もしも管理人室が和室で、こたつとかまで置いてあったら、凪くんはそれこそ寝るときくらいしか自分の部屋には帰らなかったと思う。
 いや、だけどもしも横になれるスペースがあったなら、凪くんはもうそこで寝てしまって、部屋には一切帰らなかったんじゃないだろうか? そう真剣に考えてしまうくらい、凪くんはほとんど我が家みたいな顔で管理人室に入り浸っていた。よっぽど居心地が良いんだろうとは思うけど、複雑だ。
 「部屋、戻んないの?」って聞くと、凪くんは「んー、もーちょっと」ってスマホから視線を上げずに答える。「買い物に行きたいんだけど……」って言うと、「いってらっしゃーい」で終わる。……一応、管理人室の鍵は閉めていきたいのに。でも、凪くんはつい無言になってしまった私を察してくれたみたいだった。



「あ、そっか。さんが外出るなら、俺ここにいちゃだめなのか」

「うん、まあ、私が外出してるときは流石にちょっと良くないかな……」

「だよね。じゃー俺、エントランスで待ってるね」

「部屋に戻ってていいんだよ……!」



 エレベーターに乗って部屋に帰るのって、凪くんからしたらそんなに面倒臭いんだろうか。でも凪くんは、本当に管理人室の目の前、エントランスにあるベンチに腰を下ろしてしまった。ゲームのキリが悪いとか、そういう理由もあるんだろう。ていうか、実際そうなんだと思う。「気が向いたら帰るー」って、ほとんど零すみたいに呟いていたから。
 外よりはマシとは言え、エントランスは管理人室と違ってさほど暖房が効いていないから、トレーナー一枚だと冷える。風邪をひかれてしまっては困ると「そこにいるならこれ使って」って、管理人室に置いてあるブランケットを渡したら、凪くんは「ん」って受け取って、それを肩からかけていた。ポンチョみたいで可愛く見えてしまって、思わず眉を寄せてしまう。そうしないと、「うっ……」って口から声が漏れてしまいかねなかったから。
 折角心をがちがちに固めたのに、揺るがすようなことはしないでほしい。そんなこと思ったって、凪くんには届かないんだろうけど。
 動揺をどうにか咳払いで誤魔化して、「じゃあ行ってくるね」って、自動ドアに向かえば、「今日のご飯はー?」って聞かれたから、「未定!」って答えた。いってらっしゃいって声が聞こえた気がするけど、それは閉じられたドアの向こうで包まれるみたいに小さくなったから、振り返って手だけを振った。
 冬休みになってから、凪くんのペースに飲まれてしまっている気がする。凪くんと付き合う子がいたら、その子も振り回されて、こんな感じになるのかも。いや、でも恋人っていうよりはこれは母親に近いんじゃ? 恋人だったら、こういうときは一緒に買い物に行くのかな? 凪くんももっとちゃんと向き合うのかな。無駄な想像ばかりしてしまう。私には何の関係もない話なのに。
 ぐるぐると考えながら、もこもこのコートのポケットに両手を突っ込んだ。寮は道路から一段下がった場所にあるから、歩道に出る階段を上るとき、風が容赦なく吹き付けてきて、すっごく寒い。



