どんなに忙しくても、見えるところはいつも綺麗にしておいた。エントランスに置いた花瓶には季節の花を挿していたし、管理人室も、ガラス窓越しから見える部分だけは片付けを欠かさなかった。掲示物の貼り替えも適切な時期に行ったし、顔に疲労を出さないのは、元々得意な方だった。
三月の上旬にあった寮見学も滞りなく終えられたのは、だけど、協力してくれた学校職員の方々のおかげだ。慣れないことばかりで戸惑う私を辛抱強く支えて、アドバイスをしてくれた。見学会当日も終日面倒を見てくれたんだから、もう足を向けては眠れない。
準備も大変だったし、当日は本当にドキドキしてしまったけれど、頑張った分の手応えはあったと思う。中には「こんなに若い女性が寮母さんなんですねぇ」って、感嘆の裏に不安を隠して口にする親御さんもいらっしゃったけれど、入寮に関する説明会を経た後で、お子さんと春からの寮生活について話し合っている様子を見かけたときはほっとした。まだどこか幼い顔立ちをした中学生たちが、来月からここで暮らすことになるかもしれないんだって思うと、何だかそれだけで、不思議な感じがした。
里崎くんや竜胆くんたち、三年生が引っ越していったのは、見学会の少し後だ。一応契約としては白宝高校の生徒として扱われる月末までは寮にいて良いことになっているのだけど、大学が決まった後、これから住むことになるアパートを決めた彼らが次の行動に移るのは、ものすごく早かった。
「――随分ぱぱっと行っちゃうんだねぇ」
手際良く引っ越し作業を済ませる彼らに感慨と共に言えば、「ここの寮生は例年こんな感じっすよ」って彼らは笑う。
「卒業式が終わったら、大体皆出てくんです」
「俺らの部屋、新しい一年生に譲んなきゃですしねー」
立つ鳥後を濁さずってやつだ。引っ越しの前にお別れパーティとかする? って聞いたら、そんなのしなくていいって笑われて、なんだか寂しいけれど、そういうもんかと頷いた。
「お世話になりました。俺達、入学式前には直接お見舞いに行くつもりでいますけど、さんからも……さ……ええと、さんの伯母さん、によろしく伝えてください」
話しながら「ややこしい」と思ったのか、里崎くんたちは少し言葉をつかえさせながらそう言ってくれた。そんなことにも泣けてきて、困った。
寂しいな、と思う。たった半年しか過ごしてない私に、そんなことを思う資格はないのかもしれないけれど。
最後に握手を求められたから、手を差し出した。彼らの力は私が思っていたよりもずっと強かった。
やることがたくさんある、って思っていたけれど、大きなイベントが一つ終わる度、肩の荷は分かりやすく下りる。
とは言え、それでも仕事は山積みだった。新一年生の正式な入寮申請、諸々のやりとり、空いた部屋のクリーニング、日々の雑務に書類の整理、片付けもの、伯母のお見舞い。しなければならない電話だって何件もあったし、個人的に出かけなければならない場所もあった。春は一番忙しい、って、本当にその通りだ。目まぐるしくて、時間だけがどんどん過ぎていく。
「はぁ~……」
どれだけ疲労していても、花の手入れは怠ることができない。
寮の前に並べておいたプランターに、いつも通り水をやる。秋に植えたチューリップは先月くらいには芽が出始めていて、ぐんぐん成長していた。蕾らしいものもでき始めていて、このまま順調にいけば四月にはきちんと花を咲かせるんじゃないだろうか。
しゃがみこんだまま、チューリップの茎を指先でつつく。きれいに咲くといいなあってぼんやり思っていたら、急に手元に影が降ってきて、びっくりした。「おつかれー」って言う、どこか間延びした声に、私は背後に立ったのが凪くんだと知る。
「凪くん、おかえりなさい。……今日、帰りはやいんだね?」
