俺の人生の転機がどこだったかって聞かれたら、そりゃ玲王と出会ったこと、って答えると思う。
 玲王に出会うまでの俺はサッカーなんか全然興味なかったし、スポーツなんか見るのもするのも面倒くさかった。いい会社に就職して、さっさと稼いで早期リタイアして、余生をのんびり過ごすっていうのが理想だったから。ベッドに転がって、だらだらゲームして、好きなときに好きなだけ寝て、たまにのんびり散歩して。そうやってぬるい海の中をぷかぷか浮かぶみたいに生きたいって思っていたのだ、ずっと。
 だけど俺は玲王に出会って、ルールもよく分からない中でサッカーをするようになった。サッカーを始めて数ヶ月でブルーロックプロジェクトに呼ばれて、潔とか、面白いやつらと出会って――それで、知ってしまった。サッカーが面白いってこと。自分が案外熱くなれる人間だったってこと。わくわくできるってこと。もしも二年の春、玲王とあの階段で出会ってなかったら、俺は今絶対にボールなんか蹴ってなかったのに。そう思うと、なんか面白いよね。だってあの日、俺の人生は明確に変わったんだから。
 だからそれに比べたら、あの人との出会いは「自分の人生に影響を与えた」っていうレベルではなかったと思う。
 たった半年強、俺がお世話になっていた学生寮で管理人をしていた女の人。年上なのは確かだったけれど、実際いくつなのかまでは分からなかった。花が好きで、いつもにこにこしてて、最初はそうでもなかったのに、俺にご飯食べろ食べろって煩かった。誰にも平等に優しくて、気を遣う人だった。だから冬休みに俺に食事を作ってくれたのも、その一環でしかなかったんだろうとは思う。本当はめちゃくちゃ真面目で、なんかうんうん葛藤してたっぽいのに、なんだかんだあの管理人室で存分にだらだらさせてくれた。そういう甘いところも、好きだった。
 あの人といると、楽だった。俺の代わりに喜怒哀楽の全部の感情を表に出してでもいるみたいに、ころころ表情を変えた。びっくりした顔も、考え込む顔も、喜ぶ顔も、全部この目に焼き付いた。他の人と話してるのを見ると、ちょっとざわざわした。チューリップに水をやる丸い背は小さかった。あの人の「凪くん」はいつも微妙に温度が違った。カウンターに置いてある飴、いつも大体甘かった。いろんなものをもらった。あの人がいなかったら、俺、多分あの頃、誰とも喋ってなかったな。



「いってらっしゃい、凪くん」



 あの頃俺は、当たり前みたいにあの人の声を聞いていた。
 俺の知らないうちに、いなくなってたけどね。








 さんがいなくなったのは、春だった。春休みが始まって早々、後任の管理人に仕事を全て引き継いで、消えるみたいにいなくなってしまったのだ。跡形もなく。
 それを最初に教えてくれたのは、俺よりも一足先に寮に帰っていた寮生の人たちだった。確か、一個年上。名前は知らない。向こうは「お、凪。今帰ってきたとこ? じゃあさんが辞めたって話、まだ知らない?」って、普通に話しかけてきたけれど。
 やめた。
 頭にそれが染みこむ前に、二人組のその人たちは俺に言葉を放ってくる。



「食堂の栗原さんから聞いたんだけど、さん……ってか、前のさん? 契約更新しなかったんだって」

「二月くらいからちょこちょこ荷物整理してたっぽい。辞めんなら前もって言っといてくれたらよかったのにな」

「な。好きだったからショックだわ」

「お前の恋愛相談がウザくてやめたんじゃねーの」

「いやそんなしてねえし!」



 二人組の先輩たちは、黙ったままの俺を置いて、さっさとエレベーターに乗り込んで行ってしまう。
 その扉が閉じても、上手く飲み込めなかった。「辞めた」っていう言葉の意味はわかっても、異物みたいにそのへんに転がってる。なんかの冗談じゃない? って思った。でも、脳裏にちらつくのはあの日の、ほんの数日前、俺に笑ったさんだ。「いってらっしゃい凪くん、元気でね」まるで今生の別れみたいだなって思ったのだ。
 ほとんど無意識に開けたエントランスのポストには、だけどその旨を知らせる、実に事務的な手紙が残されていた。「退職のご挨拶」。そこに記されたの文字列に、不在だった彼女の代わりに受け取った段ボールの手触りを思い出す。



