凪誠士郎スーパーゴール。
一年強くらいそういう見出しの動画や記事を追っていたら、無知だったはずなのに、いつの間にかサッカーにめちゃくちゃ詳しくなってしまった。贔屓のチームができたわけでも試合を生で応援に行ったりしているわけでもないから、本当のサッカー好きの人とは全然話を続けることはできないんだけど、新しい趣味って感じで、結構楽しい。
仕事の休憩時間中は、動画とかネットニュースを漁る。そうして情報を集めていると、何だか「遠くなっちゃったなあ」って思う。だって、あの凪くんがこんなに有名になるなんて、二年前は思ってもなかったから。それも、サッカーでなんて。
二年生になってサッカー部に入った凪くんは、練習試合や大会なんかであれよあれよと頭角を現して、そのままの勢いでもってブルーロックっていうプロジェクトに参加することになった。このプロジェクトは世界で通用するサッカー選手を育成するためのもので、日本全国の十八才以下のストライカーからとりわけ秀でた才能を持った選手を招集し、互いに競い合わせるもの、らしい。内情は詳しく分からないけれど、あとはネットで調べれば、いくらでも情報は手に入ると思う。その育成対象として選ばれた凪くんは、そりゃあもう、サッカーの才能に溢れた人だった。しなやかな身体から繰り出されるシュート、トラップの技術も一級品、「天才」凪誠士郎――彼を褒め称える記事を読む度、どうしてだか誇らしい気持ちになったのだった。
彼は高校を卒業したら、同じ白宝高校出身の御影くん(あの御影コーポレーションの御曹司だ)と一緒に海外のサッカーチームに入ることになっているんだって。海外で選手になるなんて、別世界どころか、別次元の話みたい。
スマホをスワイプしながら、は~、とため息を吐く。すごいなあ。二年前、そんなすごい子のいる寮で管理人をやっていたなんて、誰かに話しても信じてもらえなさそうだ。こんな片田舎の花屋に勤めているような女が、あの世界の凪誠士郎と知り合いなわけがないだろ、って。私もそう思う。
お弁当を食べ終わって、スマホを片付ける。「さーん、休憩終わったら表にこれ並べといて~。俺、ちょっと市場行くから~」って店舗の方から響く店長の言葉に、「はい! 今行きますー!」って大きな声で返事をした。今の私の日常は、何の変哲も無い、平々凡々な街で完結していた。
それでよかった。
私が白宝高校男子寮の管理人を辞めてから、二年が経っていた。
伯母に「もうこのまま管理人の仕事を辞めようと思っているの」と打ち明けられたのは、その年の一月。どうしても体調が思うようにいかないため、退職するつもりなのだと伯母は言った。「ちゃんを振り回してごめんなさい」とも。驚いたけれど、どうして伯母を責めることができただろう。一番無念なのは、大切なものを手放す伯母自身であるはずだった。
三年生の卒業や引っ越し、寮見学に、寮生の入れ替わり。一年で一番忙しい時期の中で自分の身の回りのものを整理したり、後任の城島さんと連絡を取ったりするのはなかなか大変だった。ばたばたしすぎて、寮生の皆に退職の旨を直接伝えることも、結局できなかった。……っていうのはちょっとだけ嘘で、本当は、うっかり泣いてしまいそうだったから言えなかったのだ。辞めたくない、なんて泣いて皆を困らせることだけは、絶対にしたくなかった。だって私、代理とは言え、管理人だったんだもん。子供みたいな真似は、できない。
それで結局私は寮の皆が春休みで帰省しているのを良いことに、黙って仕事を辞めてしまった。一通の、実に簡素で事務的なお手紙だけを残して。皆が悲しんでいたっていうのは食堂の栗原さんから後で教えてもらったけれど、でも、凪くんの名前は、彼女の口から出なかった。それでいいんだって思った。私の一方的な片思いは、重石をつけて、お腹の底に沈めておくべきだった。そうしたら、そうしたらちゃんと、これはきれいに終わる片思いだった。
私が地元に戻ってから働かせてもらえることになった花屋さんは、寮の近くにあった行きつけのお店よりもずっとこぢんまりしていた。普段は農業をしている店長が作ったお店で、従業員は私だけ。華やかな、いろんな種類の花があるっていうより、仏花が多い。
「畑に行くとき店が無人になるからさあ、たまーに盗まれてたんだわ、花。さんが来てくれて助かった」
とんでもないことをさらっと言って笑う店長は結構大雑把で、でも、そんなだから私も肩の力を抜いて働けている。お給料は、そんなに高くないけどね。でも実家で暮らしている分には、充分すぎるくらい。元々憧れていた、大好きなお花に関わるお仕事ができるのは、嬉しかった。
こんな感じで、のんびり生きていくんだろうな、って思う。ちいさな街で、家族や友人に囲まれて、そのうちまた好きな人ができて、いつか結婚もして。凪くんをもっと遠くにして。あのときの思い出は記憶の波の中で小さくなって、だけどすべて燦然と輝いたまま。
私とは元々関係の無い、違う流れの中にいた男の子。少し重なる瞬間があっただけで、近づけなかった。だけど本当に好きだった。
店長に頼まれていた鉢を外に運ぶ。通りから一本奥まったところにある店の前は、車通りもさほど激しくなかった。穏やかな春の日差しに目を細める。近くの幼稚園から、子供達の笑い声が聞こえる。秋にあの子たちが植えたチューリップは、今、この辺りの道路沿いに並べられていて、多分、来月には花が咲く。そういう細やかな楽しみだけを胸に、漫然と生きていくつもりだったのだ。
三月だった。私が一方的に寮を出てから、二年が経っていた。その間に伯母は亡くなったし、私は新しい職に就いた。凪くんはもうずっと遠くにいて、それだけだった。
それだけだったのに。
「こんちは」
鉢を並べていたら、背後から大きな影に包まれた。
その低い声は、どこか昔聞いたことがあるような気がした。お客さんだ、と思って、「いらっしゃいませ」って振り返る。だけど、その瞬間だった。背後に立ったその人に、「さん」って、名前を呼ばれたのは。
逆光で、最初はそれが誰だか分からなかった。
癖のある猫っ毛。瞼は重たげなのに、瞳がびっくりするくらい大きい。見上げなくちゃ目が合わないくらいに背の高い人だったけれど、私の記憶よりずっと大きく見えた。だけど、間違えるはずがない。だって私、毎日動画で観てるもん。
視線が絡まった瞬間、世界が音を止めたみたいだった。
「――お花くださーい」
凪誠士郎が、そこにいた。