「さんおはようございまーす、いってきまーす」
「はーい、いってらっしゃい!」
「さん。俺、今日ちょっと帰り遅くなります。友達と約束あって」
「うん、わかった! 気をつけて行ってきてね」
「あ、さん、俺飴もらってっていいすか」
「どーぞどーぞ! 何個でも!」
「や、一個でいいっす。いただきます」
「遠慮しなくていいのに。……あっ、丸山くんもいる!? 飴!」
「…………じゃあ、もらっていきます」
学校がある日の寮の朝は、いつも目まぐるしい。
年が明けて、皆はそれぞれの地元から帰ってきた。あんなにひっそりしていた学生寮は、もうすっかり元の喧噪に包まれて、賑やかだ。学校も始まれば管理人としてやることは多いし気を配ることも増えるけれど、正直、こっちの方がずっと落ち着く。多分、忙しない方が余計なことを考えなくて済むからだろう。あとやっぱり、なんだかんだ大変だった。冬休みの間、すっごく。気持ちがぐらぐらして、安まることがなかったのだ。
皆は病気も怪我もなく元気に東京に戻ってきて(お土産までくれた子もいる。地元の名産品とか、お菓子とか!)食堂も予定通り再開された。先日から学校も始まって、お掃除の業者さんとか、諸々の点検をしてくれる作業員さん、配達員さん、栗原さんたちとも顔を合わせて会話をする機会が増えたおかげで、やっと気持ちも落ち着いてきた気がする。匂いとか、手触りだけを残したままあの冬休みは背中の方に流れていって、今はもう眼前に日常が広がっている。その日常を、今の私は一つ一つ思い出しながら歩いている。
皆が寮を出ていったのを確かめてから浮かせていた腰を椅子に落としたら、口の端からため息が漏れた。皆がきちんと学校に行くのを見送った途端気が抜けるのも、これまでと一緒だ。ちょっとずり下がってしまったブランケットを引きあげて、手元に広げたボードに目線を落とす。寮を出ていった子たちの名前に一つ一つチェックをつけるのだ。谷くん、渡井くん、浅井くん。それから丸山くんも。
元通りの日常は、私を安心させた。共有スペースの簡単な掃除や不審者の警戒、荷物の受け取り、それから皆の健康管理。こうしていると、ここで凪くんと過ごしていた数日間の方が切り離されていくみたいだった。だけどチェックを終えてボールペンをテーブルに置いたとき、「おはよー」って間延びした声が頭に降ってきて、ちょっとだけどきっとした。
そろそろかな、って思っていたし、まだ寮に残っているのは彼一人だったからさほど驚きはしなかったけれど、どうしても薄ら動揺はしてしまう。完璧なポーカーフェイスを習得することはできなくても、せめて変に思われないくらいではいたいのに、ぱっと顔を上げたとき、口角はちゃんと上がりきらなかった。……皆と一緒に居てくれたら、私もちゃんと笑えるんだけどな。彼一人が相手だと、どうしても、変な意識をしてしまう。「おはよう、凪くん」って声は、前よりもほんのり固い。
「どーもー。飴もらってっていー?」
「どうぞ。…………飴も良いけど、凪くん、今日は朝ご飯食べた? 食堂には……」
「行ってなーい。てか、朝は時間ないし無理。ご飯、これから食べるとこー」
「えっ、まさかこの飴が朝ご飯ってこと……!?」
「ゼリーも食べるけど。歩きながら」
「ええ~……!」
「行儀悪いよ」って、思わず言ってしまう。いや、本当はもっと言いたいことはたくさんあるんだけど。時間がなくても食堂でちゃんと食べようよ、とか、冬休みはしっかり食べてたじゃん、とか。だけど凪くんはどこ吹く風だった。「じゃー授業中に食べるー」って言う彼に、どんな言葉を向けたら良いのか分からなくなってしまう。本気なのか冗談なのか、まずそこから分からないのが問題だった。
折角冬休みの間は三食ちゃんとご飯を食べていたのに(私の作ったものが「ちゃんとした」ご飯だったかどうかは別として)、寮生の皆が帰ってきて食堂が再開された途端、凪くんはまた元の食生活に戻ってしまった。朝はゼリー、昼は菓子パン、夜は三日に一回だけ食堂に行って、あとは部屋で簡単に済ませてしまうのだ。
