エントランスからエレベーターに向かわず、観葉植物の置かれた通路を直角に曲がったところに管理人室の扉はあった。それが開かれた瞬間、微かにコーヒーの匂いがした気がしたけれど、それはあの日の記憶がこびり付いているせいかもしれない。
 「どうぞ」って、緊張した面持ちで彼女は言う。促すように天井に向けられた手の平も、どことなく硬い。



「――うわ、ここ入るの久々」

「入ったことあるの?」

「……さんに呼ばれて何回か。おせっきょーは大体ここだったし」

「……ああそっかぁ、お説教かぁ……」



 ちょっと難しそうな顔をしながら、あの日のさんではなく、若い方のさんが俺に椅子を勧める。リュックを下ろして座った瞬間、「私はここに誰か入れるの、凪くんが初めてだなぁ」って何の気なく言われて、思わず顔を上げてしまった。棚の方で何かをしている彼女とは、もう全然、目なんか合わなかったけど。
 管理人室は三畳かそこらくらいの広さの、小さな部屋だ。デスクとノートパソコン、椅子と、それから書棚が置いてある。俺が座っているのは部屋の隅っこにある小さなテーブル、そこに備え付けられた、座面がふかふかしてないタイプの椅子だった。
 消化器とか警報盤、それから何か分かんないけど、スチール製の小さいロッカーみたいなやつはどうしたって無骨だったけれど、前来たときよりも全体的に部屋が明るく見えるのは、細々した雑貨の色味が柔らかいからなのかもしれない。この人の趣味なんだろうな、とぼんやり思う。このテーブルに転がってる、うさぎのボールペンとかも。
 エントランス側からは見えない部屋の隅には、ラベリングされたファイルとか、なんかの資料が整然と並んでいた。前はもう少し物が多くて、大事そうな書類が散らばっていた気がするけれど、そういうものの整理はこっちのさんは得意なのかもしれない。人は見かけによらない。
 パソコンデスクには小さな花瓶が一つあって、なんか、丸い菊みたいな花が数輪生けられている。名前は知らないけど、この形は最近見たような気がするから、寮内のどっかにも飾られているのかもしれない。「ここにも花ある」って言ったら、「良く行くんだぁ、お花屋さん。……学校に行く途中にあるでしょ? 歩道橋の近くの……あそこで買うの」って返されたけれど、いつもスマホばっか見て歩いている俺には、どこのことを言っているのか全然わからなかった。首を傾げる俺に、若い方のさんは気がつかない。



「何かあったかいの飲む? レモンティーはないけど、パックの紅茶ならあるよ。――この前スーパーで安売りしてて……アップルティーなんだけど」

「ちょっとぬるくしてくれるなら飲む」

「……凪くんて猫舌?」

「あっちぃの飲むの、面倒じゃん、時間かかるし」

「面倒かぁ……。じゃあ最初からぬるいので淹れるかぁ……」



 電気ポットには元々水が入っていたみたいだけど、わざわざ奥の部屋に戻って、新しい水に入れ替えてきてくれた。別にそのままでいーのに。指先一つでお湯を沸かしながら、若い方のさんはマグカップの準備をする。鳥のやつと、それよりもちょっと背が高いドット柄のやつ。これは薄ら見覚えがあるから、前からここで使っているやつだ、多分。



「……でも、ごめんね、急に時間もらっちゃって」



 白いブラウスにざっくりしたカーディガンを羽織ったその後ろ姿は、「寮の管理人さん」って言うよりよっぽど同年代の人に見えたけれど、でも間違いなく、この人は管理人で、俺はただの寮生だった。「別に」って口にして首を振ったけれど、さんは俺の要求通り、ぬるま湯で紅茶を淹れるのに集中しているらしく、返事は無かった。
 話がある、って、さっきこのさんは言った。ちゃんと時間をもらいたい、って。十中八九、っていうか、十中十、食事のことだろう。のらりくらり躱してきたけど、最近は切羽詰まった顔をされるようになってきたし、ここでもうちゃんと言質を取りたいんだと思う、この人も。「今度からは食堂で食べることにする」って、俺の言葉が、多分この人はほしいのだ。
 だけど正直、それでもやっぱり面倒臭かった。部屋で間に合うものを、どうしてわざわざ動いてまでどうにかしなくちゃいけないんだろう。ご飯、いっそトレイに入れて、部屋まで持って来てくれたら良いのに。一度そう言ったら、困った顔で「それはしない」って言われたけど。



