凪くんと改めてお話する時間が取れたのは、伯母のお見舞いに行ってから数日後のことだった。学校から帰ってきたところを見かけて、「凪くん。今ちょっといいかな?」って直接声をかけたのだ。
 相変わらずゲームをしながら管理人室の前を横切ろうとしていた凪くんは、ちょっと緩慢な仕草で顔を上げる。一瞬どうしてかドキ、としたけれど、その眠たげな目は数メートルくらいの距離があれば見つめ合ってもざわざわしないみたいだった。



「あー…………いいけど、三分くらい待って」



 凪くんはそう言うと、再びスマホに視線を落としてしまう。ゲームのことはあんまりよく分からないけれど、タイミング、ちょっと悪かったのかもしれない。管理人室の椅子に座ったまま、「わかった!」って返事だけをして、ガラス越しに彼のことをじっと見る。
 柱に寄り掛かって、凪くんはゲームをしている。白宝高校の千鳥格子の入ったブレザーの内側は、今日は黒のパーカー。他の子みたいにネクタイを結んでいるところは、今のところ一回も見たことがなかった。でも、似合うんだよな、すごく。リュックサックはパンパンに何かが詰まっているときもあれば、ぺたんこで何にも入って無さそうなときもある(今日は後者だ)。感情がほとんど出ないその目は大きくて、鼻筋も通っている。落ち着いてるし、背もすっごく高いし、学校じゃ女の子にすっごくモテるんだろうなあ。やっぱこうしてると、凪くんすごくかっこいいもん。
 そんなことを考えていたら不意にばち、と目が合ったから、一瞬息が止まりそうになった。丁度ゲームが終わったところだったらしい。「お、終わった?」って上擦った声で尋ねる私に曖昧に頷いて、スマホをブレザーのポケットに押し込みながら、凪くんはこちらに来てくれた。



「ん、おわった。で、なに? さん」

「ごめんね、時間もらっちゃって。……ええと、冬休みの帰省のことなんだけど……」

「……………………。あー、あれか」



 たっぷりの間を取ってから傾げていた首を元に戻す凪くんは、私が何を言いたいのかが分かったらしい。一応、万が一気が変わっていたら、と思って準備していた、新しい申請書が私の手にあったのに気がついたからっていうのもあるかもしれないけれど。
 凪くんはカウンターに両肘をついて、ガラス越しに私を見る。いっつもぼんやりしている子だけれど、こうして向き合っていると飲み込まれそうになるのは一体どうしてなんだろう。一瞬身構えてしまったのを誤魔化すように、「そう、帰省のあれ」って言いながらもつい笑ってしまったけれど、凪くんはいつもの無表情を崩さなかった。



「前も言ったけど、俺帰んないよ。めんどいもん」



 予想していた答えだったから、それにはもういちいち驚いたりしない。「帰んないかぁ」って緩く頷きながら、手元の申請書の端っこを、ちょっとだけ折る。



「それはご両親も了承済み?」

「あー、聞いてないけど、でも別にいーって言うんじゃない? 好きにしていいっていつも言われてるし……。それに俺、夏休みも帰ってないしね」

「そっかぁ……。わかった。じゃあ一応ご両親にも連絡してね。もし必要だったら私からもお話させてもらうし、私も年末年始はここにいることにしたから………………え?」



 思いもよらなかった言葉がそこまで言葉を口にしてからようやく脳に染みこんで、つい落としかけていた目線を上げてしまう。だって今、凪くん、夏休みもって言った?



「凪くん、夏休みも帰ってなかったの!? 一日も!?」



 自分でもびっくりするくらい大きな声が出てしまったけれど、ガラス越しの凪くんからしたらさして驚くほどのボリュームではなかったらしい。「え、うん」って緩く頷かれて、ため息なのか感嘆なのか分からない、ほとんど息みたいな声が漏れる。
 だって、だって夏休み! 冬休みよりも長い期間、ずっと寮にいたってこと? 他の寮生たちみたいにおうちに帰ることもなく、勿論食堂も閉まっている中。それってなんか、すごく、こう……不健康な気がする。というか、不健全?