食事の度に管理人室に来る癖がつけば食堂に行くのも億劫じゃなくなるんじゃないかって期待していたけれど、そういうわけでもなかったらしい。まあ、実際の所凪くんは管理人室に入り浸って、だらだらゲームをしていただけだったから、「癖」もなにもなかったんだけど。やっぱり、ちゃんと部屋に帰らせるべきだった。途中で来なくなっちゃったらなっちゃったで、そのときまた新しい対応をすればよかっただけの話なんだから。
だけどこの冬休みを、凪くんは「良かった」って言った。皆が帰ってくる前日の夜のことだった。ご飯が食べられるのも、お茶が出てくるのも、だらだらできるのも、すっごく楽だったんだって。そう言われても喜べない。接し方、間違えてしまったのかも、って思ってしまう。「また春休みもよろしくー」って言われたときは、「凪くん、春休みはご実家に帰る約束してるんでしょ……!」って眉根を寄せて答えてしまった。「や、じょーだんだし」って顔色も変えずに言われてしまって、翻弄されていることを自覚する。年の離れた男の子に振り回されて、なんて情けないんだろう。
「……食事のこととか色々、言いたいことはいーっぱいあるんだけど……。とりあえず遅刻されても困るから、今はいってらっしゃいって言います……!」
「お、やった。お説教回避だ」
「お説教される自覚があるんだったらもうちょっとちゃんとして……!」
「えー。これでもしてるつもりなんだけどなー」
籠の中から取った飴の封を、凪くんはび、って破く。カウンターの下にあるゴミ箱にきちんと捨てて、それからリュックサックを背負い直すと、「んじゃ、いってきまーす」って言い残して、さして急ぐ様子もなく外に出て行ってしまった。
「……いってらっしゃい……」
自動ドアの向こうに行った凪くんは、聞こえてもいなそうだったのに、ひらって手を振ってくれる。それにいちいち胸が苦しくなる自分がバカみたいで、嫌だった。
冬休みが終わったら、私たちは呆気なく、これまでの私たちになった。
あの日々のことは、だから、夢だったのかもって時々思う。
管理人室でご飯を食べた。あのドラマは最後まで観た。きれいにまとまっていたけれど、終わり方は、個人的にはあんまりだった。凪くんはその隣でゲームをしていた。私はたまに溜まった仕事をしたし、凪くんはスマホを持ったまま眠っていたこともあった。話をすることはあっても、互いの表面を撫でるような、細やかなものばかりだった。
精神的な距離が近づいたわけじゃない。ただ物理的に隣にいただけ。そしてそれは、凪くんが「面倒臭くなかった」からなだけなのだ。特別なことなんか一個もなかった。大晦日は高いお肉の入ったすき焼きを食べたけれど、彼は「なんか今日もー眠いかも」って夜の九時には部屋に戻ったし、新年の挨拶をしたのは翌朝だった。プランターに水をやっていたら、凪くんが珍しく、外に出てきたのだった。
「おはよー、さん」
「あけましておめでとー」って。
凪くんにしては早い時間だったから、びっくりした。「早起きだねえ」って目を丸くした私に、凪くんはなんにも答えないで、青と黄色の混ざった空を見上げていた。吐いた息が白く立ち上っていた。朝露が昇ったばかりの太陽に煌めいて、草いきれのにおいが微かにした。きれいだった。寮の前は静かで、世界に二人で取り残されたみたいだった。
初詣なんか行くわけもなかったし、初売りにも出かけなかった。お節も食べたりしなかった。お正月らしくないお正月を、私たちは過ごしていた。三箇日が明けて、寮生の皆が戻ってくるまでの数日間。それからは凪くんも私もその時の話をすることはなかったし、あの日々がきっかけで何かが進展らしきものがあったわけでもない(あっても困るけど)。だから、数年後にはありとあらゆる記憶や思い出に埋もれてしまうんだろうと思った。凪くんにとっては、そういうものなんだろう、って。
冬休みが終わってほっとしたのか、ちょっと残念だったのか、分からない。だけど日常に戻った私たちは、これからまた、ただの管理人と寮生として日々を過ごすのだ。そこに私の感情なんか挟み込む余地は、一つもなかった。それだけは、確かだった。