「どうぞ。多分そんなに熱くないと思う」



 お茶の準備が整うと、彼女は俺にドット柄の方を寄越した。なみなみだ、と思ったけれど、時間差で置かれたもう一個の方もなみなみだったから、この人、普段からなみなみ淹れて飲むんだろう。そういうのが知れるのは、結構面白い。
 重たいマグカップを支えて、一口飲む。熱すぎず温すぎずで飲みやすいし、普通に美味しい。「うま」って言う俺に、「よかった」って笑うその顔は、だけどなんだかいつもよりも血色が悪い気がした。さっきから薄々思っていたけど、今日のこの人はちょっと変だ。目が合わないっていうか、表情も仕草もどことなく固いっていうか。
 マグカップを口に触れさせたまま、こっそり彼女を観察する。
 伏せられた睫毛の奥にある瞳は、そわそわと落ち着かない。背中もちょっと丸まって、俯きがちになっているせいでどうしても落ちてくる後れ毛を、ひっきりなしに耳にかけている。どうだっていい会話は出来るくせに核心をつくのは難しいのか、言葉を探すように視線を彷徨わせて、何度か口を開きかけては閉じている。――さっさと話せば良いのに。
 「ねぇ」って言いかけたときだ。言葉を出せなくて手持ち無沙汰だったらしい彼女が、テーブルの真ん中に転がっていたボールペンを片付けようと、そっとこちらに手を伸ばしたのは。
 でも、実際その手はボールペンを取ることはなかった。ボールペンに指先が引っかかった瞬間、彼女の分のマグカップの持ち手に手首がぶつかったのだ。そのまま止まっていれば良かったのに、驚いたらしい彼女はその手をわざわざ引き寄せてしまった。「あ」って声が一体どっちのものだったのかは、もう判然としない。
 なみなみ注がれていたマグカップの紅茶は、それはもう盛大に倒れてしまうことになる。俺じゃなくて、彼女の方に。



「わー!?」

「うわー……」



 慌てて椅子を引いたおかげで、彼女自身にはかからなかったようだ。まあ、かかっていたところで大分ぬるいから、火傷まではしなかったと思うけど。マグカップが落下までしなかったのも不幸中の幸いだろう。取り損ねたボールペンが時間差で床に落ちたけれど、マグカップはどうにか、ギリギリのところで横たわったままだった。



「わあ~……! や、やっちゃった……!」



 さんはしゃがみこんで、途方に暮れたような声をあげる。テーブルから雫になって滴る紅茶を気にも留めず床ばかり見ているのが、妙に危なっかしく思えた。テーブルの高さとか、自分が今いる位置とか姿勢とか、そういうの全然気にしていないようだったから。
 無意識に腰を浮かす。リュックが膝から落ちるのも気に留めず、彼女の方に足を向ける。水溜まりになった紅茶は踏まないようにしながら。



「拭かなくちゃ……! モップ持ってくるね、ごめん、待ってて凪く……」



 ああ、ほら、だから危ないって思ったんだ。
 腰を落として、足元ばかり見ている彼女は自分がテーブルの角付近にいる自覚がなかった。それで何の注意もせずに勢いよく立ち上がったら、頭をぶつけるに決まっている。だから、その頭蓋目掛けて手を伸ばした。床の濡れてるとこ、踏まないように、って思ったけど、ばしゃって音したし、爪先くらいは汚しちゃったかも。別に良いんだけどさ、そんなの。この人が思いっきり頭ぶつけてこぶとか作っちゃうよりは、全然。



「あっ!?」



 その頭に指先が触れたのと、がつ、ってテーブルに手の甲が勢いよくぶつかったのと、うっかり「いて」って言っちゃったのと、その時の衝撃で俺のマグカップからもちょっと紅茶が零れちゃった(なみなみだったやつ、なみ、くらいまでに飲んでたから、被害は少なめ)のは、ほとんど同時だった。
 俺の手に頭を押さえられながら、理解できない、って風に目を丸くするその人は、中腰の姿勢で俺の顔をじっと見つめていた。飲み込めないようだった。今、自分の身に何が起きているのかを。どうして座っていたはずの俺が目の前にいて、その上後頭部に触れているのかを、彼女は必死で考えようとしていた。
 大きな目が何度か瞬いて、それからさあっとその顔が青ざめたのは、それから数秒後のことだ。今日は元々青かった分、もっと、なんかこう、紫みたいになる。「わー!?」って声が口から漏れて、こっちまで「うわ」って言ってしまった。取り乱す、って、こういうことを言うんだろう。頭に置いたままだった腕を突然がしっと掴まれたから、ちょっとびっくりした。



「ご、ごめん、ごめんね凪くん、頭、守ってくれた!? 手、今ゴリって言ったよね? 血、血は……血は出なかった? 靴汚れてない? あっ、よ、汚れてる……っ」

「……急にいっぱい言われても」

「わ、わー! しかも血出てるよ、手の甲、皮剥けてる……っ」

「あ、ほんとだ。怪我してた」



 言われた場所に目を落とせば、丁度指の骨のところの皮が、ぺろって剥けて、血が出てた。でもこんなん大したことないし、舐めれば血くらい止まるけどね。なのに「待って待って」って、さんは棚の方に駆け寄る。絆創膏を取り出して戻って来たとき、紅茶の水溜まりを踏んで、ちょっと滑ってた。



