さんは、地元に帰って花屋で働いている。
食堂のおばさんからそう聞かされたとき、「へー」って思った。めちゃくちゃそれっぽいじゃん、って。
「まあ、お店の住所くらいは教えてあげるけど……。でも、ちゃんに迷惑かけるんじゃないわよ?」
「かけないかけない。一年のときお世話になったから、お礼言いに行くだけー」
「ふうん……。そんな殊勝なこと言うなんて、凪くんも大人になったわねえ」
じゃあ、ちゃんによろしく。今度こっちに来たら顔出してって言っといてね。そう頼まれて、住所の書かれたメモを受け取った。聞いた事の無い街の名前だったから、スマホで検索した。
もしも俺がもうすぐ海外に行くことが決まっているとか、ブルーロックで一躍有名になったとかそういうのがなかったら、食堂のおばさんもこんなに簡単には彼女の個人情報を渡したりはしなかっただろう。そうじゃなかったら玲王に頼んで見つけだしてもらえばいいかって思っていたけど、なんとかなってラッキーだったな。
花屋の名前を打ち込んで「営業中」って文字が出たのを良いことに、俺はその足で駅へと向かった。
やっと会えるって思ったら、不思議とちょっと早足になった。
そうして俺は彼女に再会することになる。
俺には全然馴染みのない、東京の片隅の小さな街で。
「は、え、えぇ、な、凪くん?」
びっくりしすぎて、変な声が漏れてしまう。口を押さえて、一歩後ずさった。置いたばかりの鉢に踵が当たってちょっと心臓が跳ねたけれど、倒れはしなかったから安堵する。
目の前にいるのは、どう見たって凪くんだった。
ラフなパーカーに、ゆるっとしたパンツ。白いスニーカー。鄙びた田舎の小さな花屋に、まさか今世界を賑わす凪誠士郎がいるなんて、一体誰が思うだろう。夢だと思って、自分をビンタした。普通に痛くて、二度びっくりした。
「うわ、殴った」
「えっ、ゆ、夢じゃない……!」
「え、夢なわけなくない?」
「いや、え、だって、なんで凪くんがここにいるの?」
お花ください、って言われたけど、凪くんがお花を買いに来たわけじゃないってことくらい流石に分かる。ドッキリかも、と思って辺りを見回したけれど、カメラさんとかスタッフさんとかの姿はないし、凪くん自身もスマホを構えたりはしていなかった。それでも、やっぱり実は何かの番組なんじゃないだろうかって気持ちが拭えない。だってほら、ブルーロックも最初はそんな感じで、選手たちには分からないまま内情が配信されていたわけだったし。
「ブルーロック的なドッキリ……!?」って思わず口にした私に、凪くんは「へー、ブルーロック知ってんだ」って、ちょっとズレた言葉を返した。「知ってるよ、当たり前じゃん! ずっと見てたよ、凪くんのこと」ほとんど何も考えずにそう答えたとき、凪くんの目が、少しだけ丸くなった気がした。
「海外に行く前にお世話になった人へのご挨拶ドッキリ……ってこと……!?」
「や、カメラないじゃん」
「めっちゃ遠くから撮ってるとか……!」
「ないない、俺一人」
「それこそなくない? 凪くんがそんな面倒なこと、どうやって」
「ここの場所は食堂のおばさんに聞いた。……偉くない? あんたのこと捜してここまで来ちゃった。褒めてー」
「え、偉いっていうか、それは、すごいと思います……。でも、なんで……?」
番組の線を否定されたことで、少し肩の力が抜けたけれど、全然状況が掴めない。
確かにブルーロックプロジェクトは、もう終了している。凪くんたちはそれぞれプロ選手としての道が用意されて、彼だってもう、これから海外に行くことが決まっている。閉鎖空間に閉じこめられていた彼らは外に出て、束の間の自由を満喫している、ってニュースも見た。だけどそれで、どうして凪くんが私を捜しにくる必要があるんだろう。
なんで、って尋ねた私に、凪くんは相変わらず表情を変えない。
「えー、なんで、って、待ってたんだけど、俺」
「待つ……?」
凪くんは昔から、言葉が足りない。面倒くさがって、いろんなものを省略してしまうのだ。だから今回もそう。要領を得ずについ眉根を寄せる私に、凪くんは言う。「だってあんたが言ったんじゃん」相変わらず抑揚の薄いその声に、目を瞬かせる。
