締切りが近づいて、続々と私の手元に集まってくる皆の帰省の申請書の中に、凪くんのものはなかった。
 本当に、本当に帰らないつもりだろうか。一度面と向かって「帰る気はない」と伝えられているとは言え、それでもやっぱり改めて確認はしなくちゃいけない。ご両親の了承があるのかどうかも聞きたいし。
 でも実際、凪くんが寮に残るとしたらどうしたらいいんだろう。他の寮生は全員帰省する予定だし、当たり前だけど食堂もその間は閉鎖される。……凪くんの場合、食堂が使えようが使えまいがさして問題ではないとは思うけど。でもそうなってくると問題は、ただ私が寮を空けられなくなる、ってことくらいなのかな。年末年始は久しぶりに実家に帰ってのんびりしようと思っていたのに。本音を言えば、たまには私だって人に作って貰ったご飯が食べたかった。勿論、そんなことくらいで「だからお正月くらいおうちに帰って!」なんて凪くんには言えないし、言わないけれど。
 そんなことを悶々と考えながらお見舞いに行ったその日、伯母は珍しく身体を起こしていた。治療が始まってから辛そうにしていることが多かった伯母がそうしているのは久しぶりで、思わず「伯母さん、起きてて大丈夫なの?」と大きな声を出してしまう。大部屋だってことを思い出して、はっと口を押さえたけれど。



ちゃん」



 私の名前を呼ぶ伯母の声は、あの春よりもずっと細かった。
 ドキ、としてしまう。少し前にお父さんに言われた、「あまり数値が良くないみたいなんだ」って言葉を思い出してしまって。
 良くない。良くないって、それはもう、長くないってこと? 伯母さん、死んじゃうの? 頭を過ぎった疑問を口にすることはできなかった。今もそう。だって、もし頷かれてしまったらどうしたら良いんだろう。身近な人の死なんて、私は知らなかった。お母さんの方のおじいちゃんおばあちゃんは今も元気に暮らしているし、お父さんや伯母にとっての両親は、私が産まれるずっと前に亡くなっている。だから想像ができなかった。伯母がこの世からいなくなってしまうかもしれないこと。そういう未来から目を逸らして、管理人っていうお仕事に向き合うしか、私にはできなかった。子供じみた逃避でしかなくても。
 私の内心を知ってか知らずか、伯母はその眦をそっと細める。



「今日は調子がいいの。……よかった。ちゃんが来てくれる日で」



 調子が良い、って言葉に、それでも救われた思いになるのだ。例えそれがいっときのものであっても、伯母の表情は間違いなく、ここ最近の中でも落ち着いていたから。
 調子がいいならよかった、って、言葉を選びながら頷く。



「私も伯母さんと話したいこといっぱいあるんだ。……あ、でも、先にお花飾っちゃうね」



 あまり香りのきつくないものをと思って選んだ薔薇を見せながら努めて明るく笑う私に、伯母も笑みを見せてくれるのは嬉しかった。
 同部屋の患者さんが退院の準備をしているのか、カーテンの向こうで明るい笑い声がする。冬の晴天はどこか光が白くて、ちょっと眩しいくらいだった。だけどそういうひとつひとつが、今の伯母に生命力を与えているような気がした。



「ありがとう。きれいな薔薇ね。……最近は折角お見舞いに来て貰っても寝ちゃってて、全然顔も見られてなかったけど……いつもちゃんがお花持ってきてくれてたんだよね?」

「うん、そうだよ。邪魔になってなかった?」

「ううん、なるわけない。いつも目が覚めたらきれいなお花があって、嬉しかった」

「なら良かった! いつも寮の近くのお花屋さんで買ってきてるんだ。あそこのお店すごく好き。お花は皆つやつやしてて元気良いし、店員さんも色々教えてくれるし……。あ、そうだ、この前ね、チューリップの球根を買って、寮の前に植えたの。プランター何個か並べて。春には咲くと思う」

