっかみとか、捻くれた目線でもって歪められた認識があることだって、私たちは分かっているのだ。だって他でもない、当事者なんだもの。
だからやっぱり、どうしても、私と玲王くんとの間に落ちたものを正確に語るには、それなりに長い説明と根気、そして聞く側の善良さが必要になってくる。そうじゃないと、私たちのお父さん同士が持っている友情なんて、誰にも正しくは伝わらないから。
だけど、私と玲王くんとの関係を説明するのは、びっくりするくらいに簡単だ。
私は御影コーポレーションの御曹司、御影玲王の婚約者。
父同士がした、私たちが生まれる前からの口約束は、十余年の月日が経っても、違えられることなくある。
「ご、ご無沙汰しております。おじさま、おばさま」
私と玲王くんが顔を合わせることになるのは、年に一度、年が明けて間もない時分だ。
同じ都内に住んでいながら(そして婚約者という間柄でありながら)、今の私たちは親に連れられての食事会の際にしか会うことがない。
中学三年生の冬だった。場所は、これまでも何度か訪れたことのあるホテルのレストラン(御影コーポレーションの支援のおかげで、こういった場所に訪れることができるくらいには、我が家はそれなりに裕福なのだった。ありがたいことに)。私たち家族よりも僅かに遅れてやって来たおじさまとおばさまにご挨拶をした私は、二人の後ろに立つ玲王くんの姿を見つける。そしてまず、うわ、と思うのだ。このうわ、っていうのは、嫌悪とかじゃない。うわ、玲王くん、去年よりも大きくなってる、すごい、男子だ! っていう、なんていうか、感慨とか感嘆みたいなもの。「同年代の男子」というものを知らない私からしてみたら、玲王くんって、それだけで特別だった。
玲王くんは、すらりとした体躯の、綺麗な顔立ちをした男の子だった。
つり目がちの瞳は大きくて、おばさま譲りの美しい髪には癖一つない。落ち着いた声に、所作はどれをとっても優雅で、大人びている。成績がものすごく良いことも私は知っている。中学校なんか、全然別なのにね。だって全国模試の成績上位者のところを探せば、「御影玲王」の名前は簡単に見つけられるのだ。流石御影くんの子だ、って、お酒を飲んだ夜にお父さんが静かに、だけどその瞳に誇らしさを滲ませながら褒めるのを、何度か目にしたことがある。
玲王くんは、完璧超人だった。お父さんと違って平々凡々な私なんか全然、誰が見たって釣り合うはずがない、そう思うくらいに。
退屈そうに全面硝子張りの窓の向こうを眺める玲王くんとは、すぐには目が合わない。どうしよう。目が合ったら、おじさまたちにしたみたいに、「ご無沙汰してます」って声をかけるつもりでいたのに。ちょっとよそよそしいかもしれないけれど、一年ぶりだし、変じゃないよね、って、昨日の夜からそう決めてたのに。
玲王くんは、どこか疲れているように見えた。
普段女子にばかり囲まれて過ごしている私は、こういうとき、どうしたらいいのかわからない。まさか普段友達にそうしてるみたいに、その腕にぎゅって抱きついて「わっ!」なんて驚かすわけにもいかないし。一年ぶりに会うのに、馴れ馴れしく名前を呼んでも良いものかどうかすら、迷ってしまう。
玲王くんは大人びていた。私なんかとは比べものにならないくらい、彼の目は成熟していた。
「玲王」
玲王くんがこちらを見たのは、おじさまに促されてからだ。
その目の、あまりにも無駄のない静かな動きに、息が止まった。玲王くんのそれが、捕食する動物の目のように見えた。もう少し子供だったら、お母さんの背に半歩隠れたかもしれないくらい。玲王くんの鋭い目は、それから何かを思い出したように、相応に細められる。
「お久しぶりです。おじさま、おばさま。――も」
「ご、ぶさた、してます」
最悪だ、めちゃくちゃ詰まってしまった。
だけど玲王くんは意にも介さないみたいに私を見る。真っ直ぐな目は、瞬きの回数が、私の三分の一くらいしかない。萎縮してしまいそうになった。一年ぶりの玲王くんを前に、私は緊張していたのだ。
「…………あれ? お前、なんか背、伸びた?」