「――卒業するまで待たなきゃダメって」
その言葉が染みこむのに、どれだけ時間がかかっただろう。
私はずっと、凪くんのことを見上げていた。彼が言った言葉の意味が、飲み込めなかった。卒業するまで待たなきゃダメ。私が言った。卒業するまで。ぐるぐる考えて、いつかのドラマに繋がった。冬休み、凪くんの隣で私が観たあのドラマ。あの時私は言ったのだ。「ダメだよ、告白するなら卒業を待ってからじゃないと」って。繋がっても、凪くんの双眸に映る私は、目を丸く見開いたままだった。
だって、意味がわからなかったから。
私が伯母から任された寮で生活していた男の子。四つも五つも年下だった。好きになっていいわけがなかった。無意識にでも彼に惹かれた私は管理人失格だった。だから、伯母から契約を更新しないことにしたって話を聞かされたとき、本当は少し、ほっとしたのだ。これで諦められるって。ちゃんと正しく離れられる、って。
でも、これじゃまるで、凪くんが私に告白しに来たみたいじゃない。
意味がわからなくて、もう一回自分の頬を叩いた。「うわ」って、凪くんが判で押したような反応を見せたけれど、それでもやっぱり感触も痛みもあった。夢じゃなかった。凪くんがここにいるのも、私を捜しに来たのも、今、彼が私に伝えようとしていることがあるっていうのも。
「えぇ~……っ」
声を漏らしながら、両手で口元を押さえる。「なんか、変わんないね、あんた」って、凪くんが目を細めるから、私はもう呼吸もまともにできない。
自分が凪くんに好かれている可能性なんて、考えたことがなかった。
私とは離れた、対岸にいた人。別れてからの彼はあんまりにも遠くて、もうどうしたって交わることない人で、だから、信じられなかった。
凪くんが、私の手を取る。ひんやりして、冷たい手だった。男の人の手だった。「まって」って言葉が、出てこない。
「さん」
凪くんはもう、私をさんとは呼ばなかった。顔を覗き込まれる。眠たげな目が近くにあるだけで、私は二年前、あの寮で過ごしていた日々を思い出す。「卒業したんだけど、俺」凪くんが、微かに首を傾げる。あの頃よくそうしていたみたいに。
「待つの、飽きちゃった。もう好きって言っていい?」
でも、そんな風に告白されるとは思わなかったな。
何か言おうとしたら、視界が一気に滲んで、言葉に詰まった。年上なのに、泣いちゃだめなのに、って思ったけど、凪くんは私の手をぎゅって握って、ずっと返事を待ってくれていた。
私はこの人の、こういうところが好きだった。
試合、観てたよ。ゴールかっこよかった!
そういうメッセージをスマホに送ったのは、凪くんの出場していた試合が終わった直後だった。荷造りをしながら応援しよう、って思っていたけど、実際に試合が始まってしまうと完全に手が止まるんだから困る。
サッカーをしている凪くんは、すっごくすっごくかっこいい(勿論、一緒に試合に出ていた御影くんも)。元々かっこいいのにフィールドにいると二千倍はかっこよく見えるわけで、畢竟、男の子のファンは勿論女の子のファンも当然ながら多かった。モデルの女の子がファンを公言しているのを見た時は胃が焼き切れそうだったけれど、でも、凪くんは「キョーミなーい」って言う。「俺、彼女いるし」って。「彼女」って言われる度、私が胸を押さえていることなんて、凪くんは全然知らないんだろう。
空の色の違う国の、まだ熱狂覚めやらぬスタジアムの映る映像を眺める。「会いたいし、おいでよ」って言われて、とりあえず小旅行も兼ねて行ってみることにしたけれど、たったそれだけで大冒険でもするみたいにドキドキする。自分一人じゃ絶対に広げられなかった世界が、ちゃんとそこにある。
昔凪くんがプレゼントしてくれたふら輪のクッションごとスマホをぎゅって抱きしめて、ベッドに転がった。リアルタイムで試合を観るために早起きしたせいか、瞼は少し重いけど、あと何時間かしたら凪くんは電話をくれるって知っているから、ちゃんと起きていよう。
スマホの壁紙は、二年前に咲いたチューリップだ。凪くんが、「撮っといた」って送ってくれたもの。たっぷりとした赤い花弁を指先でそっと撫でる。私たちの背中には、思い出ばかりが溢れている。