凪くんはあの日の約束を守ってくれた。三日に一回、それも夕飯だけだったけれど、食堂でちゃんとご飯を食べてくれるようになったのだ。
浅井くんたちに聞いた話だと、凪くんは途中で眠くなるとか、よっぽど食べにくい、固いものでなければどうにか完食はしていくらしい。時間はまあまあかかるし、良く食べる里崎くんなんかが代わりに食べてくれることも多いみたいだけど、それって大きな進歩だ。だって私が寮に来て以来、彼が食堂で食事をしたことは一度もなかったんだから。
「あいつ、おじいちゃんかよ」「いや、どっちかって言ったらあれは赤ん坊じゃないっすか?」って寮生の皆が話すのを聞いて、いけないって分かっているのに、ちょっと笑ってしまいそうになった。どことなく浮世離れしている凪くんが誰かの口にのぼるのが、嬉しかった。
「凪くん、食堂行ってくれたんだってね。どうだった? 久しぶりに行ってみて」
私が声をかけると、凪くんは「えー……」って、ちょっと考え込む様に間を取る。
「……やっぱめんどいかも。今から行くのやめてもいい?」
その言葉にだめだめ、って慌てて首を振る私に、凪くんは表情を変えることなく「へーい」って言うだけだ。同じようなやりとりを何度か重ねて、もしかしてからかわれているんじゃないだろうかって思いついてしまったけれど、凪くんの考えていることは私にはよく分からない。食い下がられることも、本気で直談判されることもなかったから。それに、実際に彼が食堂に行くのをやめてしまうってことは、今のところなかった。凪くんは私との約束を、しっかり守ってくれていた。
できたら朝とかもちゃんと食べてほしいんだけど、それはまだ難しいかな。凪くんが三年生になるまでにはどうにかそういうところも改善できたら――って考えて、慌てて首を振った。私は所詮、臨時だ。これから二年以上もここにいることは、多分ない。
でも、あの凪くんが食堂でちゃんとしたご飯を食べてくれるようになった、っていうのは、すっごく嬉しかった。自信がついた……って言うと、ちょっと違うかもしれない。どっちかって言ったら、凪くんがあんまりにもダメな私を同情してくれたってだけの話だと思うから。
伯母さんがいたときは二日に一回は食堂に行っていたって聞いているし、いくら栗原さんからも「凪くん、たまにだけどちゃんと来てるわ。ちゃん、頑張ったね」って労ってもらえたからと言って、こんなんで喜んでちゃいけないとは思うんだけど。
それでもやっぱり一つの大きな目標を超えることができた、っていうのは、それだけで物凄く嬉しかった。こっそりスーパーのケーキでお祝いしたけれど、生クリームでコーティングされたスポンジを口に入れた瞬間、ケーキなんか食べたの久しぶりだなって思って、どうしてか泣けた。
「おはようございます。さん、これ」
「ん? ああ、もらいます! ありがとうね」
「提出遅くなっちゃってすみません」
「ううん、まだ大丈夫だったよ。気を付けてね、いってらっしゃい~!」
「はい、いってきます」
ぺこって小さくお辞儀をしてから駆け足で寮を出ていく浅井くんに手を振って、それから小さく息を吐いたとき、「なにそれ」って頭の上の方から声をかけられて心臓が止まりかけた。「ひっ」って悲鳴をあげて、思わずその場で飛び上がってしまったけれど、頭突きをしなくて済んだのはそれだけ彼と私の間で身長差があるってことなのかもしれない。
ばくばくと音を立てる胸を押さえながら顎を持ち上げると、視界の端に色素の薄い、柔らかそうな毛が見える。最近の男子高校生は発育が良い子が多いけれど、こんな風に何の躊躇もなく人の頭上から声をかけてくる子なんてそうそういないし、そうじゃなくても、もう彼以外の子は既に寮を出ていったってちゃんと頭に入っているから、やっぱり私は今自分の背後にいるのが誰なのかくらい分かるのだ。
ちょっと距離を取ってから振り向く。白宝高校のブレザーの内側に相変わらずパーカーを着込んだその人は、まだ眠たそうな瞼をしょぼしょぼさせながら、私のことをじっと見下ろしていた。
「凪くん……!」