「体育だけだったからサボったー」
「サボ…………」
「授業日数足りてるし、いいでしょ。バスケ、走んなきゃいけないし、めんどくさーい」
「バスケかぁ……。凪くん、身長でいったらめちゃくちゃ向いてそうだけどねえ」
「よく言われる」
凪くんはそう言うと、不意に私の隣にしゃがみこんだ。
正直、ぎょっとした。凪くんのことだから、このままさっさと寮に入って、自分の部屋でごろごろだらだらして過ごすんだろうと思ったから。でも、凪くんはしゃがみこんだまま、膝に肘を押し付けて、チューリップを眺めていた。おんなじ姿勢だっていうのに、やっぱり凪くんと私じゃ、身体の大きさが違った。
「これさ、すごいよね。ちゃんと花になってる」
「花になってる……」
「あのにんにくからさ、あんたがちゃんとお世話して、ここまで育てたんだもんね。すげー」
「え、えへ、水あげてただけだし、そんなすごいことじゃないけどね……!」
「すごいすごい。いつ咲くの?」
「来月かなぁ。ちゃんと咲くと良いんだけど」
顔を緩ませたまま彼の方をみやれば、凪くんがまじまじと私の顔を見ていたものだから、急に我に返ってしまう。きれいな顔をした人だから、あんまり見つめられると逃げたくなってしまうのだ。凪くんは、私がそんな面倒な感情を抱えているなんて知らないんだろうけど。
ばって、ほとんと不自然に思われてしまいそうなくらい思いきり視線を外した私に、凪くんは何も言わずにいてくれた。私たちの背の方、歩道へと繋がる階段のその先で、一台、車が通り抜けていった。どこか遠くの方で、救急車のサイレン音が響いていた。
私がバタバタしている間に、季節はすっかり、また一つ先に進もうとしていた。最近はめっきり春らしい陽光が差し込む日が増えて、お花屋さんにも春の代名詞になるような花が増えている。空気の匂いも柔らかくなって、肌を撫でる風は穏やかだった。ついこの間まで雪がちらついていた日もあったっていうのに、って思うけれど、春休みも目前なんだから、私が時間の流れについていけていないだけなんだろう。
「も、もうすぐ春休みだね!」
広がりかけた沈黙を打ち破るように、そう口にする。
「ね」
「はやいねえ、凪くん、今回はちゃんとご実家に帰るんだもんね。気を付けてね」
「あー、そうだったっけ。めんどくさー」
「そう遠くもないんだし、最悪身一つで行っても良いんだから、きっとそんなに面倒でもないよ。のんびりしてきな」
「のんびりだったらここでもできるのに」
「あは、そうかなあ。でもおうちの方がいいよ、きっと」
そう言いながら立ち上がった。足が少し痺れていることに気がついて、軽く膝を伸ばす。空っぽの如雨露を抱えて、まだしゃがみこんだままの姿勢で私を見上げている凪くんを見下ろした。彼の色素の薄い髪が、光に透けて、溶けるみたいだった。ざざ、って吹いた風が、凪くんのやわらかな髪を揺らしていた。光が、ちかちか、視界で幾度も明滅した。きれいだった。
凪くんは泣けるくらい、きれいな男の子だった。
「凪くん。ちゃんとご飯食べるんだよ。三日に一回なんて言わないで、毎日、ちゃんと」
春休みの初日、俺が神奈川に帰る日の昼下がり、その人は俺にそう言った。
変なの、とは思ったのだ。だって俺は実家に帰るのに。うちの親、放任だけど流石にご飯の準備しないとかはないし、冬休みの間この人がそうしてくれたみたいに、食事なんか毎日三回、ちゃんと摂らされるのに、って。
さんは、いつもよりかは真面目な顔をしていた。俺のあげたクッションの置かれた椅子から立ち上がって、ガラス窓越しに俺に「いってらっしゃい凪くん、元気でね」って笑った。
今生の別れみたいじゃん、って口にしていたら、あの時あの人は、ちゃんと顔に出してくれたのかな。
目尻を下げて笑うその笑い方が、俺は結構好きだった。