「さむっ」



 年の瀬だからか、外は昼間だっていうのにひっそりしていて、私がつい漏らしてしまった声も思ったより大きく響いてしまった。視界の端に小さな白い犬を散歩させている女の子が映ったけれど、その子には聞こえなかったみたいで、安心する。葉っぱの落ちた街路樹は、どこか褪色して見える。この通りを少し歩けば、凪くんたちの通う白宝高校の豪奢な校舎は現われるのを、私は知っている。
 初めてここに来たときは夏だったのに、季節はぐんぐん進んでいた。蝉はいつの間にかいなくなっていて、染まった葉っぱは全部落ちてしまっていた。最近では、雪がちらつく日だってある。あんまりにもあっという間で、忙しない日々だった。ぼんやりしているうち、この冬もきっと終わってしまうに違いない。
 夏休みも冬休みも寮で過ごした凪くんは、ご両親に、春休みは帰ると約束しているらしい。基本的には放任主義で好きにさせてくれてはいるけれど、流石にこのままだと卒業まで会うことがなさそうだから、って言われたんだって。私に言わせてもらうなら、むしろお正月こそ帰った方が良いんじゃないの、って思うけど、凪くんはそれが面倒らしい。親戚と顔を合わせたり、挨拶したり、世間話に付き合うのが面倒だって言った。成る程凪くんらしいなあ、って頷いたのが、昨日の夜のことだった。普段だったらしないようなそういう個人的な話を、私たちはぽつぽつとしていた。
 冷たい風に身を縮ませながら、小走りでスーパーまでの道を行く。年末だから、色々高いんだろうなあ。安いお肉は売り場からごっそり消え去って、こう、年末ですよ! みたいな、お高い和牛とかが並ぶってこと、経験則として知っている。大晦日だからって大層なものを作るつもりはないから、そういうのは素直に困ってしまう。
 歩道橋を歩く私の視界の端っこに、いつものお花屋さんが引っかかった。「なんかしたいことないの?」って、この間の凪くんの言葉が不意に脳裏を過ぎったけれど、わざと知らないふりをした。そんなことより、グラム単価の安いお肉が買えるかどうかの方が、今の私には重要だった。
 寮生の子たちが戻ってくるまで、あと数日。それを乗り越えれば、凪くんと私も、今まで通りの管理人と学生に戻れるはずだった。一時的にご飯を作ってあげるだけのはずが、何だか少しずつ横道に逸れてしまっているのは薄ら自覚している。軌道修正はできなくても、でも、このまま何事もなく終わったらいいな、って思う。これくらいの距離感で過ごして、いらない感情は捨て去って、私は凪くんや皆にとって正しい管理人さんでいたかった。それが目下の目標だった。








「さっきさん宛てに荷物届いたよ」

「エッ」



 だから、本当に迂闊だと思う、色々と。
 凪くんはまだエントランスにいた。丸テーブルの上には、きちんと封のされた段ボールが一個。どうやら凪くんが代わりに受け取ってくれたらしい。心臓が止まりかけるくらいびっくりしたけれど、荷物やバッグを落とさなかったのは、我ながら偉いと思う。
 すっかり失念していた。そういえば、お母さんに冬物の衣類を送ってほしいってお願いしていたんだった。本当は年末年始は家に帰る予定だったから、その時に持ってくればいいと思っていた分の洋服たち。申し訳なさと羞恥で、「おわあ~……」と声が漏れる。しっかり者の管理人でいたいのに、現実は甘くない。



「ごめんね、凪くん。ありがとう……! 荷物届くって聞いてたのに、めちゃくちゃ忘れてた……」

「んーん、受け取っただけだし」



 凪くんは、私がお礼を言っても全然顔を上げない。相変わらずポンチョみたいにブランケットを肩にかけて、ゲームに勤しんでいる。いきなり荷物が届いたんだったら、今やっているゲームも中断しなくちゃいけなかっただろうから、面倒だっただろうに。そう思ったらやっぱり申し訳なかった。買い物、もうちょっと遅い時間に行けば良かった。



「面倒かけちゃったお礼に、今日はすき焼きにするよ~! めちゃいいお肉買ったから……!」

「え、マジ。やった。和牛?」

「和牛! ていうか、大晦日だからか安いお肉が全然なくて……。前もってちゃんと買い物しとけばよかったなあ」

「へー、そんなもんなんだ」

「そんなもんなんだよ~。仕方ないけどねえ」



 とりあえず、先に買った物を冷蔵庫に入れてこよう。荷物はその後だ。――そう思って、管理人室を経由して部屋に戻ろうとしたときだ。「――さん」って、急に名前を呼ばれたのは。
 本当に不意打ちだった。びっくりして、何にもないところなのにブーツの爪先が引っかかって、転びそうになった。さん。今、さんて言った? さん、じゃなくて?
 思わず振り返る。ベンチに座ったままの凪くんは、眠たげな目を私に向けていた。その口元は、持っていたスマホで隠れて、ちっとも見えない。聞き間違えかな。
 でも凪くんはもう一回、それを繰り返したのだ。



「――下の名前、さんて言うんだね」



 って。
 日常会話だ、こんなの。だって荷物を受け取ったんだから、名前が目に入るのなんて当たり前だ。いちいち動揺する方がおかしい。
 でも、無理だった。顔は絶対赤くなってたし、「うえ」って、変な声が出てしまった。もっと、ちゃんと演技ができたら良かった。顔に出さないでいられたら良かった。堂々と胸を張って、「そうだよ」って言うだけで良かったのに。



「初めて知った」



 って、凪くんの双眸が私を見た瞬間、それだけで、息が止まるかと思った。
 ちゃんと捨てるって決めたんだから、捨てさせてほしかった、もっと簡単に、なんの後悔も逡巡もなく。


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