食事を提供する期間は寮生の皆が帰ってきて、食堂が再開されるあたりまで。三食決まった時間に管理人室に取りに来ること。ゼリー菓子パン魚肉ソーセージは一旦やめること。
 とか何とか言われてしまったけれど、正直けっこー面倒臭い。どーせ作ってくれるんだったら、部屋まで届けてくれたらいいのに。わざわざ食事のために一日三回部屋を出て、エレベーターで一階まで下りて、管理人室の扉をノックして――なんて、俺にとっては結構な重労働だ。そもそもそれができるんだったら、食堂だって毎日ちゃんと利用してるでしょ。
 でもさんはそういうとこまで頭が回ってないっぽい。「約束ね」って真剣な顔して小指を差し出してくるんだから。
 エレベーターの前だった。買い物に行くつもりで出てきたのに、そういう話をされて、ほとんど流されるように寮の中に戻って来てしまったのだ。でもここにきて、頭の中に天秤が浮かぶ。この人の提案を断って、今からご飯を買いに行って、ゼリー菓子パンギョニソで過ごすことと、ここで指切りをして、これから一日三回、そこにある管理人室まで来ること。どう考えたって前者のが楽だ。さんだって、俺なんか放っておいた方が絶対煩わしくないでしょ。
 そもそもこの人、なんでそこまでするんだろ? 管理人だからって別に、そこまでする義理はなくない? それで給料が上がるわけでもないのに。俺だったら絶対しない。面倒臭い。
 だけど前のさんも、でも、「ねえねえ、凪くん」って俺を呼んで、お弁当を渡してくれたことがあった。「自分のお昼ご飯にと思って作ったんだけど、なんか食欲ないから良かったら代わりに食べてくれないかな」って。皺のある手の中にあったお弁当箱は、あの年代の女の人が食べるには少し大きい気がした。煮込んだハンバーグ、普通に美味しかった。お店の味じゃんって言ったら、照れくさそうに笑っていた。
 夏休みだった。窓から差し込む光は強すぎて、影の色は青かった。食堂は閉まっていて、他の寮生たちもいつの間にかいなくなっていて、俺達は二人きりだった。
 いつの間にかあの人もいなくなっていたけれど。



「凪くん?」



 小指を出したままのさんに名前を呼ばれて、我に返る。
 「寝てた?」って、本気なのか冗談なのか分からない顔で尋ねられたから、「寝てたかも」って適当に答えておいた。さんは自分から聞いたくせに、「えーっ……」って、びっくりした顔をする。
 それが何となく面白くないように思えて、差し出されたままだった彼女の小指に自分のそれを絡めた。びく、ってさんの子供みたいに小さい指が動いて、思わず彼女の顔を見る。全然目が合わなかった。視線を彷徨わせながら、さんはその顔を赤くしていた。なんなんだろ、この人。ころころ表情が変わる。指切りしたそうだったから、してあげたのに。



「はい、ゆびきり」



 呟いた声が、少しだけ掠れる。さんの指は、ちょっと力を入れたら折れそうなくらい細かったのに、妙に熱かった。つるつるした爪が、貝殻みたいだった。
 お弁当を手渡してくれたあの人の手とは、全然違った。
 めんどくさかったけど、指切りしちゃったから、仕方ない。








「……部屋に戻るの面倒くさい」



 その日、約束の十九時に凪くんはきちんとやって来た。
 ご飯に具だくさんのシチューと、冷凍のやつを揚げただけのコロッケ、それから作り置きしていた副菜何種かを乗せたトレイを凪くんに手渡そうとしていた私は「えっ」と短く声を上げてしまう。



「戻って食べるのめんどくさい。食べ終わったらあんたに食器も返さなくちゃでしょ? じゃあもうここで食べれば良くない?」

「ああ……。確かに……?」



 管理人室の隅っこにあるテーブル(この前私がうっかり紅茶を零してしまったあそこだ)を指差されて、つい納得してしまう。部屋まで届けてしまっては甘やかしすぎだと思ってここまで来て貰ったけれど、凪くんの言う通り、今から凪くんが部屋に戻って、ご飯を食べて、食器を洗って持ってくる、ってなると、ちょっと大変すぎる気もする。元々余分な食器はないから、明日の朝ご飯を取りに来るときに返してくれたらそれでいいとも言えないし。
 食堂を利用するときよりも凪くんの負担になる、っていうのは確かにちょっと違うかな、と思って、二つ返事で頷いた。三食ここに来て食べる、ってことをしてくれるなら、冬休み後も食堂を利用するのに抵抗がなくなるかもしれないっていう考えもあったっていうのもあるけれど。



