それからは、本当に忙しい日々だった。
 三年生の大学受験、白宝高校に入学することが決まった中学生の寮見学の申し込み、引っ越しの相談や手続き、突然の渡井くんの骨折騒動に、身の回りの諸々の整理、あと、谷くんの失恋。そこに普段の業務も加わるのだから、誇張表現でもなんでもなく、目が回ってしまう。あまりの忙しさにバレンタインをスルーして、一部の寮生たちにがっかりされてしまったのは申し訳なかったけれど、でも本当に失念してしまっていたのだ。
 凪くんの食事事情に頭を悩ませていた秋が懐かしいくらいで、一日一日は呆気なく過ぎ去った。お休みの日に買い物に行って、副菜をたくさん作っておいて冷凍して――なんてことも、今は全くできていない。ここ最近はカップラーメンにレトルト食品、惣菜パンとかで凌いでいて、もう凪くんを注意できる資格もないくらいだった。時々見かねた栗原さんが、「余り物で良かったら」って、食堂のご飯を差し入れしてくれるのが、涙が出るほどありがたかった。事情はもう伝えてあるから、それで余計に、だったのかもしれない。
 あんまり忙しいものだから、何かちゃんとした用事でもない限り、特定の寮生と腰を据えてお話しするなんてことはなくなってしまったっていうのも、ここ最近の変化の一つだ。
 三年生の受験や卒業、引っ越しに関わるスケジュールと向かい合うのに必死だったし、次の春からこの寮で暮らすことになる新入生を受け入れるための準備もしなければならなかった。そんな中、ここ最近で一番顔をつきあわせて私が話をしたのは、彼女にふられて落ち込んでいる谷くんだ。
 谷くんの落ち込みようは酷かった。「結構俺マジで好きだったんですけど」「あ~……幸せだったクリスマスに戻りたい……」「喧嘩したとかじゃないんすよ、ほんと急で、なんか、いきなり」私はそれを、うんうんって聞いている。うんうん、それは辛いね。すっごく好きだったんだね。いきなりじゃびっくりだったね。って。



「俺、マジで女の子とっかえひっかえしてるって思われてるかもしれないけど、実咲とは結婚するんだって思ってて……それくらい本気で……」

「そっかぁ……。それで急にフラれちゃったんじゃきついねえ。谷くん、デートとかも良く行ってたもんね……映画とか……」

「そう、映画! パンフレットまで買ったんすよ俺!」



 実咲、映画好きって言ってたから、これから一緒に映画に行く度にパンフレット買おうって思ってたのに、結局それ以上増えなかった。ほんとなんなんだよ、もう。吐き出されたそれが若干涙声だったから、どうしようかと思った。
 谷くんは学校から帰ってくると、管理人室前のカウンターに肘をつきながら帰宅のチェックをつけて、それで、こうして長々と話をしていく。他の子が帰ってきても全然お構いなしだし、同学年の渡井くんが「いや、ガチ泣きしてんのかよ」って、三角巾をした左腕を庇いながら(体育の授業中にやってしまったんだって。骨折したのが利き腕じゃない方だったのは、不幸中の幸いだ)ボードとボールペンを谷くんの手からぱっと奪っても、谷くんは「うるせー! さんはお前と違って優しいんだわ!」って噛みつくだけだった。そんな二人の背後を、ゲームをしながら帰ってきた凪くんが無言で通り抜けていく。凪くんがこっちに立ち寄らず、真っ直ぐエレベーターに向かって行くのを確かめて、私は後でこっそり、凪くんの名前のところにチェックをつけておく。
 管理人室の私の座る椅子の背中には、凪くんがくれたお花のクッションがある。
 タグから調べてみたらこの子はゲームのキャラクターで、名前はふら輪、っていうんだって(確かに花弁が輪っかっぽくデザインされている)。誰からも「それ、ふら輪じゃん」って言ってもらえないから、あんまり有名なキャラじゃないのかな。わかんないけど、ふら輪は固い椅子の背中部分に挟むには丁度良い厚さと柔らかさで、重宝していた。これ、すごくいいよって凪くんに直接言いたいけれど、最近凪くんとは、あまり話す機会がない。








「聞いて下さいよさん。俺、なんか実はずっと二股されてたっぽくて」



 未練の抜け落ちた目で谷くんがそう話してくれたのは、二月の終わりくらいのことだった。
 最近あんまり話を聞かないな、って思っていたけれど、実は裏でそんなことになっていたとは。「えっ! そうなの!?」ってびっくりする私に、谷くんと一緒に管理人室を尋ねてくれた渡井くんは「そーなんすよ、元彼と途中から同時進行だったんだって」って、ちょっと気遣わしげな目線を彼に送る。谷くんも「な、マジびびるよな」って、どこか他人事のように口にしていた。