「ええ、すごい。楽しみだね。そういうところまで手をかけるなんて、ちゃん、管理人のお仕事向いてるんじゃない?」

「えっ、お花植えただけで向いてるとかないでしょ!」



 前にお見舞いに来たときに持って来たオンシジウムの中から元気がなくなってるものを間引いて、まとまるように薔薇を活けながら、つい笑ってしまう。だって私がやってることって、伯母さんの仕事をなぞっているだけだもん。そりゃあ資料とか請求書とか、ちょっとバラバラになっていた紙類の整理くらいはしたけれど(これは前職でたたき込まれたことだったから、私にもどうにかできる)、大体のことは、伯母さんがやってきてくれたことがあったから出来ているだけ。いきなりゼロからやれって言われたら、管理人のお仕事なんて絶対にできなかった。栗原さんとか、業者さんとか、学校の職員さんとか、寮の子たちだってきっと信頼して付き合ってくれたりはしなかったと思う。



「だからね、ぜーんぶ伯母さんのおかげ」



 伯母さんが作った、伯母さんの居場所を、私は一旦預かっているだけ。



「早く元気になってね。皆、伯母さんのこと待ってるから」



 病室は、いつもどこか甘い匂いがした。他の場所では感じないような独特の匂いだった。点滴に腕を繋がれた伯母の身体の奥で、ちょっとよれた鶴がひっそりと吊されている。寮の子が折ってくれたものだ。頑張れさんって書いてあるその羽を、伯母は何度撫でたのだろう。「ん、そうだね」って頷いた伯母は、もうすっかり痩せてしまっていた。
 古めかしい喫茶店で「それっぽい」って理由だけで頼んだクリームソーダの鮮やかな緑を、こんな時に思い出す。陽光の中で輝いていた。バニラアイスの白と、きらきら光っていた氷を、あの日私はソーダに沈めた。あの時伯母が言った「楽しいのよ、すごく」って言葉は、今はもう宙に浮いては聞こえない。ただ、神様、って思った。
 神様、奇跡が起きるなら伯母さんに起こして。








 凪くんのこと、話したかったんだけど。
 全然それどころじゃなかった。やっぱり私は伯母の前ではええかっこしいっていうか、全部「大丈夫!」と言ってしまうらしい。だって心配させたくないんだもの。自分の身体のことだけを、伯母には考えていてほしい。どうにか快復してほしい。元気になって、「楽しい」って言ってた仕事に戻ってもらえたらどれだけ良いか。だから私は問題なんか一個もないって嘯いてしまうのだ。



「大丈夫! 皆すごく良い子たち! 何も問題ない!」



 もしも伯母の体調が万全だったら、私の嘘なんかあっという間に見破られただろう。いや、見破ったっていうか、多分伯母は一人一人の名前を挙げて尋ねたはずだ。谷くんは彼女を連れ込んだりしてない? 丸山くんは騒音で竜胆くんに怒られてない? 渡井くんの、「とりあえず何でも燃えるゴミ」っていう癖は直ってる? 浅井くんは風邪ひいてない? 誰も脱走してない? 凪くんは大丈夫? って。
 谷くんは新しくできた彼女がアウトドア派みたいでお出かけデートが多いし、丸山くんは良いヘッドフォンを買ったらしく最近はとっても静かだ。竜胆くんは推薦で大学に合格したから、落ち着いてる。渡井くんは「年近い人にゴミのチェックされるの流石に気まずいんで……」って気を付けてくれるようになったし、浅井くんは元気で、皆ちゃんと門限を守ってる。凪くんが、ちょっと大丈夫じゃないだけ。
 最近やっと食堂に行ってくれるようになったけど、長期休暇も寮にいるって言うし、やっぱり凪くんは変わってる。接するのに気を遣うってわけじゃないけど、悩みが多いのも事実だ。どういう風に付き合ったら良いんだろう? それだけでも聞けたら良かった。
 でも、とりあえずは冬休みのことだよなあ。
 病院から寮までの道中、唸りながら歩いていたら、歩道橋のあたりで見覚えのある人物を発見した。遠目からでも分かる大きな身体に、丸まった背。オーバーサイズのトレーナーを着てのんびり歩くのは、凪くんだ。腕にビニール袋を下げているのを見ると、買い出しにでも行っていたのかもしれない。



「おーい、凪くーん!」



 名前を呼ぶと、ややあってから彼は顔を上げる。方向から考えて、きっと寮に戻るところだろうと思ったから、彼の傍まで駆けた。「んあ、さんじゃん」ちょっと眠たげな声に、どうしてか胸がざわざわしてしまう。そういえば最近、彼は私を呼ぶとき、「若い方の」って枕詞をあんまりつけない。