「やったー、おじゃましまーす」



 凪くんは私の手からひょいとトレイを持ち上げると、テーブルにそれを置いて、さっさと座ってしまった。きちんと両手を合わせて「いただきまーす」と口にしてから箸を手に取る凪くんは、背中は丸まっているけれど、ちゃんとご飯を食べようっていう意思は感じられた。箸使いは、案外きれいだった。
 何だかちょっと落ち着かない。自分が作った物を目の前で食べられるのって、結構ドキドキする。あんまり気にしないで冷凍していた副菜から適当に選んでぽいぽいお皿に入れてしまったけれど、よく考えたらシチューになますは合わなくない? 体調が悪いわけでもないんだし、もっとこうガツンとしたやつの方が良かったかな? お肉! みたいなやつ。凪くんの反応が気になる。凪くんは美味しいとも不味いとも、口にしない。料理は出来る方って思ってたけど、もしかして、思い込みだったのかもしれない。どうしよう、凪くんの口に合ってなかったら。味が濃いとか薄いとか変とか思われてたら。
 色んなことがぐるぐると頭を巡って落ち着かない。一緒に食べるわけでもないのに向かいの椅子に座るのも、なんか変だ。いたたまれなくなって「私、部屋に行っててもいい?」って聞いたら、凪くんは「どっちでもー」って言うから、お言葉に甘えて奥に引っ込ませてもらうことにした。危ない物とか大事な物は出しっぱなしになっていないから、凪くんを一人にしても大丈夫だろう。
 管理人室から続くドアに手をかけて、「何かあったら呼んでね」って言い残して、ドアノブを回す。身を滑り込ませて扉を閉じた途端、急に胸が爆発しそうなくらいにばくばくと音を立てた。立っていられないくらいだった。なんだろう、すごく、すごく今、大変なことをしている気がする。自分から言い出しておいて、本当に今更なんだけど。



「えぇ~…………」



 ずるずると座り込んで、顔を覆ったら、痛いくらいに頬が熱い。
 私、ちょっと軽率すぎたかな。これから三食あそこで凪くんがご飯を食べていくって考えたら、なんだか妙に落ち着かない。心がざわざわしてしまう。寝込んだときの浅井くんみたいに、凪くんが自分のお部屋で食べるっていう前提で提案したことが、こんなことになるなんて。いくら心配だからって、しゃしゃりすぎてしまっただろうか? いや、でもゼリー菓子パン魚肉ソーセージなんて聞いたら、誰だって食生活の改善を図ってあげたくなるものだろう。相手が凪くんだからとか、絶対関係ない。
 ――でも今の私がこんなに緊張しているのは、相手が凪くんだからじゃないの?



「……………………」



 不意に思い当たった「それ」は、私の中にはっきりとした石みたいになって落ちていった。口元に手を当てたまま、「ええ……?」って小さく呟く。
 いつも遅刻ギリギリの凪くん。皆のために用意した飴はごっそり持っていくし、言葉はいつも足りないし、食堂に行くことすら面倒くさがる問題児。同じ寮生の子の名前もちゃんと覚えていないし、学校から帰ってきたときも、ボードにチェックもつけてくれない。ゲームばっかりしていて、何を考えているのか全然わからない、四つも(学年で言ったら、五個も!)年下の男の子。
 でも、花を育てようとしている私のこと、すごいって言ってくれた。
 球根を土に埋めた指先が優しかった。テーブルの角に頭をぶつけそうになった私を守ってくれた。絆創膏の貼り方を褒めてくれた、私のした、なんてことない話を覚えていてくれた。一緒に歩いているとき、私の好きなお花屋さんを指差してくれた。さっきしたゆびきり、ちょっと痛かった。ご飯を食べる姿、直視できなかった。たまにぱちぱちした光が見えた。横顔がきれいだと思った。あの夏を覚えていた。忘れられなかった。
 この感情を否定する要素は多いはずなのに、思い当たる節も同じくらい、ううん、それ以上に多いことに気がついて、両手で顔を押さえる。心臓がどきどきしていた。思い返せば私は、凪くんを前にして、こんな風にどぎまぎすることが多かった。あれもこれもそれも、全部「そう」だったんだとしたら? 気がつかないうちに、ずっと凪くんに惹かれていたんだとしたら。
 さあっと体温が下がっていく。



「――どうしよう」



 凪くんのことが好きだったんだ、私。
 そう思ってしまった瞬間、自分自身に絶望してしまって、息が止まった。だめだ、って、すぐさま思う。だって、頭の後ろ、一枚の扉を隔てたその先でご飯を食べているであろう凪くんは、私が伯母の代わりに一時的に面倒を見ている高校生の一人だ。年が離れているとか、向こうが私のことなんかどうとも思ってないとか、そういうことは問題じゃない。
 閃くみたいに、凪くんの一挙一動が脳裏を過ぎる。大人びた目とか、全然動かない頬とか、すぐ背中が丸くなるところ。一緒に歩くと、いつも首が痛かった。さぞモテるんだろうと思った。かっこいいもん、って。自分の気持ちに気付かずに。
 私は管理人で、あの子は高校生なのに。
 吸ったままの息が吐き出せない。わあ、って叫びたくても叫べなかった。すぐそこに凪くんがいるから。
 だけど誰がどう考えたって、凪くんは私が好きになっていい人なんかじゃなかった。職権乱用、公私混同、って言葉がぐるぐると頭の中を回り続けている。絶対よくない! って。
 凪くんへのこの感情をなかったことにしなければ、私はもう、管理人なんてやっていてはいけなかった。それだけは間違いなかった。


PREV BACK NEXT