「やっぱ学校が違うとわかんねえよな、そういうの」

「同じクラスの元彼に勝つの、きついでしょ」

「にしたって普通二股はしないよな。よかったじゃん、ずるずる付き合ってなくて」



 最近谷くんが私に話しにこなかったのは、渡井くんがいたからなのかもしれない。本当だったら話くらいならいくらでも聞いてあげたかったし、谷くんのことも物凄く気にかかってはいたけれど、二月にもなると忙しさに拍車がかかってもうバタバタしてばっかりだったから、渡井くんがそうして谷くんの傍にいてくれたのは私としてもありがたかった。
 以前よりずっと吹っ切れた顔つきで、谷くんは私に笑顔を見せる。まだ少し本調子ではなさそうだったけれど、それでも笑ってくれるのは嬉しい。



「で、今思い出の品の整理してるんすよ。そんないっぱいあるわけじゃないですけど。……古紙回収って何曜日でしたっけ?」

「あー。古紙かぁ。隔週だし、ついこの間回収があったばっかりだから、結構先だなあ。……あんまり嵩張らないようだったら、管理人室の隅っこに置いといていいよ」

「え、いいんすか?」

「そういうの部屋に長く置いとくとすっきりしないでしょ。あ、でも嫌だったら全然。勿論中身のチェックなんかしないけど、他人にそういうゴミを預けるってのもよく考えたらアレかもだし……」

「や、めっちゃ助かります。見られて困るもんとかないんで、俺」



 じゃあ明日学校行くとき、さんに預けていいですか。そう言われて二つ返事で頷いた。カウンターから離れた渡井くんが、「よかったじゃん」って谷くんの背中を叩くのが視界に入る。谷くんが「さんめっちゃやさしい」って話すのに聞こえないふりをしながらも、どうしようもなく照れてしまった。だけど谷くんが吹っ切れるのに、ちょっとでも役に立てたなら良かった。特別なことは何もしてあげられないからこそ、そう思う。
 翌朝谷くんに、「すみませんさん、これ、じゃあお願いします」って、古紙の束を手渡された。



「はーい。任せて! いってらっしゃい!」



 谷くんが寮を出てから、ガラス窓のこっち側にそれを引き寄せる。麻紐で縛られたそれの一番上にあったのは、映画のパンフレットだった。これから一冊ずつ増えていくはずだったんだろうになあって思うと、他人事ながら物寂しい。でも、それを見て、不意に「あれ」って思った。何か見覚えがあるなって思ったらそれは、年末に凪くんと観た、あのドラマと同じタイトルのものだったのだ。
 ――これ、映画もやってたんだ。
 寄り添う女の子と先生の幸せそうな笑顔に、ほんの一瞬だけ、平らだった感情に巨大なスプーンでも突っ込まれたような気分になる。高校生の女の子と、先生が秘密の恋をする話。良くないよ、それは、って思ったっけ。せめて卒業してからじゃないと、って力説した私に、凪くんは全然興味なさそうに「へー」って言った。なんだかあの冬休みも、今では随分昔のことみたいだ。
 でも、なんだかなあ。こういう物語みたいに、綺麗に成就する恋とは、きっと私は無縁なんだろうなあ。
 昨日の夕方から夜にかけて、不要な紙類をまとめておいた。そこに混ぜるように、谷くんの持ってきた古紙の束を重ねる。今週末には、寮の見学希望者も揃うだろう。昨日来ていたメールも返事をしなくちゃいけないし、資料も作らなくちゃいけないし、片付けもある。休む暇もあんまりないな。疲労を自覚しながらも椅子に座ったときだ。丁度凪くんがエレベーターから下りてきたのは。



「おはよう、凪くん」



 相変わらずギリギリだね、って思ったけれど、言わない。凪くんはだけど「おはよう」も言わないまま私の顔をじっと見るから、じわじわ、不安になってしまった。「さん、今日寝癖ついてんね」って言葉がその口から漏れたときは、眠気も一気に吹っ飛んだけれど。



「えっ、どこ!?」



 慌てて両手で頭を押さえる私に、凪くんは表情も変えず、「うそー」って言って、そのまま自動ドアの向こうに行ってしまう。頭を押さえたままその後ろ姿を見送る私は、多分、誰が見たって滑稽だった。


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