だけど、玲王くんは、その眉を微かに下げて、笑った。
さっきまでの遠い目をどこかに追いやったみたいな、どこか幼さを残した表情だった。それに「え」と瞬きをして、背、身長、と脳内で考える。会話を滞らせてはいけない。だけど焦ると、すぐには言葉が出てこなくなってしまうのだ。私は成長なんかもうとっくに止まっていて、去年から1ミリだって伸びてなかった。それに思い至ってすぐ「伸びてないよ、もう、伸びないと思う」と答えて、そうして玲王くんを改めて見たとき、あれ、って思った。玲王くんは、私の想像の中にいた玲王くんよりも、背が高くなっていたのだ。
そうか、男子ってまだまだ伸びるんだ。周りの友達ももう身長が伸び続けている子なんていないから、失念していた。去年はあんまり変わらなかったはずの目線の位置は、今、首を持ち上げなければ合わないくらいに高い。
「玲王くんは、だいぶ伸び……た、よね? 去年より」
玲王くんが伏せた睫毛の先を、手を伸ばしても届かないくらいの距離からじっと見ていた。
「そうだな。まあ、多少は」
その返答に、私がどれだけ安堵したかを、きっと玲王くんは知らない。よかった、って思ったのだ。どうにかこうにか、今年も話せそう、って。
玲王くんは、去年のものをそのまま切って貼ったみたいに、一つの歪みもなく笑っている。
食事会は、例年通り恙なく進んだ。
御影のおじさまのお仕事の話。お父さんの最近の作品の話。おばさまとお母さんは気が合うらしくて、私たちが子供らしくまだ頻繁に遊んでいた頃から現在に至るまで、ランチやお買い物に出かけているような間柄だった。そんな二人が夫同士を立てつつも細やかなフォローをしてくれるおかげで、空気は終始和やかだ。勿論、そうでなくてもおじさまとお父さんの間に会話は尽きなかったのだけど。玲王くんは、時折目線を落とす以外は、実に柔らかい笑顔を浮かべ話の聞き手に回っている。この六人の中で明らかに浮いているのは、私たちだということを、恐らく彼も理解している。
十五才。冬。
そんな時期だったから、話が私たちの受験の方へと向かうのは必然で、「ちゃんは、やっぱりそのまま椿山に?」とおじさまに聞かれることは想定内だった。なのにデザートを食べていた私は虚を突かれてしまったのだ。もう、ムースがびっくりするくらい美味しかったせいだ。「はいっ」と慌てて背筋を伸ばす。そうしてから、「あ、いえ」と首を振った。おじさまは、玲王くんによく似ている。
「椿山は、中学までと思っていて」
「へえ」
私立椿山学園中等部。
それが現在の私が通っている女子中学校の名前だ。
外務官やお医者様の子女の通う由緒正しい学校で、偏差値もそれなりに高い。そのまま高等部に進む生徒が大多数を占める中、わざわざ外部進学を選ぶ人は多くはないから、御影のおじさまが興味深そうに目を瞠るのも無理はなかった。そう興味深そうにされてしまうと、どうにも居心地が悪いけれど。
食事が終わって、既にほとんど片付けられたテーブルの向こうで、玲王くんが薄い笑みを貼り付けている。耳を傾けるように小さく首を傾げた玲王くんは、本当に私のことに興味があるんだろうか。ここ数年、特に中学に入ってから先の私は玲王くんを前にするといつも、底の見えない湖を覗きこんでいるような感覚になる。話はしようと思えばできるのに、そこには昔と違う、決定的な空白がある。じとりと汗の滲んだ手の平を、膝の上で組み直す。
「私の成績では難しいかもしれないんですが、白宝高校を受験するつもりでいるんです」
その時の玲王くんの顔を、私は視界の端で見ていたくせに、どうして一生忘れられないもののように思えたんだろう。
玲王くんは微かに目を見開いて、私を見ていた。一度だけ、瞬きをした。どこか不思議そうな目だった。「まあ、白宝高校?」そう弾む声で口にしたのは、おばさまだ。それでも私は玲王くんを見ている。あの頃ほど開かなくなった口元が、何かを与えてくれるんじゃないかって、そう思っている。
「ただいまぁ」