思わず名前を呼んだら「ん、おはよー」っていやにのんびりした声で言われてしまった。こういうところ、脱力してしまいそうになる。「おはよう……」とは返すけれど。時計を見ると、結構良い時間だ。学校まではさして距離はないとは言え、急がないと間に合わないだろう。
「凪くん、のんびりしてると遅刻しちゃうよ……!」
「えー……まだ大丈夫じゃない?」
「そんなことないよ! ついさっき浅井くん、ダッシュで行っちゃったよ」
「え? 誰だっけそれ、寮の人?」
「寮の子! それに凪くんのクラスメイトでしょ……!?」
「えー、そーだっけ……。さん、俺より俺のこと知ってんねー」
「おかげさまで……!」
八月の終わりから早四か月弱。毎日こうして向き合っていれば、寮生である彼らのことはいくらでも頭に入るものだ。自分に関わることですらきちんと覚えようとしない、凪くんが変わっているんだと思う。
「で、それなに?」
ついため息を吐きそうになってしまったときだ。凪くんに改めて、私が持っていた用紙を覗き込まれたのは。
目の前に大きな影が伸びて、思わず心臓が跳ねる。後ずさりしてしまいそうになったけれど、どうにか堪えた。凪くんが私の手元に目線を落としているってだけで、どうしてか緊張してしまって、指先に力がこもる。帰省外泊等申請書の、浅井唯良、って名前のところがよれてしまう。
「…………帰省外泊等申請書?」
「そ、そうです! 凪くんにも渡したよね!」
上擦ってしまいかけた声を、咳払いで整えた。本当は「え、そうだっけ」って首を傾げる凪くんを、ちゃんと追求したかったんだけど。どうしてだろう。凪くんのあの目でじっと見つめられると、妙に固くなってしまう。他の子の前では平生でいられる自分が、輪郭から溶かされていくみたいで、ちょっと居心地が悪い。
誤魔化すように小さく首を振った。プライバシーにかかわることだから、浅井くんの申請書は凪くんに見えないよう引き寄せる。凪くんの視線から逃れるように、早口で捲し立ててしまう。
「もうすぐ冬休みでしょ? 夏休みもそうだったと思うけど、長期休暇になるわけだから、その間皆がいつ地元に帰って、いつ寮に戻ってくるかっていうの、ちゃんと管理しなくちゃいけないの。凪くんもこれ、早く出してね。用紙なくしちゃったならまたあげるし……一応今日が締切りってわけじゃないけど、もうすぐだから!」
「え、俺別に帰省の予定ないけど」
「ぼんやりしてたら冬休みなんかすぐ始まっちゃうよ。ご家族とか地元のお友達とかと予定たてるのだって早いほうが良いんだか………………えっ? 帰らないの?」
「全然帰る気ない。めんどくさいから」
「えっ!?」
帰る気ない。
凪くんのほとんど抑揚のない言葉が、圧倒的な存在感を持って脳内で響き渡っている。
帰らない。帰らない? 年末年始に? お正月なのに? 年越し蕎麦もお節もお雑煮もあるのに? 面倒臭いって、だって、確か凪くんの実家は神奈川だ。飛行機で帰らなくちゃいけない距離にあるとか、離島だとか、山奥とか、新幹線も走ってないとか、そういうんじゃない。
「え、でも、凪くんのおうち神奈川だよね……!?」
どうにかそう口にしたら「よく知ってんねー」って、身体の横をすり抜けられてしまう。そのまま自動ドアの方に向かう彼を引き止めようとしたけれど、首だけで振り向かれて、身が竦んでしまった。それでもどうにか口にした「凪くん!」って呼びかけに、その目が一度、はっきりと瞬く。
「もー遅刻しちゃうし、いってきまーす。またね、さん」
本当はもう少し詳しく話を聞かせてほしかったけれど、遅刻、って言葉を出されてしまうと、どうしても弱い。だってさっき「遅刻しちゃうよ」って言ったのは私なんだもの。
喉元まで出かかった言葉は、それで全部飲み込まざるを得なくなってしまった。代わりに、ずるい、って言いそうになる。分かっててやってるんだって思うと、どうしても悔しかった。四つも年下なのに、私より一枚も二枚も上手なんだから。それもこれも、白宝高校に通う優秀な子、だからなんだろうか。
ぴかぴかに磨かれた自動ドアの向こうに、凪くんは消えて行く。それが閉じられた後、聞こえないとは知りながらも口にした「いってらっしゃい~……!」に、透明なドアの向こうで凪くんがちらりとこちらを見た気がしたけれど、多分、気のせいだ。