「これから寮に帰るところ? 私もなんだ。良かったら一緒に行こ」

「いいけど、ゲームしながらでもいい?」

「え、危ないしダメ……」

「えー」



 ケチ、って言うけれど、凪くんはちゃんとスマホの画面を暗くしてくれた。何だかんだ、良い子だよなあって思う。
 そうして凪くんと歩いていると、頭がじわじわと切り替わっていくのを感じるから不思議だ。さっきまではまだ私は「伯母が元気になるまでの代理」って気持ちが強かったのに、隣に寮の子がいると、「頑張らなきゃ」って気持ちになる。私がいっときの代理だろうと、伯母が管理人の仕事に復帰することがあろうと、そうじゃなかろうと、彼らに影響があってはいけないから。
 その時隣を歩く凪くんのビニール袋ががさりって音を立てて揺れて、はっとした。覗いちゃ悪いって思ったけれど、大量のゼリー飲料が透けて見えてしまうとなるとどうしてもこう、小言が出そうになってしまう。……一応三日に一回食堂に行くって約束は今も守り続けてくれているから、飲み込むけれど。
 でも、折角二人だし、チャンスかもしれない。何って、冬休みのことを改めて聞くのに。「ご実家には本当に帰らないの?」「ご両親はなんて言ってるの?」「ちゃんと早寝早起きできる? 食堂も栗原さんたちは来なくなるけど、ご飯も毎日三食食べるって約束してくれる?」…………いや、でも流石にちょっとうざいかな。うざすぎおばさんって思われそう。それはちょっと傷つく。
 うーん、って唸ってたら、不意に「ねえ」って呼びかけられて、「はいっ!?」って声をひっくり返してしまった。それで、息が止まってしまうことになる。だって凪くんが、至近距離で私の顔を覗き込んでいたから。
 陽の光を吸った目が、きらきらしてた。あの日の氷みたいに。



「わーっ!?」

「うわ、うるさ」

「ご、ごめ、急だったからびっくりした……!」

「いや、さっきから呼んでるじゃん」



 呼んでるじゃん、って言う割に、凪くんの声や表情に非難めいた色は一つもない。凪くんのそういうところ、一緒にいて安心できて、好きだ。他人に興味も期待もない分、額面通りに言葉を受け取るだけで良くて。
 それでもまだドキドキしている私を余所に、凪くんは「あそこ?」って、急に通りの反対側を指差した。歩道橋の向こう側、行き交う車や街路樹でちゃんとは見えないけれど、凪くんの指の先にあるのがお花屋さんだってことは、良く知っている。
 言葉足らずもいいところだった。私がもっとぼんやりしてたり、察しが悪かったら、会話にならないくらい。だけど私は、この間管理人室で凪くんにした話を覚えていた。学校に行く途中の歩道橋の近くにあるお花屋さんのこと。病院に行く前にも立ち寄ったから、余計に。



「前聞いた時は全然わかんなかったけど、普通にあんね、花屋。気付かなかったー」



 わかんなかったんだ。そう言えば凪くん、無言だったもんな。どんな顔をしていたかは全然覚えてないけれど。
 私がいつまでもぽかんとしていたせいだろうか。凪くんは私の顔をじっと見て、「違った?」って微かに首を傾げる。柔らかな髪が冬の風にそよいでいた。真っ黒な目の真ん中に、私はしっかり収まっていた。それにすっかり飲まれてしまう。本当は、冬休みのこと、話したかったのに。
 何だか顔がじわじわと熱くなってきてしまったみたいで、困った。両手で顔を隠して、「ちがくない……」ってどうにか言えば、凪くんは「花屋とか一生いかなそーだけどねー」って、私を置いて歩き出してしまう。凪くんって、本当に気まぐれだ。「待って待って」って慌てて追いかけたけれど、でも凪くんはポケットからスマホを取り出したりしなかったし、気持ちゆっくり歩いてくれていたから、すぐに追いつけた。凪くんは並んで歩くと私よりずっと大きくて、あんまり年下の男の子、って感じがしなかった。それがなんだか不思議だった。
 冬の、すっきり晴れた日だった。髪にまとわりついた病院の甘い匂いは、いつの間にか空気に混じって消えていた。


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