伯母に「話がある」と言われたのは、冬休みが終わり、学校が再開して一週間が経った頃だった。
「ちゃん。ごめんね、忙しいのに呼び出しちゃって」
伯母の隣のベッドには新しく入院してきたらしい患者さんが既にいたけれど、間仕切りのカーテンがきっちりと閉められていた。今回のお隣さんは静かな人らしい。時折微かな咳払いが聞こえるだけだった。同室の、他の患者さんも検査か何かがあるらしくて、不在のようだ。窓からの白んだ陽は細く、伯母のほっそりした手元を照らすように差し込んでいる。
父と母は、今この場にいない。それは間違いなく、今の私にとっては救いだった。もしも、万が一、これで伯母の先が長くないなんて話になるようだったら、二人も同席するだろうと思ったから。――だから、仕事の話なのかな、と思う。こうして改まられてしまうと、何だか色々構えてしまうけど。
「……本当は、もっと早く話そうと思ってたの。これから一番大変な時期になるのに、気が利かなくてごめんなさいね」
「そんな、大丈夫だよ」
申し訳なさそうに謝る伯母に、慌てて首を振った。「伯母さんは、自分の身体のことだけ考えててよ」って。その言葉に、伯母は困ったように、薄く笑う。
寮が一番慌ただしくなるのが、寮生の入れ替わりのある三月から四月だ。受験を終え、入学の決まった新一年生の寮見学、卒業する三年生の使っていた部屋のクリーニング、引っ越し、各種手続き――やることは膨大で、同時に責任も重くなるけれど、そこはこれまで長く伯母がやってきたことだ。去年までの資料と学校の職員さんからの手助けで、どうにかできると思う。勿論、伯母にも助言をもらうことになるとは思うけれど。「やっぱ春って一番の大仕事みたいだし、ちょっとドキドキはするけどね」そう言って笑顔を作った。伯母の目は、何か考えこむように、一度だけ伏せられる。
「学校から年末に資料を貰ってね、話もちょっとだけど聞いてるから、色々準備はしてるんだよ。三月の頭にある寮案内のときも何人か学校から職員さんが来てくれるってことだし、困ったことがあったらすぐ相談してくださいって言ってもらえてるし……。白宝高校って、なんかやっぱすごいね。私が頼りないんだろうと思うけど、支えてもらって、心強いな~って思ってる。――だから、心配しないで。きっとなんとかできるから。……って言っても、伯母さんにもたくさんアドバイスもらったりすると思うけど……」
伯母に心配させないために並べた言葉を、伯母は黙って聞いている。
その顔色は、以前までよりも穏やかに見えた。身体を起こしていることも増えているし、こうしてお見舞いに来ても、長くお話ができるようになっている気がする。このまま弱っていってしまうんじゃないかって思った秋より、伯母はずっと快復して見える。詳しく病状を聞かされてはいないから、これはただの希望的観測なのかもしれないけれど、最近はもしかしたら、伯母はそのうち、退院できるんじゃないか、って思うのだ。退院して、仕事に戻って、前みたいに生活できるんじゃないか、って。
またあの学生寮に帰ってこられるんじゃないか、って。
「伯母さんが帰ってくるまで、ちゃんとやるよ」
視界の端に引っかかっていた伯母の手が、シーツに皺を作るのを見た。
その指先が震えて見えた気がして、伯母の目を見つめる。去年の今頃よりも痩せた頬、化粧っけのない顔は透けるくらい白いけれど、それでも、伯母は今、起きて、話ができている。それは救いで、希望だった。伯母がまた前のように生きていくための。それは嬉しい。何よりも。
でも、じゃあそうしたら私は、もうあそこにはいられないなって、感情に薄い膜を張られるみたいに思ってしまうのだ。ほんとうに、心の隅の隅の、絶対誰にも見つからないようなところで。
だけどそのとき私は、伯母が緩く首を振ったのを見た。
「――ちゃん、そのことなんだけどね」
実は。
伯母の私よりも少しだけ低い声は、微かに掠れていた。
「お見舞いでも行ってたの?」
寮に帰ってきたら、エントランスに凪くんがいた。
考え事をしていたから、びっくりしてしまう。「は、え、凪くん」と慌てる私を前に、凪くんは持っていたスマホをポケットに押し込んだ。「おかえりー」っていつもの間延びした声を向けられて、「ただいま……」って、ほとんど呟くように答える。
今日は休日で、私は出かける前、灯りを消してカーテンを閉じた管理人室のガラス窓の前に、「不在」のプレートを立てかけていた。「でも、なんで病院行ってたってわかるの」って動揺を押し殺しながら尋ねる私に、「いや、あんた、買い物くらいだったらあんなん置かないでそのままするっといなくなったりするし」って、凪くんはそのプレートに目線をやりながら口にする。普段ぼんやりしている子なのに、案外周囲をちゃんと見ているのだ。ベンチに座って足を伸ばしたまま、凪くんは私を見つめる。
「さん、元気だった?」
同じ呼ばれ方だったけれど、今凪くんが口にしたそれと、普段私に向けられるそれとは、どことなく温度が違った。どこがどう、とは、上手く説明はできないけれど。