洗面所で手を洗って、うがいをしっかりして、それから玄関からずっとついてきてくれていたタマを抱きかかえて、そのまま自室に直行する。のんびり車を降りてきたお父さん達はまだ玄関にいるけれど、今日は帰ったらすぐ勉強するって話をしてあるから、リビングで待つ必要もないだろう。
タマは、タマって呼んでいるけど猫じゃない。ポメラニアンの女の子だ。今年で七才になる女の子で、私にとっては自分自身よりも大事な子。
私の腕の中で大人しくしているタマは、部屋について床に下ろされると、私の周りを嬉しそうにくるくる歩き回った。くんくんにおいを嗅いでいるのは、私から普段はしない、色んなものが混ざったようなにおいがするからだろう。
本当だったらきちんとコートをかけて、着替えて、それからじゃないとベッドには入らないんだけど、そんなの構ってられなかった。小さい頃の私と、ルーク(昔一緒に住んでいたゴールデンレトリバーの男の子だ)の映った写真立てに向かって「ただいま」と声をかけてからバッグを置いて、コートを椅子の背に放って、それから改めてタマを抱きかかえる。タマが怪我をしないようお腹に抱いて、背中からベッドに転がる。
「タマ〜……」
ぶんぶんと尻尾を振るタマの黒い、大きな瞳に、何だか途方に暮れた顔をした私がいた。私、こんな顔でずっといたんだろうか。そう心配になってしまったけれど、そんなことはなかったはずだ。私は私なりに、今日の食事会を粗相もないままちゃんと乗り越えて、終わらせたんだから。
、都内の私立中に通う中学三年生。
「…………どうしよう」
私は平凡な人間だった。陶芸家の父を持ち、それなりにお金をかけて育てられたにもかかわらず、ありとあらゆる分野において頭一つ抜けることが叶わなかった。椿山学園においてはどうにか上位の成績を保ちながらも、玲王くんのように全国模試の成績上位者に名を連ねたことなどなく、小さい頃から習っているピアノでだって同世代の中でトップにはなれない。芸術家としての才も、受け継がれなかった。私はお父さんやおじさまのように特別じゃない。何者かにはなれない。全てを手に入れることのできる、玲王くんとは違う。
私を形成する大部分に、だから、いつも玲王くんはいたのだ。
一年に一度しか会えない人だからこそ、私は自分の存在の矮小さに打ちひしがれることなくいられたのに。
どうしよう、と、もう一度呟く。先の食事会のことが、鮮明に瞼の内側に貼り付いている。「どうしよう、タマ」白いふわふわの毛が、部屋の灯りに透けている。
「玲王くんも白宝を受けるんだって……」
おばさまが、そう教えてくれたのだ。「じゃあ、二人は同級生になるかもしれないのね」って。玲王くんは、私の顔を覗き込むみたいに首を傾げながら「へえ」って、微かに笑っただけだった。膜を作るみたいに薄く伸ばされた真意を読み取るのは、私には難しかった。
私自身、玲王くんと同級生になる可能性があることが嬉しいのか、そうじゃないのか、自分でもよく分からない。一年に一回どころか、毎日会うことになるかもしれないって思うと、頭の端がじわりと熱を持つ。だって、考えたこともなかったから。
いや、でもその前に、そもそも私の成績で白宝に入れるかっていったら、ギリギリなのだ。こんな風に悩んだって、落ちてしまえば意味がない。婚約者と同じ高校に通うかもしれない、なんて実現の低そうな未来の話に困っている場合じゃない、絶対に。
玲王くんの方は、きっとそんなの、どうだっていいことなんだろうけど。
「勉強、しなくちゃ……」
タマはワンとも言わないまま、不思議そうな目で私を見つめている。
春、私は白宝高校の門の先で玲王くんを見つける。
白とライトグレーの制服は、そこにいる新入生全員が身に纏っていたのに、玲王くんの後ろ姿だけは、まるで違った。玲王くんだけが燦然と輝いていた。校庭の桜が風に浚われて、はらはらと舞っている。きれいだった。小さい頃のことを思い出していた。私がまだ、平然と玲王くんに触れた頃のこと。一年に一回なんかじゃなくて、会いたいと思えたらいつだって会えた頃のこと。
親の決めた婚約者でも、私はずっと、玲王くんのことが好きだったのだ、本当に。