「ええ~……そうなんだ……。それ、退屈じゃなかった?」

「え、なんで? 天国じゃん。一日中だらだらできるの、最高でしょ。外、地獄みたいに暑いのに、涼しい部屋でゲームし放題だし、静かだし」

「毎日は飽きない……? あ、でもお友達とお出かけしたりとかもするか」

「そんな友達いなーい」

「そんな……!」



 ちょっと前に凪くんと同じクラスの浅井くんから聞かされた、数々の凪くんにまつわる話がぽんぽんと脳裏に浮かんでは消えて行く。学校でも一日中眠っているかゲームをしているかで、つるんでいる人はいない。そんなだから移動教室があっても起こされず、次の休み時間になっても席で眠りこけていたりするし、クラスのライングループにも入ってない――高校生って、そんなんだったっけ?
 でも凪くんは、そういうの、全然気にして無さそうだった。「冬休みもゲームし放題だし、うれしー」って、やっぱり感情の読み取りにくい表情で言うだけ。そう言われてしまっては、私もそれ以上彼の人間関係をとやかく言う気も起きなくなってしまう。



「………………せ、せめて、昼夜逆転はしないようにしてね」

「へーい」

「ご飯も食べるんだよ。夏休みもそうだったと思うけど、冬休みの間は食堂はやってないから……」

「りょーかい」

「あとはさっきも言ったけど、私も実家には帰らないで寮にいることにしたから」

「え、別にあんたは帰って良いのに」

「流石にそういうわけにはいかないでしょ……。まあ、兎に角ずっとここにいるから、何かあったら呼んでください。熱出たとか、怪我したとか」

「おなかすいたーご飯作ってーとか?」

「それはおかしい」



 真顔で首を振ったら、凪くんは「じょーだんじゃん」って言う。冗談がこんなに分かりにくいことってあるだろうか。
 本当に不思議な子だ。マイペースで、他人の目とか全然気にしなくて、堂々としていて。こんな風に振る舞えたら、誰からも傷つけられなくて済んだだろうか?
 でもそうだったら、今ここにいるのは私じゃないか。
 不要になった申請書の入ったファイルを机の脇の棚に戻しながら、「でも、そっかぁ、だからあの時、凪くんここにいたんだね」って、ほとんど考えもせずに口にする。凪くんは、「え、どのとき?」って、わざわざ尋ね返してくれた。凪くんとここで出会ってからもう四か月と捉えるべきか、まだ、と思うべきなのか、私には答えが出せそうにないけれど、でも、やっぱり私はあの日のことを今も覚えている。鮮明に。



「私が初めて引き継ぎにここに来たとき、凪くん、ここ通りかかったでしょ」



 まだ夏休みだった。外の街路樹に張り付いた蝉はじりじりと鳴き続けていたし、冷房の効いていた寮自体はひんやりとしていたのに、ストッキングの内側でじとりと汗をかいていた。
 寮生は帰省していると聞いていたから、だから、このエントランスでコンビニ袋を片手に持った凪くんが自動ドアを開けたとき、びっくりしたのだ。学生さんと会う心の準備が出来ていなかったっていうのもあったけれど、凪くんの横顔があまりにもきれいだったから。



「そっか、あのときも凪くん、神奈川に帰ってなかったのかあ」



 盲点だったなあ。そうぼやいて顔を上げたら、凪くんはちょっと不思議そうな顔をしていた。まさかと思って、「覚えてない?」って聞いた私に、凪くんはやっぱり「おぼえてない」って言うから、ちょっとだけ傷ついてしまう。
 私は覚えているのにな。白いTシャツにゆるゆるしたパンツを穿いた凪くんが、スマホを見ながら私の前を横切ったこと。
 伯母のこともあってどことなく薄暗く見えた寮だったのに、あのドアが開いて凪くんの姿が視界に入った瞬間、空気ごと入れ変わったみたいに思えたから。
 あの時は挨拶もすっごく素っ気なかったよねえって続けようと思ったのに、面倒臭くなったのか、凪くんは「じゃー俺いくね」って、カウンターから離れてしまう。「あ、うん、じゃあ」ってその後ろ姿を見送りながら、でも、あの時よりは良いのかなって、ちょっとだけ思った。あの時よりは凪くんも、打ち解けてくれているのかな、って。そう思ったらどうしてか、足の裏に力がこもるような気がした。








「――覚えてないわけないじゃん」



 エレベーターに乗り込んで扉を閉めた瞬間、ぽつりと呟く。
 ポケットの中から取りだしたスマホは、さっきのマッチの結果が開かれたままで、さして内容を確かめもせずに消してしまった。この寮のエレベーターの中は、空調の利きがあんまり良くない。「さむ」って呟いて、壁に頭を押し付ける。あの人が作ったらしい「冬期期間食堂閉鎖のお知らせ」が反対側の壁に貼ってあったのを、ぼんやり眺めたけれど、すぐにエレベーターは四階に着いてしまって、あんまり頭に入ってこなかった。
 あの日のことを覚えている。うっかりご飯を切らしちゃって、真っ昼間だったのに買い物に出なければならなくなった日。あんまり似合わないスーツを着て、迷子になった子供みたいな顔でいた人のこと。あの時のあの人の目が焼き付いて離れないのは、あの日がやけに暑かったからだ、多分。


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