「ご、ごめんね、怪我させちゃって……! 絆創膏貼るから手、見せて……」

「いーよ別に、こんなの」

「だめだめだめ、ばい菌入ったら大変でしょ!」

「えー」



 ぐいって手を引っ張られる。俺の手の上で絆創膏を剥ぐその両手は、全然俺のとは大きさが違った。こんなんだっけ、女の人の手って。そう考えたけど、そもそも他人の手なんかしっかり見たこと、今まで一回もなかった。無防備に差し出されたつむじは、右巻きだった。染めた髪の根元は、ほんのちょっとだけ黒くなってた。俺のより小さい頭に、小さい手。
 ざわざわする。
 年上なのに全然年上っぽくないし、ドジだし、こーしろあーしろとは言うけど、えらそーじゃない。ごねれば何とかしてくれるし。こんな怪我くらいで血相変えるのも、なんか、変じゃん。死なないのに。俺がご飯食べなくたって、知らない、めんどくさーいって無視してて良いのに、どうやって話したら良いかがわからなくて、言葉を探して、しまいには紅茶までひっくり返して。
 悶々、っていうか、モヤモヤする。自分でもお腹に生まれたこの感情の正体が良く分からないまま、小さな爪が俺の手の甲から離れるのを見ていた。「……怪我させちゃってごめんね。手、痛い……?」って、弱々しい声で尋ねられる。ひりひりするけど、痛いうちに入らないし、首を振る。
 手の甲に貼られた何の変哲も無い絆創膏はよれも皺もなくて、お手本みたいになって、すごい。絆創膏綺麗に貼れる選手権があったら、優勝できそうなくらい。
 手を浮かせて「きれい、すげー上手じゃん」ってまじまじと患部を観察する俺の視界、広げた指の奥で、だけど、さんは小さくなって項垂れていた。叱られた犬みたいに。「ごめんなさい……」って微かに震えた声が、二人きりの管理人室に静かに落ちて行く。俺達の足元に、紅茶に浮いたボールペンがひっそりと転がっている。
 そっと顔を上げた瞬間、ずび、と鼻を啜る音がした。「ごめんね」って、もう一回、さんは言う。



「……ちゃんと今日、お話して、決着つけなきゃって思ったの。凪くんに、きちんとご飯食べてもらいたくて。でも、どうお話ししたら良いんだろう、どうやったら伝わるんだろうって考えてたら、こんなドジしちゃった。凪くんに守って貰って怪我までさせちゃうし、だめだ……管理人、向いてない……」



 致命的に、どうしようもなく向いてない……。
 鼻声でそう言われて、思わず俯いていたさんの顔を覗き込む。
 重力で垂れた後れ毛とか、目尻に溜まった涙とか、湿った睫毛とか、きらきらした眼球、この人を形作る一個一個が、妙に綺麗だった。ぴちゃん、って、机の淵に溜まっていた紅茶の雫が、また落ちて行った。二人っきりだった。こんな小さな部屋で、俺達は今向かい合って、そんで俺は、この人を泣かせていた。
 零した紅茶、この人にはかかってないっぽい、って思ったけど、俺の目ので正座するさんの右腿は、良く見たらちゃんと濡れている。あーあ、って思いながら、もう一回その目を見る。べとべとに濡れた顔を、さんはその手で隠す。
 それにちょっとぞわぞわしてしまうのは、俺が変なのかな。
 紅茶が広がってないのを確認して、床に腰を下ろす。そのまま彼女に向き合ったら、「床、きたないよ……」って言われて、ちょっと面白かった。「あんたも座ってんじゃん」って、つい言ってしまった。それに続けて、「いーよ」とも。管理人、向いてないってことは、なくない? って言おうと思ってたんだけどな、勝手に口からでてきたのは、そっちの方だった。
 顔を隠していたさんが、俺の言葉に「え?」って首を傾げる。会話のテンポに、全然ついていけないみたいな顔だった。それがなんだか、面白かった。



「毎日……はまだちょっとめんどいけど、たまにだったら食堂行っても良い」



 だから、彼女にも分かるよう、きちんと伝えたのだ。



「変に悩ませて、こーしてまだどっかであんたに頭ぶつけられても困るしね」



 そこまで言って、やっとさんも理解できたのだろう。
 正座をしたまま俺の顔をじっと見て数秒、だけど吐き出されたのが「ほんと?」って言う、疑うような声色のものだったから、俺ってなんか信用ないっぽい。
 目、キラキラさせるこの人、なんか面白いかも、って、ちらっと思った。でも、本当に一瞬だけだ。



「――ほんと」

「……ほんとにほんと?」

「ほんとにほんと」

「…………!」



 とりあえず三日に一回でも良い? って聞きたかったけど、向こうから聞かれなかったから黙っておいた。鸚鵡返しの返事で満足したらしいさんは、感極まったように一度ぎゅって目を閉じた後、「やった~!」って子供みたいに笑うから、まあいいか、って思ったのだ。
 零れた紅茶のせいで、林檎っぽい匂いが部屋中に広がっていた。そこにいつかの、コーヒーの匂いは、もうなかった。


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