「――さん」



 俺が何となく呼んだときの、あの動揺を露わにした、真っ赤な顔。――あのとき、もしかしてこの人、俺のこと好きなのかなって思った。俺のどこに好きになる要素があったのかなんて知らないけど、あの時のあの人の目が、馬鹿正直にそう言っていたから。
 でも、全部俺の勘違いだったのかも。こんな風に、逃げるみたいにぱっていなくなっちゃうんだからさ。
 あの人がいた管理人室を見れば、もう椅子に、俺のあげたクッションは残されていなかった。カウンターにも、飴の入った籠は出ていなかった。エントランスのテーブルに花瓶はなくなっていたし、貼り出されている四月の予定表に、あの人が好んで使うイラスト素材は一個もなかった。
 視界の端の管理人室で、人影らしきものが引っかかる。



「おや、おかえり。君は……二年生の凪誠士郎くんだね」



 四月になっていた。



「僕は今年度からここの管理人になる城島です。これからよろしく」



 管理人室の奥から現われたのは、人のよさそうな、柔和な眼差しをしたおじいちゃんだった。いいひとそう。俺がご飯食べなくても、食堂に行かなくても、何も言わないでいてくれそう。楽そうだな、って思ったけど、でも、全然違う寮に帰って来てしまったみたいだった。
 新しいおじいちゃんの管理人さんは、ちゃんとあの人の残していったチューリップを咲かせてくれた。鮮やかな赤の丸い花弁。それだけが、あの人がここにいたことの証左だ。








 さんがいなくなったんじゃ、この先誰とも喋んなくなりそう、って思って、さんが好きだったあの花屋でサボテンを買った。名前はチョキ。「チョキ? 可愛い名前つけたね」って目尻を下げて笑いそうだなって思った。思ったところであの人はどこにもいないのに。
 玲王とサッカーを始めて、白宝高校サッカー部はどんどん強くなった。ネットニュースになったこともある。どっかで見てんのかな、あの人も。東京の、ここよりは田舎の街で、あの人がちゃんとのびのびできるような仕事して。にこにこしててくれるんなら、それでいいや。
 「球技大会頑張ったで賞」のレモンティー、俺の代わりにボードにチェックをつける、傷一つない手、俺がやってるのがセーブとか関係ないゲームだってのを、いつからか覚えてくれていた。チューリップの球根を握る手が俺のよりずっと小さくて、この人、女の子なんだなって思った。紅茶を零した後テーブルに頭をぶつけそうになってたから、咄嗟に守った。きれいに貼られた絆創膏。花屋なんか一生行かなそうって言った俺の後を、小走りで追いかけて来た。クッションを渡したときの、嬉しそうな顔。身を切るような冷たい風の吹く朝も、やわらかな光の射す春も、夏の濃い陰影の中緊張した面持ちで立っていたあの昼も、だけどなんかさ、べったりくっついて剥がれないんだよね。いつまでも。そう言ったら玲王は「なんだよそれ、好きなんじゃん」って言った。知ってるよ、それくらい。
 でも、いくら好きでも、じゃあ捜しだそうとは思わなかった。あてがないわけじゃなかったし、何なら玲王も「協力してやろーか?」って言ってくれたけど、今はまだその時じゃないってことだけは知ってたし。だからサッカーに専念した。今はそれが正しいって分かっていた。
 ブルーロックで俺達の姿が外に放送されているって知ったときは、やっぱりさんの顔が過ぎった。あんまスポーツとか、興味なさそうだったけどさ、でも、俺の名前どっかで耳にして、「え! 凪くんじゃん!」って言っててくれたら、俺、それだけで結構嬉しいんだけど。
 でもあんたのことだから、「遠くなっちゃったなあ」って、勝手に線引いちゃいそうだよね。そーいうの、目に浮かぶから、困るんだ。
 勝手に線引くな、って、次に会ったら言ってやろう。だからどうかその時まで待っててよ。こっちだってずっと待ってるんだからさ。


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