言葉を探すために、少し目線を逸らす。
「元気……だよ。前よりは顔色もいいし……」
「ふーん。結構長く入院してるよね。退院できそーなの?」
「ん、なんか、もうちょっとかかるみたい」
「へー、そうなんだ」
言葉を選ばずにずけずけ尋ねてくるのが、凪くんじゃなくて全然知らない人だったら、私ももっと嫌な気持ちにはなったと思う。だけど凪くんは、凪くんなりに気遣ってくれているのだ。「まーでも、いつか退院できるんならよかったね」って、無表情ながらに小さく頷いてくれるから。
だけど、それでも今、凪くんと楽しくおしゃべりできることはできそうになかった。こんなところで顔が見られて嬉しいとか、そういう感情も起きなかった。私は一刻も早く部屋に戻りたかった。やらなければならないこととか、考えなくてはいけないこと、整理をしなければならないことが、山ほどあったのだ。
なんでこんなとこにいたの? とか、誰かを待ってたの? とか、いつもだったら聞いたんだと思う、私も。だけど今の私にはそんな余裕は一切なかった。そうしなくちゃ、って思うまでもなく、この感情に蓋がなされていたのだ。
「凪くん、私ちょっと急いでるから、行くね」って、言いかけたときだ。おもむろに立ち上がった凪くんが、ソファに置いていたらしいそれを私に差し出してきたのは。
でっかいビニール袋だった。
「んっ?」
最初、それが何なのか分からなかった。中に何か大きなものが入っているのは分かったけれど、半透明のそれの外側からじゃ、中身までは判然としない。凪くんはそれを、私に「あげる」って言う。「ご飯のお礼」って。
「え、お礼……」
「冬休み、いっぱいご飯食べさせてくれたし」
「えっ! いいよ、そんな。一人も二人も変わんないし、大したもの食べさせてないし」
「和牛食べたし」
美味かったし。
そう言われてしまうと、嬉しさとくすぐったさで、息が詰まる。ぐ、って喉に溜まった何かを吐き出すように深く呼吸した瞬間、さっきまであんなに狭まっていた視野が、急に開けたみたいだった。明るい光が差して、澱んだ空気を全部消し去ってくれた気がした。
「てか、もー取っちゃったし。俺はこれ、いらないし。……もらってくんないと困るんだよね」
そう続けられて、はっとした。凪くんが私に差し出しているそのビニール袋には、駅前のゲームセンターのロゴが印字されていた。取っちゃった、ってことは、クレーンゲームの景品かなにかってことなんだろう。気になって、ほとんど無意識にビニール袋を受け取る。
中に入っていたのは、結構しっかりとした大きさのクッションだった。花の形をしたそれに、思わず目を丸くしてしまう。「お花!」って、声が漏れる。
「えー! かわいい! こんなのあるんだ! え、本当にもらっていいの!?」
「だからいいって」
「わあ~、うれしい、こんなおっきいの取れるんだねえ」
「キャラもんで悪いけど」
「え、これキャラクターなの?」
「顔書いてなかった?」
「えー、あ、ほんとだ、かわいい~! なんのキャラだろ。調べてみよ」
「ん、そーして」
凪くんは緩く頷くと、まじまじとお花を見つめる私を置いて、「じゃ、俺部屋もどるねー」って、エレベーターの方へと向かって行ってしまう。
もしかして凪くん、私にこれを渡すために待っていてくれたんだろうか? 時計を見ると、私が病院に行ってから、ゆうに三時間が経っていた。その間凪くんもずっとここにいた、ってことはないだろうけれど、帰宅した彼が私の不在を知って、今の今までエントランスで時間を潰していたのは間違いない。
三階で止まっていたエレベーターが下りてくるのが、点滅する表示ランプで分かる。「凪くん!」って、ほとんど考えるよりも早く彼の名前を呼んだ。首だけを振り向かせた凪くんの目は、やっぱりどうしたって感情が読み取りにくかった。もう半年近くも彼のことを見ているのに、私は今も、凪くんが何を考えているのかがちっとも分からない。
「クッション、ありがとう! 大事にするね!」
でも、私が袋ごとクッションを掲げてそう言ったとき、凪くんの口角が、ほんの僅かに持ち上がった気がしたのだ。
凪くんはなんにも言わなかった。エレベーターの扉が開いたのを受けて、そのままさっさと乗り込んで、何の躊躇もなく扉を閉めてしまう。だから、多分笑ったように見えたのも私の見間違いなんだろう。分かっているけど、見間違えだったとしても、それでも嬉しいのだ、すごく。
考えなくちゃいけないことはたくさんあった。整理をつけなければならないことも。伯母の病室を出てからずっとぐちゃぐちゃになった思考が、今のこれで全て真っ直ぐな糸になることはない。だけど、ちょっとだけ気持ちが軽くなった気がした。
エントランスの隅っこで、袋の中から、凪くんのくれたクッションを半分だけ出してみる。顔の描かれた花のキャラクターは、どこかとぼけた顔で笑っていて、それが妙に優しくて、ちょっとだけ泣けた。